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70年前「勝ち組負け組抗争」(その2止) 汚された愛国心
毎日新聞2016年8月21日 東京朝刊
終わらない紛争 ウクライナ東部(上)親露派支配地域の実態2014年2月の政変を受け、親ロシア派武装勢力が一方的に独立宣言したウクライナ東部。その最大都市ドネツクを7月中旬に取材した。表向きの「繁栄」とは裏腹に、外からの支援で地域の崩壊を免れているのが実態だ。政府軍との戦闘による死者は1万人近い。終わりの見えない紛争の現状を報告する。【撮影・真野森作】五輪陸上:男子400mリレー 日本が銀メダルリオデジャネイロ五輪第15日の19日、陸上男子400メートルリレー決勝が行われ、日本(山県、飯塚、桐生、ケンブリッジ)は37秒60で2位となり、銀メダルを獲得した。予選で出したアジア記録を0秒08更新し、2008年北京五輪の銅メダルを上回った。優勝は37秒27のジャマイカ。第4走者のウサイン・ボルトは100メートル、200メートルと合わせて3大会連続の3冠となった。3位はカナダで37秒64。【撮影・梅村直承、小川昌宏、三浦博之、和田大典】ボローニャ国際絵本原画展:多彩な作品 西宮市で開幕若手イラストレーターの登竜門として知られるコンクールの入選作を集めた「2016 イタリア・ボローニャ国際絵本原画展」(毎日新聞社など主催)は20日、兵庫県西宮市中浜町の西宮市大谷記念美術館で初日を迎えた。開館前から中高生の団体や家族連れら約80人が列を作り、人気の高さをうかがわせた。 【撮影・伊藤絵理子】五輪企画「ボンジーア・リオ」13:TOKYO DAYリオ五輪動画リポート「Bom dia Rio!(おはようリオ)」。南米初の五輪でにぎわう街の様子を、日本で育ったブラジル人のリジア・シルバがリポートします。今回は、ジャパンハウスでおこなわれたイベント「TOKYO DAY」を紹介します。【撮影・長岡秀樹】五輪陸上:「ボルト伝説」 最終章も金メダル五輪出場はリオが最後と明言したウサイン・ボルト(ジャマイカ)。21日に迎える30歳の誕生日を前に、3大会連続3冠を達成した。リオのボルトを振り返る。【撮影・梅村直承、小川昌宏、三浦博之、和田大典】五輪陸上 競歩 荒井は銅 陸連の上訴実って失格取り消しリオデジャネイロ五輪第15日の19日、男子50キロ競歩で、3位でフィニッシュしながら他の選手を妨害したとして失格になった荒井広宙(28)=自衛隊=の失格が取り消され、銅メダル獲得が決まった。日本陸連によると、国際陸連への上訴申し立てが認められて、荒井の3位復活を認めると連絡が入ったという。競歩日本勢のメダル獲得は、初めて。荒井はレース終盤、3位争いをしていたカナダのエバン・ダンフィーに接触し、同国チームの抗議を受けて失格となっていた。【撮影・三浦博之】五輪レスリング:樋口が決勝で敗れ銀 男子フリー57キロリオデジャネイロ五輪第15日の19日、レスリングの男子フリースタイル57キロ級の決勝で樋口黎(れい)(20)=日体大=はウラジーミル・キンチェガシビリ(ジョージア)に3−4で判定で敗れ、銀メダルとなった。【撮影・梅村直承、和田大典】五輪バドミントン:奥原、銅メダル獲得…相手棄権リオデジャネイロ五輪第15日の19日はバドミントン女子シングルスの3位決定戦で、対戦予定だった中国選手が故障で棄権し、奥原の銅メダル獲得が確定。【撮影・山本晋、梅村直承、小川昌宏】五輪シンクロ:日本が3大会ぶりの銅 ロシアが5連覇リオデジャネイロ五輪第15日の19日、シンクロナイズドスイミングは、8人によるチームのフリールーティン(FR)決勝があり、日本(乾、三井、箱山、丸茂、中村、中牧、小俣、吉田)は95.4333点で、テクニカルルーティン(TR)との合計189.2056点で3位に入り、2004年アテネ五輪以来3大会ぶりの表彰台を決めた。【撮影・梅村直承、小川昌宏】
