信心深い妻は毎日お経を上げる。信仰心の薄い私は傍らでテレビを見ながら聞くとはなしに聞いている。何のお経であるにせよ悪いものではないと思う。
信仰心もないのに、禅の本や聖書を読んだりもしてみる。なるほどと思ったり、感心したり、頭だけでの理解を繰り返す。妻にお経の意味を尋ねても明確な返事は無いであろう。でも、熱心にお経を上げる。それが信仰というものなのだろう。
意味の分らない文章を私は書く趣味は無いが、妻の直向さを見ていると、私の作品は頭で作り上げた作品であるような気がしてならない。
信仰心もないのに、禅の本や聖書を読んだりもしてみる。なるほどと思ったり、感心したり、頭だけでの理解を繰り返す。妻にお経の意味を尋ねても明確な返事は無いであろう。でも、熱心にお経を上げる。それが信仰というものなのだろう。
意味の分らない文章を私は書く趣味は無いが、妻の直向さを見ていると、私の作品は頭で作り上げた作品であるような気がしてならない。
「コンセプト」という言葉が、自分の卑小さを露呈してしまいます。
「信仰」の前に、私の「言葉」は「軽率」過ぎて、、、。