拙作は私の属する書道会では異端であろう。会の中では異端に見えても、その他の人には、会の中の作品は皆同じように見えるらしい。これは私の属する会だけでなく所謂社中展なるものは同じ傾向だと思われる。
自分の作品を創作だと自分自身では思っているが、深く考えてみると甚だ怪しい。誰かの作品を元に同じ題材を書くようなことは当然しないが、構図や構成にヒントを頂いているものはかなりある。この事は意識的というよりは無意識に行われているように思われる。つまり、見た物にある意味で囚われてしまっているのだ。書作品よりも寧ろ絵画や焼き物から、影響をを受けることが私は多い。
一輪挿しの薄も儚く気高く、群生している姿は勁く輝いているようだ。自然は何食わぬ顔で美を表している。
私は、何時か何かを創造できるのだろうか。
自分の作品を創作だと自分自身では思っているが、深く考えてみると甚だ怪しい。誰かの作品を元に同じ題材を書くようなことは当然しないが、構図や構成にヒントを頂いているものはかなりある。この事は意識的というよりは無意識に行われているように思われる。つまり、見た物にある意味で囚われてしまっているのだ。書作品よりも寧ろ絵画や焼き物から、影響をを受けることが私は多い。
一輪挿しの薄も儚く気高く、群生している姿は勁く輝いているようだ。自然は何食わぬ顔で美を表している。
私は、何時か何かを創造できるのだろうか。
生まれた時から、何か心に引っかかるものがあれば、この引出しに仕舞ってきたように思います。
特に、何だか解らない、不可解な事は、「不可解な事」という引出しに仕舞って、後の愉しみに採っておいたのです。
「楽しい」とか「悲しい」という引出しは使い切ってしまい、今はこの「不可解」という「引出し」が、頼りです。
薄を見て、期するものは無く、只、その風景を吸い込んできた、という感じです。