ストーリー:ブラジル移民の戦痕、「勝ち組負け組抗争」
◆終戦直後、ブラジル日系社会で連続殺傷
「敗戦派は非国民」
原稿用紙に書いた手記に目を通す日高徳一さん=ブラジル・マリリアで
自宅1階にある自転車屋の店先に、ベージュ色のカーディガンをはおった日高徳一さん(90)はいた。ブラジル・サンパウロの北西約450キロにあるマリリア。小柄で背中が少し曲がっているが、流ちょうな日本語で「足が悪くなり、遠くに出かけられなくなってね」と言うと、つえを右手にゆっくり階段を上がり、3階のリビングの椅子に腰掛けた。
2013年に書いた原稿用紙約130枚の手記には、曽祖父の時代からの日高家の歴史がつづられている。「よその人に見せようという気はなかった。子どもや孫、家の者に残しておこうと。うそは書いていない」。眼鏡をかけて昔の写真を見ながら、日高さんは70年前の殺人事件に至る経緯を淡々と語り始めた。
宮崎県で生まれた。6歳だった1932年、「一旗揚げて金もうけしよう」という父の意向があり、両親や親類ら5人とブラジルに渡った。最初に着いたリオデジャネイロの港で、コルコバードの丘にあるキリスト像が目に入った。「両手を広げた姿が来る者拒まずというふうに見えた」と言う。他の日系移民がそうであったように、一家は荒れ地を耕して野菜を育て、サンパウロ州西部の農地を転々とした。日高さんも望郷の念にかられながら、毎日のように畑に出た。学校はなく、休日や夜にいとこが勉強を教えてくれた。「明治天皇が人の生きる道を書いた教育勅語さえあれば、宗教はいらない」が父の口癖だった。
ブラジル移民らは雨の神戸港を盛んな歓呼の声に送られて出発した=1937年2月撮影
39年、第二次大戦が勃発。連合国側のブラジルは日本を敵国とし、42年には在ブラジル日本公館が閉鎖され、日本大使ら外交官が引き揚げた。日系移民は取り残されて「敵性国民」として監視され、16歳の日高さんは「自分たちは捨てられた」と思った。情報源の日本語新聞の廃刊、家庭外での日本語の使用禁止。移民に対する不当逮捕やむち打ちなどの拷問も横行し、没収された資産は戦後も長期間にわたり返還されなかった。一方で、抑圧された生活ではあったが、空襲で焼け野原と化した日本と異なり、戦況の悪化を肌で感じることはできなかった。
45年8月15日終戦。ポルトガル語の新聞が日本の降伏を伝え、大本営発表一色だった日本からの短波放送は敗戦を伝えるようになった。だが、公用語のポルトガル語が分かる移民も高価なラジオを持つ移民も少ない。「日本勝利」の偽情報文書を売る詐欺師も現れ、「(日本が負けたという情報は)連合国の策略だと思った。ほとんどの人が戦勝を信じていた」と日高さんは言う。やがて、当時30万人近くいた日系社会は日本の勝ち負けを巡って割れ、戦勝派は敗戦派を「ハイセン、非国民」とののしり、敗戦派は戦勝派を「ファナチコ(狂信者)」とさげすんだ。そして、一つの書面が不幸にも大事件へとつながっていく。
敗戦から約2カ月後、日本の外務省が英文で打電した終戦を伝える詔勅がブラジルの日系社会に届いた。これを基に「終戦事情伝達趣意書」が作られ、脇山甚作・日本陸軍退役大佐や元アルゼンチン公使ら日系社会の指導的立場にあった7人が署名した。日本の不敗を信じる「勝ち組」に敗戦を納得させようとした措置だが、勝ち組は「英語で書かれた詔勅など信用できない」と受け入れず、あくまで「連合国の策略だ」と妄信した。
不穏な空気が流れ始める。日高さんは当時、父がサンパウロ州西部で経営するうどん店を手伝い、夜は「日本語塾で愛国心を学ぶ日々を送っていた」。46年1月、塾で日系移民の仲間と雑談していた時のことだ。禁止されている公の場に掲げられた日の丸をブラジルの警察官が押収し、革靴の泥をぬぐったと聞かされた。「日の丸を汚(けが)された」。激情に駆られ、日高さんは仲間と警察へ抗議に向かうと逮捕された。トイレもない部屋に留置され、約2週間後に釈放されたが、刃向かう日本人は捕まえろといわんばかりの仕打ちに尊厳を踏みにじられ、怒りがわいた。
