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「卵、食べてもいいんだ」と気づいた日本人 卵料理、その多様化の秘密を探る(前篇)

2016年03月13日 05時13分42秒 | Break time
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46293

食の研究所 > 特集> 日本と世界の食事情

「卵、食べてもいいんだ」と気づいた日本人
卵料理、その多様化の秘密を探る(前篇)

2016.03.11(Fri) 漆原 次郎
筆者プロフィール&コラム概要

 日本人は卵を年に329個食べているそうだ。ほぼ1日1個。メキシコ、マレーシアについで世界第3位だという。

「卵、そんなに食べてたっけか」と、驚く人もいるだろう。でも、実感がわかないとしても、それなりの理由は思い浮かぶ。

 卵料理はあまりに多様なため、卵を摂っている意識が起きにくいのだ。茹でる。混ぜてから焼く。そのまま焼く。生でかける。炒める。とじる。そしてほかの食材と混ぜあわせる・・・。

 仮に、卵の食べ方が「茹でる」だけなら、「ほぼ1日1個」の意識はもっと強まったにちがいない。

 そんな卵を、昔の日本人はほぼ食べていなかったという。これも驚きだ。卵がなかったわけではないのに、である。卵をほぼ食べなかった時代から、これほど多様な形で卵を食べる時代へ。その変わりぶりに理由がないわけがない。

 そこで、食べ方の多様化がどうして起きたのかという興味をもちつつ、今回は卵に目を向けてみた。

 前篇では、日本人の卵の食の歴史をひもといていきたい。卵が食べられ始め、食べ方が多様化していった経緯はどのようなものだったのか。

 後篇では卵の食べ方の多様性の秘密を、科学の視点で求めていきたい。調理をしているとき、卵にはなにが起きているのだろうか。

日本人は卵を食べることを避けてきた

 日本最初の歴史書『日本書紀』は、こんな記述で始まる。

<古、いまだ天地わかたれず、陰陽わかれざるとき、渾沌たること鶏子のごとく、その清く陽なるものは天となり、重く濁れるものは地となる>

「鶏子(けいし)」は鶏卵のこと。天地ができる前の混沌とした宇宙のたとえに卵が使われているのだ。

 卵を生む鶏も、神聖なものとして敬われてきた。天照大神が天岩戸に隠れてしまったとき、神の使いである鶏が鳴いて“太陽”を呼び出したと伝えられている。天照大神を祀る伊勢神宮では、いまも神鶏が飼われている。

 675(天武天皇4)年、天武天皇は牛、馬、犬、猿とともに、鶏を食すことに禁令を出した。「人間も動物も平等」とする仏教の戒律が理由だったと考えられている。

 その一方で、卵については食の禁令は出ていなかった。だが、日本人は卵を食べることを避けてきたのだ。そこには、食べると恐ろしい報いを受けるという因果応報の考えがあった。

 822(弘仁13)年ごろ成立した説話集『日本霊異記』には、卵を煮て食べていた若者が「灰河地獄」に落ち、爝火(かがりび)に焼き苦しめられる話がある。

 また1283(弘安6)年成立の『沙石集』にも、多くの卵をわが子に食べさせていた母親が夢枕で「子は愛おしきぞ、悲しや」と口にする女に出会い、それから程なくして子を亡くしてしまうという話がある。

 こうして日本人は長らく、鶏だけでなく卵を食べることを避けてきた。

カステラの渡来が解禁のきっかけに

 だが時代は移り、日本人は卵を食の対象としていく。その発端とされるのが室町時代末期、ポルトガルなどから入ってきた「南蛮菓子」だ。

 カステラやボーロなどには卵が使われている。渡来人たちがこうした菓子を罪の意識なく食べる姿を見て、日本人も卵を食べることを“解禁”するようになったと考えられている。

 江戸時代にもなると卵は幕府の食材になっていたようだ。1626(寛永3)年、後水尾天皇の二条城行幸の際には、3代将軍徳川家光率いる幕府は溶き卵をだしなどで調味してつくる「玉子ふわふわ」を出したという。

 日常食でも、1892(明治25)年になって書かれた『千代田城大奥』(永島今四郎・太田贇雄合著、上野新聞)には、将軍の朝食の「一の膳」(本膳)には落玉子(おとしたまご)の味噌汁が、また「二の膳」には卵焼きに干海苔を巻いた卵料理が出されていたとある。

 江戸時代、庶民の間でも卵の食べ方は多様化していった。1643(寛永20)年に出版された料理書『料理物語』では、金杓子(かなしゃくし)に卵を割り入れてそのまま湯煮して吸い物にした「美濃煮(みのに)」のほか、沸騰させた砂糖液に溶き卵を糸のように細く垂らし入れて固める「玉子素麺」、さらに前述の「玉子ふわふわ」などが紹介さている。

 玉子素麺は南蛮菓子の1つで、福岡の銘菓「鶏卵素麺」としていまも食べられているし、玉子ふわふわについては、江戸時代の流行作家だった十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の袋井宿の場面で「たまごのぶわぶわ」が登場することなどから、袋井市観光協会などが再現料理として推している。

 ここからさらに卵料理の多様性が開花するのは、『料理物語』から約1世紀半後の1785(天明5)年。『万宝料理秘密箱』という本の出版によってだ。

100以上の卵料理のレシピ集「玉子百珍」現る

 天明年間、豆腐やこんにゃくなど特定の食材で約100の料理を紹介する「百珍本」が流行した。奥村彪生の作による本『万宝料理秘密箱』の前篇には、103種の卵料理が収録されている。そのため「玉子百珍」の別名が付いている。