天皇陛下の写真を焼いた、日の丸を侮辱した。もともとはブラジル人警察官による皇室への不敬な行為や言動が、混乱の中、敗戦を受け入れた「負け組」の仕業として伝えられ、広まったのか。いつしか戦争の勝ち負けは問題でなくなり、矛先は移民仲間へ向かっていった。
「日の丸を汚され、皇室の尊厳を冒された。日系社会の混乱は趣意書に署名した人物にある。責任を取ってもらうために行動した」と日高さんは述懐する。サンパウロ近郊に住む知人を頼りに、10人あまりの同志が集まった。46年4月、日高さんは同志4人と元アルゼンチン公使宅の敷地に忍び込み、「知り合いから入手した」拳銃で狙撃しようとした。この時は未遂に終わったが、約2カ月後に引き金を引く。
同年6月2日夕刻、古着屋で買ったスーツにネクタイを締めポケットに拳銃をしのばせた。同志3人と脇山大佐宅を訪れると、客間に通された。椅子に腰掛けた脇山大佐から座るように促されたが、直立して自決勧告書と短刀を差し出し返事を待った。双方無言のまま緊迫した空気が流れ、しばらくして脇山大佐は「もう年で、そんな気力はない」と自決を拒んだ。
「それでは、ご免」。同志の一人が発砲した。続けて日高さんも引き金を引いた。うずくまる大佐の姿を見て立ち去ろうとして、まだ息があることに気付いた。「苦しませてはいけない」。2発目を撃った。後に、この2発目が致命傷と警察で聞かされた。
現場に少女が居合わせていた。脇山大佐と一緒に暮らしていた孫で日系2世のレイコさん(83)だ。当時13歳。日高さんらを客と思い、台所でお茶を用意していた時に銃声が響き渡った。あわてて隣家に逃げ、しばらくして戻ると、祖父が血まみれで倒れていた。「なぜ殺されなければいけなかったのか。祖父は愛国心のある人でした。玉音放送を聞いて敗戦を知り、真実を伝えようとしただけなのに」。レイコさんの悲しみは今も癒えていない。
戦争がすべてを不幸に
五輪の開会式で出演者は白と赤の衣装などで日系移民をイメージさせるパフォーマンスを披露した=リオデジャネイロのマラカナン競技場で、梅村直承撮影
事件後、日高さんは直ちに自首した。目的を果たしたことで、日系社会の混乱は収まると思ったからだ。だが、負の連鎖は止まらない。サンパウロ近郊の日系社会で殺傷事件が相次いだ。
「ブラジル日本移民80年史」によると、「勝ち組負け組抗争」はサンパウロ州を中心に46年3月から47年1月まで起き、死者23人、負傷者86人を出した。多くは偶発的だったとみられるが、ブラジルの捜査当局は、忠君愛国を説く「臣道連盟」という勝ち組で構成する団体が、負け組を組織的に狙った連続テロ事件と断定。日の丸や天皇陛下の肖像画を踏むことを拒んで勝ち組とみなされた者や、事件に関わっていなくても連盟会員という理由だけで、1000人を超す日系移民が拘束された。45年7月に結成された臣道連盟はサンパウロに本部を置き、家族会員は3万ともいわれている。
日高さんも取り調べで、臣道連盟との関係を厳しく問われ、「命令を受けたわけではない」と繰り返し説明した。今回の取材にも、連盟に知り合いはいたが、事件を起こすことを知られれば止められるかもしれないと思い、相談しなかったと答えている。ブラジル政府が、当時の独裁政権が大戦中や戦後に日系移民らを迫害したことを認め、初めて公式に謝罪したのは2013年10月、戦後70年近くたってからである。抗争の全容は今も不明だが、テロリスト集団と目されてきた臣道連盟は近年、事件との関わりや組織の性格が見直され始めてもいる。
アサイの入り口には大きな鳥居がある=ブラジル・アサイで
「ブラジル日系社会 百年の水流」で移民の歴史を著したサンパウロ在住のジャーナリスト、外山脩さん(74)は長期にわたる取材の結果、一連の事件は臣道連盟の組織的な犯行ではないと結論づけた。「テロ組織と裏付ける証拠はなく、検察は幹部を裁判にかけることもできなかった。臣道連盟は秘密結社でもなく、愛国心を説いた修養団体。状況誤認の連鎖が60年以上にわたって真実として語られてきた」と指摘する。
勝ち組負け組抗争は日系社会の一部でタブー視された。勝ち組は多くを語らず、負け組の語る断片的な話が後世に伝わり、検証されないまま史実として定着していったというのが実情だろうか。
祖父が臣道連盟の理事、父は職員だったという日系2世、ノブヨ・マツモトさん(77)=パラナ州ロンドリーナ=に会えた。父と祖父は逮捕され、サンパウロに近いアンシエッタ島監獄に収監された。父は収容者約170人の名前と出身地を記録しており、見せていただくと、全員が日本生まれだった。マツモトさんによると、日本が戦争に勝てば、ブラジルに迎えの船が来るというデマがまことしやかに流れ、希望を託して、日本は負けるわけがないと信じる人が多かったという。「みんな日本に帰りたい一心でした。罪もないのに島送りになった人たちは戦争の犠牲者です」と語った。
脇山甚作・日本陸軍退役大佐
ただ、臣道連盟がブラジルの日系社会に禍根を残したのも事実だ。サンパウロから西へ約500キロ、代表的な日本人集団地だったパラナ州北部のアサイを訪ねた。日本政府が戦前につくった大規模移住地の一つで、現在の人口は1万数千人。うち1割を日系人が占める。街の入り口に赤い大鳥居が立っていた。
農場を営む日系2世、ヤオキ・シミズさん(86)は負け組だった。日本の外務省筋の情報を親戚が入手し、早くから敗戦を受け入れた。すると「あなた方は日本人ではない。お付き合いできない」。青年団を除名された。暴力ざたこそ起きなかったが、シミズさんは「日本が負けたと分かっていても、言えない空気があった」と振り返る。アサイに人望の厚い連盟理事がいたことが影響していた。
アサイ出身の移民史研究家で日系3世のマリオ・イケダさん(71)によると、この理事は罪のない人が逮捕される状況を憂え、大統領への直訴状を持ってリオデジャネイロに着いたところを逮捕された。アンシエッタ島監獄に収監され、出所後の50年、アサイに勝ち組中心の日本人会を設立し、ポルトガル語の使用を禁じた日本語の学校を建て愛国心を教えた。
そのため、アサイの日本人会や青年団では勝ち組と負け組の確執がしばらく消えず、シミズさんが青年団に戻れたのは終戦から約10年後だった。理事の息子を訪ねると、「嫌な思いをたくさんしたから話したくない。学校もまともに行けなかった。父の名前を記事に出したら訴えるぞ」とポルトガル語でまくしたてられた。
20歳で事件を起こし、裁判で約30年の刑を言い渡された日高さんは、各地の刑務所を転々とした。模範囚として減刑されて出所したのは58年。32歳の時だった。自転車屋を始め、迷惑を掛けた親を安心させようと必死で働いた。しばらくして、アンシエッタ島監獄で知り合った臣道連盟の幹部から、アサイに住む女性を紹介されて結婚。4人の子供に恵まれた。今はマリリアで息子たちと四つある自転車やバイクの部品・修理店を営み、昼休みの従業員に代わって、一番小さい店の店番をしている。
脇山大佐の命日には必ず仏壇に向かい、線香を上げる。「事件から70年がたち、勝ち組負け組抗争が起きた一番の原因は何だったと考えますか」と尋ねた。日高さんはやや間を置いて、「戦争ちゅうもんは、すべてを不幸にする」と漏らした。
南米大陸初となるリオデジャネイロ五輪が開幕した8月5日、マラカナン競技場で繰り広げられる開会式のアトラクションを、自宅のテレビで見ていた日高さんの目があるシーンにくぎ付けになった。「日の丸だ……」。赤い羽根を持ち、白地に大きな赤い丸をつけた衣装でパフォーマンスを披露する出演者たち。「日本からの移民はブラジルの発展に協力しました」とアナウンサーは伝えた。
◆今回のストーリーの取材は
山本浩資(やまもと・こうすけ)(東京社会部)
五輪の競技場の記者席で取材する山本記者
1999年入社。横浜支局、東京社会部、サンデー毎日、BS11出向などを経て、2013年から現職。特派員団の一員として、リオデジャネイロ五輪を取材している。著書に「PTA、やらなきゃダメですか?」(小学館新書)。今回は写真も担当した。