『万宝料理秘密箱』前篇の見返し。天明5年版の補刻。「一名卵百珍」の文言も見られる。「一名」は「またの名」のこと。(所蔵:国文学研究資料館)
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 この中にある現代にも通じる卵料理をいくつか紹介しよう。

「山吹卵」。ゆで卵の上に卵の黄味を塗り、細い竹の串に刺して、遠火でこがさないように焼く。

「海苔巻卵」。卵を鍋で、焼目のつかないように丸焼きにして、水に漬けておいた水前寺海苔をよく水拭きして板の上に置いて広げ、寒さらし粉と葛粉を半々で合わせ海苔の上に薄くふって、卵の白身を少し塗り、焼き卵をのせて、巻きしめる。それをせいろに入れて蒸し、冷まして、お好みで切る。

「卵白粥」。新米を5合ほど水に浸す。水には昆布を半日か一夜か漬けておく。それで米をよく洗い、また水を2升入れて煎じ、水が1升2合に減ったら米を入れて、古酒も小盃1杯入れて、白粥になったら火を消して、卵を15個ほど割ってよく溶いて流しこむ。釜のふたをして、しばらくしてよそい出す。

 このほかに、卵、白砂糖、うどん粉を溶いて濾して、鍋に弱火を入れてつくる「家主貞良(かすてら)卵」や、赤寒天、黒砂糖、酒を使ってつくる「冷やし卵羊羹」なども見られる。海外での卵の食べ方もいろいろと取り入れているのだ。

『万宝料理秘密箱』の前書きには、紹介しているこれらの卵料理は「めずらしき料理」とあるので、多くは人びとにとって「珍」なるものではあったろう。

 だが、「百珍本」で扱われたほかの食材がわりと庶民に普及していたものだったことから、卵もそれなりに人びとに浸透していたともとれる。また、使う調理器具として「卵焼鍋」の記述があることから、すでに卵焼きはつくるのが当たり前になっていたのかもしれない。

「卵かけご飯」は日本特有

 卵の食の歴史について、もう1つ気になるのは「卵かけご飯」の来歴だ。この定番食はいつ始まったのか。

 そもそも卵を生で食べる文化は日本特有のものという。どうして日本人の間では、卵を生で食べる文化が起きたのか。この問いに対して、農学者の小泉武夫が興味深い考察をしている。

<それはヌラヌラ好きだからである。(略)その民族の食性は主食に大いに関係する。日本は炊いたご飯の粒が主食なので、粒とヌラヌラは非常に合う>

 納豆やとろろなどと同様、生卵の「ヌラヌラ」した食感がとりわけご飯によく合ったというわけだ。


いまでは卵の食べ方の定番となった卵かけご飯
 生卵を初めてご飯にかけて食べた人物ではないかといわれているのが、岡山県出身のジャーナリストで実業家にもなった岸田吟香(1833-1905)だ。

 荻原又仙子著『明治初期の記者 岸田吟香翁』には、1877(明治10)年ごろの「翁」つまり岸田の朝食について、<毎朝、旅舎の朝飯に箸をつけず、兼ねて用意したのか、左無くば旅舎に云付け鶏卵三、四を取寄せ食すだけの温飯一度に盛らせて、鶏卵も皆打割り、カバンから塩焼と蕃椒(とうがらし)を出し、適宜に振かけ、鶏卵和にして食されたものだ>と記している。

 ちなみに岸田の出身地の美咲町は、岸田が卵かけご飯を「日本に広めた説があること」などから、卵かけご飯を町おこしのツールに使っている。

 だが、さかのぼること39年前の1838(天保9)年、鍋島藩(いまの佐賀県)の『御次日記』に、客人への料理として「御丼 生玉子」の記述があることを、食文化研究者の江後迪子が指摘している。

「御丼」がなにを意味するか不明だが、生卵と飯のセットは江戸時代からあったといえそうだ。

調味料としての普及はマヨネーズから

 明治から大正にかけて、洋食文化が入ってくるなかで、卵の食べ方はさらに多様化していく。野菜と肉を煮たところ卵を流しこんでまとめた卵とじ、玉子焼きの西洋版ともいえるオムレツ、さらに卵黄と調味料をかきまぜてつくるマヨネーズなどが登場した。

 日本でマヨネーズの商用生産を始めたのは、キユーピーの創業者である中島董一郎(1883-1973)だ。留学先の欧米で食品技術を学んで帰国した中島は1925(大正14)年3月に「キユーピー印マヨネーズ」を発売する。

 同年には新聞広告も出し始め、当時のキユーピーマークと「瓶詰のカニ、サケ、アスパラガス等に掛けると美味しい御料理となります」と宣伝している。

 こうして、当初日本では長らく食べられてこなかった卵は用途を拡大していった。卵を主役とした料理や、卵を食材として利用した食品が次々と現れたのである。

 日本で卵の消費量が急増したのは戦後のことだ。戦前の1人あたりの消費量は、ピークの昭和10~15年ごろでも年間50個ほど。1週間に1個食べるかどうかだった。

 ところが戦後は米国の食文化の影響を強く受けたことや、卵を量産する技術が進化したこと、さらに新鮮な状態で卵を保存する冷蔵技術が発達したことなどにより、卵の消費量は飛躍的に増えた。

 2014年現在、1人あたり年間329個にもなっているのは、冒頭に紹介したとおりだ。卵を16世紀頃まで長らくほとんど食べてこなかった歴史からすれば、ここ数十年での消費量の増加は爆発的といってよい。

 卵の食べ方がこれほどまで多様化した理由には、卵そのものがもっている調理加工の万能性もある。そこで、後篇では、さまざまな食材に変化することのできる卵の秘密に迫ってみたい。

(後篇へつづく)

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