70年前「勝ち組負け組抗争」(その2止) 汚された愛国心
毎日新聞2016年8月21日 東京朝刊
終わらない紛争 ウクライナ東部(上)親露派支配地域の実態2014年2月の政変を受け、親ロシア派武装勢力が一方的に独立宣言したウクライナ東部。その最大都市ドネツクを7月中旬に取材した。表向きの「繁栄」とは裏腹に、外からの支援で地域の崩壊を免れているのが実態だ。政府軍との戦闘による死者は1万人近い。終わりの見えない紛争の現状を報告する。【撮影・真野森作】五輪陸上:男子400mリレー 日本が銀メダルリオデジャネイロ五輪第15日の19日、陸上男子400メートルリレー決勝が行われ、日本(山県、飯塚、桐生、ケンブリッジ)は37秒60で2位となり、銀メダルを獲得した。予選で出したアジア記録を0秒08更新し、2008年北京五輪の銅メダルを上回った。優勝は37秒27のジャマイカ。第4走者のウサイン・ボルトは100メートル、200メートルと合わせて3大会連続の3冠となった。3位はカナダで37秒64。【撮影・梅村直承、小川昌宏、三浦博之、和田大典】ボローニャ国際絵本原画展:多彩な作品 西宮市で開幕若手イラストレーターの登竜門として知られるコンクールの入選作を集めた「2016 イタリア・ボローニャ国際絵本原画展」(毎日新聞社など主催)は20日、兵庫県西宮市中浜町の西宮市大谷記念美術館で初日を迎えた。開館前から中高生の団体や家族連れら約80人が列を作り、人気の高さをうかがわせた。 【撮影・伊藤絵理子】五輪企画「ボンジーア・リオ」13:TOKYO DAYリオ五輪動画リポート「Bom dia Rio!(おはようリオ)」。南米初の五輪でにぎわう街の様子を、日本で育ったブラジル人のリジア・シルバがリポートします。今回は、ジャパンハウスでおこなわれたイベント「TOKYO DAY」を紹介します。【撮影・長岡秀樹】五輪陸上:「ボルト伝説」 最終章も金メダル五輪出場はリオが最後と明言したウサイン・ボルト(ジャマイカ)。21日に迎える30歳の誕生日を前に、3大会連続3冠を達成した。リオのボルトを振り返る。【撮影・梅村直承、小川昌宏、三浦博之、和田大典】五輪陸上 競歩 荒井は銅 陸連の上訴実って失格取り消しリオデジャネイロ五輪第15日の19日、男子50キロ競歩で、3位でフィニッシュしながら他の選手を妨害したとして失格になった荒井広宙(28)=自衛隊=の失格が取り消され、銅メダル獲得が決まった。日本陸連によると、国際陸連への上訴申し立てが認められて、荒井の3位復活を認めると連絡が入ったという。競歩日本勢のメダル獲得は、初めて。荒井はレース終盤、3位争いをしていたカナダのエバン・ダンフィーに接触し、同国チームの抗議を受けて失格となっていた。【撮影・三浦博之】五輪レスリング:樋口が決勝で敗れ銀 男子フリー57キロリオデジャネイロ五輪第15日の19日、レスリングの男子フリースタイル57キロ級の決勝で樋口黎(れい)(20)=日体大=はウラジーミル・キンチェガシビリ(ジョージア)に3−4で判定で敗れ、銀メダルとなった。【撮影・梅村直承、和田大典】五輪バドミントン:奥原、銅メダル獲得…相手棄権リオデジャネイロ五輪第15日の19日はバドミントン女子シングルスの3位決定戦で、対戦予定だった中国選手が故障で棄権し、奥原の銅メダル獲得が確定。【撮影・山本晋、梅村直承、小川昌宏】五輪シンクロ:日本が3大会ぶりの銅 ロシアが5連覇リオデジャネイロ五輪第15日の19日、シンクロナイズドスイミングは、8人によるチームのフリールーティン(FR)決勝があり、日本(乾、三井、箱山、丸茂、中村、中牧、小俣、吉田)は95.4333点で、テクニカルルーティン(TR)との合計189.2056点で3位に入り、2004年アテネ五輪以来3大会ぶりの表彰台を決めた。【撮影・梅村直承、小川昌宏】
ストーリー:ブラジル移民の戦痕、「勝ち組負け組抗争」
◆終戦直後、ブラジル日系社会で連続殺傷
「敗戦派は非国民」
原稿用紙に書いた手記に目を通す日高徳一さん=ブラジル・マリリアで
自宅1階にある自転車屋の店先に、ベージュ色のカーディガンをはおった日高徳一さん(90)はいた。ブラジル・サンパウロの北西約450キロにあるマリリア。小柄で背中が少し曲がっているが、流ちょうな日本語で「足が悪くなり、遠くに出かけられなくなってね」と言うと、つえを右手にゆっくり階段を上がり、3階のリビングの椅子に腰掛けた。
2013年に書いた原稿用紙約130枚の手記には、曽祖父の時代からの日高家の歴史がつづられている。「よその人に見せようという気はなかった。子どもや孫、家の者に残しておこうと。うそは書いていない」。眼鏡をかけて昔の写真を見ながら、日高さんは70年前の殺人事件に至る経緯を淡々と語り始めた。
宮崎県で生まれた。6歳だった1932年、「一旗揚げて金もうけしよう」という父の意向があり、両親や親類ら5人とブラジルに渡った。最初に着いたリオデジャネイロの港で、コルコバードの丘にあるキリスト像が目に入った。「両手を広げた姿が来る者拒まずというふうに見えた」と言う。他の日系移民がそうであったように、一家は荒れ地を耕して野菜を育て、サンパウロ州西部の農地を転々とした。日高さんも望郷の念にかられながら、毎日のように畑に出た。学校はなく、休日や夜にいとこが勉強を教えてくれた。「明治天皇が人の生きる道を書いた教育勅語さえあれば、宗教はいらない」が父の口癖だった。
ブラジル移民らは雨の神戸港を盛んな歓呼の声に送られて出発した=1937年2月撮影
39年、第二次大戦が勃発。連合国側のブラジルは日本を敵国とし、42年には在ブラジル日本公館が閉鎖され、日本大使ら外交官が引き揚げた。日系移民は取り残されて「敵性国民」として監視され、16歳の日高さんは「自分たちは捨てられた」と思った。情報源の日本語新聞の廃刊、家庭外での日本語の使用禁止。移民に対する不当逮捕やむち打ちなどの拷問も横行し、没収された資産は戦後も長期間にわたり返還されなかった。一方で、抑圧された生活ではあったが、空襲で焼け野原と化した日本と異なり、戦況の悪化を肌で感じることはできなかった。
45年8月15日終戦。ポルトガル語の新聞が日本の降伏を伝え、大本営発表一色だった日本からの短波放送は敗戦を伝えるようになった。だが、公用語のポルトガル語が分かる移民も高価なラジオを持つ移民も少ない。「日本勝利」の偽情報文書を売る詐欺師も現れ、「(日本が負けたという情報は)連合国の策略だと思った。ほとんどの人が戦勝を信じていた」と日高さんは言う。やがて、当時30万人近くいた日系社会は日本の勝ち負けを巡って割れ、戦勝派は敗戦派を「ハイセン、非国民」とののしり、敗戦派は戦勝派を「ファナチコ(狂信者)」とさげすんだ。そして、一つの書面が不幸にも大事件へとつながっていく。
敗戦から約2カ月後、日本の外務省が英文で打電した終戦を伝える詔勅がブラジルの日系社会に届いた。これを基に「終戦事情伝達趣意書」が作られ、脇山甚作・日本陸軍退役大佐や元アルゼンチン公使ら日系社会の指導的立場にあった7人が署名した。日本の不敗を信じる「勝ち組」に敗戦を納得させようとした措置だが、勝ち組は「英語で書かれた詔勅など信用できない」と受け入れず、あくまで「連合国の策略だ」と妄信した。
不穏な空気が流れ始める。日高さんは当時、父がサンパウロ州西部で経営するうどん店を手伝い、夜は「日本語塾で愛国心を学ぶ日々を送っていた」。46年1月、塾で日系移民の仲間と雑談していた時のことだ。禁止されている公の場に掲げられた日の丸をブラジルの警察官が押収し、革靴の泥をぬぐったと聞かされた。「日の丸を汚(けが)された」。激情に駆られ、日高さんは仲間と警察へ抗議に向かうと逮捕された。トイレもない部屋に留置され、約2週間後に釈放されたが、刃向かう日本人は捕まえろといわんばかりの仕打ちに尊厳を踏みにじられ、怒りがわいた。
天皇陛下の写真を焼いた、日の丸を侮辱した。もともとはブラジル人警察官による皇室への不敬な行為や言動が、混乱の中、敗戦を受け入れた「負け組」の仕業として伝えられ、広まったのか。いつしか戦争の勝ち負けは問題でなくなり、矛先は移民仲間へ向かっていった。
「日の丸を汚され、皇室の尊厳を冒された。日系社会の混乱は趣意書に署名した人物にある。責任を取ってもらうために行動した」と日高さんは述懐する。サンパウロ近郊に住む知人を頼りに、10人あまりの同志が集まった。46年4月、日高さんは同志4人と元アルゼンチン公使宅の敷地に忍び込み、「知り合いから入手した」拳銃で狙撃しようとした。この時は未遂に終わったが、約2カ月後に引き金を引く。
同年6月2日夕刻、古着屋で買ったスーツにネクタイを締めポケットに拳銃をしのばせた。同志3人と脇山大佐宅を訪れると、客間に通された。椅子に腰掛けた脇山大佐から座るように促されたが、直立して自決勧告書と短刀を差し出し返事を待った。双方無言のまま緊迫した空気が流れ、しばらくして脇山大佐は「もう年で、そんな気力はない」と自決を拒んだ。
「それでは、ご免」。同志の一人が発砲した。続けて日高さんも引き金を引いた。うずくまる大佐の姿を見て立ち去ろうとして、まだ息があることに気付いた。「苦しませてはいけない」。2発目を撃った。後に、この2発目が致命傷と警察で聞かされた。
現場に少女が居合わせていた。脇山大佐と一緒に暮らしていた孫で日系2世のレイコさん(83)だ。当時13歳。日高さんらを客と思い、台所でお茶を用意していた時に銃声が響き渡った。あわてて隣家に逃げ、しばらくして戻ると、祖父が血まみれで倒れていた。「なぜ殺されなければいけなかったのか。祖父は愛国心のある人でした。玉音放送を聞いて敗戦を知り、真実を伝えようとしただけなのに」。レイコさんの悲しみは今も癒えていない。
戦争がすべてを不幸に
五輪の開会式で出演者は白と赤の衣装などで日系移民をイメージさせるパフォーマンスを披露した=リオデジャネイロのマラカナン競技場で、梅村直承撮影
事件後、日高さんは直ちに自首した。目的を果たしたことで、日系社会の混乱は収まると思ったからだ。だが、負の連鎖は止まらない。サンパウロ近郊の日系社会で殺傷事件が相次いだ。
「ブラジル日本移民80年史」によると、「勝ち組負け組抗争」はサンパウロ州を中心に46年3月から47年1月まで起き、死者23人、負傷者86人を出した。多くは偶発的だったとみられるが、ブラジルの捜査当局は、忠君愛国を説く「臣道連盟」という勝ち組で構成する団体が、負け組を組織的に狙った連続テロ事件と断定。日の丸や天皇陛下の肖像画を踏むことを拒んで勝ち組とみなされた者や、事件に関わっていなくても連盟会員という理由だけで、1000人を超す日系移民が拘束された。45年7月に結成された臣道連盟はサンパウロに本部を置き、家族会員は3万ともいわれている。
日高さんも取り調べで、臣道連盟との関係を厳しく問われ、「命令を受けたわけではない」と繰り返し説明した。今回の取材にも、連盟に知り合いはいたが、事件を起こすことを知られれば止められるかもしれないと思い、相談しなかったと答えている。ブラジル政府が、当時の独裁政権が大戦中や戦後に日系移民らを迫害したことを認め、初めて公式に謝罪したのは2013年10月、戦後70年近くたってからである。抗争の全容は今も不明だが、テロリスト集団と目されてきた臣道連盟は近年、事件との関わりや組織の性格が見直され始めてもいる。
アサイの入り口には大きな鳥居がある=ブラジル・アサイで
「ブラジル日系社会 百年の水流」で移民の歴史を著したサンパウロ在住のジャーナリスト、外山脩さん(74)は長期にわたる取材の結果、一連の事件は臣道連盟の組織的な犯行ではないと結論づけた。「テロ組織と裏付ける証拠はなく、検察は幹部を裁判にかけることもできなかった。臣道連盟は秘密結社でもなく、愛国心を説いた修養団体。状況誤認の連鎖が60年以上にわたって真実として語られてきた」と指摘する。
勝ち組負け組抗争は日系社会の一部でタブー視された。勝ち組は多くを語らず、負け組の語る断片的な話が後世に伝わり、検証されないまま史実として定着していったというのが実情だろうか。
祖父が臣道連盟の理事、父は職員だったという日系2世、ノブヨ・マツモトさん(77)=パラナ州ロンドリーナ=に会えた。父と祖父は逮捕され、サンパウロに近いアンシエッタ島監獄に収監された。父は収容者約170人の名前と出身地を記録しており、見せていただくと、全員が日本生まれだった。マツモトさんによると、日本が戦争に勝てば、ブラジルに迎えの船が来るというデマがまことしやかに流れ、希望を託して、日本は負けるわけがないと信じる人が多かったという。「みんな日本に帰りたい一心でした。罪もないのに島送りになった人たちは戦争の犠牲者です」と語った。
脇山甚作・日本陸軍退役大佐
ただ、臣道連盟がブラジルの日系社会に禍根を残したのも事実だ。サンパウロから西へ約500キロ、代表的な日本人集団地だったパラナ州北部のアサイを訪ねた。日本政府が戦前につくった大規模移住地の一つで、現在の人口は1万数千人。うち1割を日系人が占める。街の入り口に赤い大鳥居が立っていた。
農場を営む日系2世、ヤオキ・シミズさん(86)は負け組だった。日本の外務省筋の情報を親戚が入手し、早くから敗戦を受け入れた。すると「あなた方は日本人ではない。お付き合いできない」。青年団を除名された。暴力ざたこそ起きなかったが、シミズさんは「日本が負けたと分かっていても、言えない空気があった」と振り返る。アサイに人望の厚い連盟理事がいたことが影響していた。
アサイ出身の移民史研究家で日系3世のマリオ・イケダさん(71)によると、この理事は罪のない人が逮捕される状況を憂え、大統領への直訴状を持ってリオデジャネイロに着いたところを逮捕された。アンシエッタ島監獄に収監され、出所後の50年、アサイに勝ち組中心の日本人会を設立し、ポルトガル語の使用を禁じた日本語の学校を建て愛国心を教えた。
そのため、アサイの日本人会や青年団では勝ち組と負け組の確執がしばらく消えず、シミズさんが青年団に戻れたのは終戦から約10年後だった。理事の息子を訪ねると、「嫌な思いをたくさんしたから話したくない。学校もまともに行けなかった。父の名前を記事に出したら訴えるぞ」とポルトガル語でまくしたてられた。
20歳で事件を起こし、裁判で約30年の刑を言い渡された日高さんは、各地の刑務所を転々とした。模範囚として減刑されて出所したのは58年。32歳の時だった。自転車屋を始め、迷惑を掛けた親を安心させようと必死で働いた。しばらくして、アンシエッタ島監獄で知り合った臣道連盟の幹部から、アサイに住む女性を紹介されて結婚。4人の子供に恵まれた。今はマリリアで息子たちと四つある自転車やバイクの部品・修理店を営み、昼休みの従業員に代わって、一番小さい店の店番をしている。
脇山大佐の命日には必ず仏壇に向かい、線香を上げる。「事件から70年がたち、勝ち組負け組抗争が起きた一番の原因は何だったと考えますか」と尋ねた。日高さんはやや間を置いて、「戦争ちゅうもんは、すべてを不幸にする」と漏らした。
南米大陸初となるリオデジャネイロ五輪が開幕した8月5日、マラカナン競技場で繰り広げられる開会式のアトラクションを、自宅のテレビで見ていた日高さんの目があるシーンにくぎ付けになった。「日の丸だ……」。赤い羽根を持ち、白地に大きな赤い丸をつけた衣装でパフォーマンスを披露する出演者たち。「日本からの移民はブラジルの発展に協力しました」とアナウンサーは伝えた。
◆今回のストーリーの取材は
山本浩資(やまもと・こうすけ)(東京社会部)
五輪の競技場の記者席で取材する山本記者
1999年入社。横浜支局、東京社会部、サンデー毎日、BS11出向などを経て、2013年から現職。特派員団の一員として、リオデジャネイロ五輪を取材している。著書に「PTA、やらなきゃダメですか?」(小学館新書)。今回は写真も担当した。