峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

国立大学から文系学部が消える?...敢えて、哲学について考える。

2016-09-05 22:24:45 | 哲学・思想

二年前の記事ですが、こちらを...

続報が大きく取り上げられることはありませんが、事態は変わりません。

国立大学から文系学部が消える!安倍首相と文科省の文化破壊的“大学改革“...

LITERA 2014年10月1日

教員養成系など学部廃止を要請 文科相、国立大に...   

日本経済新聞(電子版)2015年6月8日

大学を衰弱させる「文系廃止」通知の非 ...

日本経済新聞(電子版)2015年7月29日

 

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2年前の、FBの投稿から...

 Hiroshi Matsuura(2014年9月3日)
 
*「国立大から文系消える? -- 文科相 改革案を通達」

… 9月2日付の東京新聞より。

「文部科学省は先月、同省の審議会『国立大学法人評価委員会』」の議論を受け、国立大学の組織改革案として「教員養成系、人文社会科学系の廃止や転換」を各大学に通達した」という。...

現在でも、国公立私立を問わず、文学、哲学、芸術、第2外国語など、直接金儲けにつながらない各部学科が次々と抹消されている。下村文科相による通達は、この動きを加速するものである。

これは、明治に学制が始まって以来のもっとも愚劣な決定であり、文学も哲学も芸術もない国など、世界のどの国が尊敬するというのだ?

知性も教養もない安倍政権の愚物どもは、直近の利害損得にしか目が行かず、「国家百年の計」が図れない。

下村博文文科相は、日本の半分の人口しかなく、日本よりもはるかに経済力が劣るフランスがどうして国際社会のなかで一目置かれる存在なのか考えてみるといい。

これは、「改革」でも何でもなく日本からものを考える能力ある人間をなくしてしまう愚策のなかの愚策である。

フランスのド・ゴール大統領は、アルジェリア独立運動たけなわのときそれを支持し、保守派を繰り返し批判する哲学者サルトルを、在校軍人会が「サルトルを銃殺にせよ!」と激昂したとき、「ヴォルテールは必要だ」と述べ、サルトルのような批判的知性こそフランスに必要なのだと軍人たちをたしなめたという。

政府に楯突くサルトルを擁護したド・ゴール大統領の大器量はどうだ!このようなスケールの大きな政治家がいてこそ、国は発展するのである。

政府批判のデモを規制しようとするわが国の政治家たち、批判的知性の揺籃地である大学を骨抜きにしようとする安倍政権の政治屋たちの何とちっぽけなことよ!

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上述のいわゆる「大学改革」...これは、来るべくしてきたものですが、それにしても、ここまで愚かになると、どうしようもありません...
上のコメントでは持ち上げられていますが、文化の粋を自認するはずのフランスが、大統領の無教養な人種差別的な発言を皮切りに、いまもなを燻り続ける粗野で独善的な『シャルルエブド』風刺事件の余波とテロの連鎖、そしてフランスに本拠を置くメガバンク、BNPパリバ銀行の無道というほかはない不正融資問題など、あきれるほどだらしのない姿を世界に示したあとですから、いつか世界中が、こうした流れの中に呑み込まれていくだろうということは、想像がつくのですが...
あまりにも臆面のない愚かさぶりに、落胆することしきりです...


教養は必要か...?
それは、教養のある者にしかわからない...

知というものを、あるいは教養というものを、クイズ的な博識と区別できないのであれば、こういう主張がでてきても当然です...
そして、かつて『知の技法』という書物が出版されたとき、そのタイトルの臆面のなさに唖然としたのですが、今回のこの記事は、まさしくその延長にある事態を告知しているのです...
知というものは、あるいは教養というものは、決してただの博識でもないし、ましてや「技法」でもないのです...
「技法」...?
自然を、あるいは他人を、社会を、征服する技法?
お金儲けの技法?

これでは少し過激な言い回しでしょうから、少し穏当に、生きるための技法?


そういう考えを、正面から問題にし、堂々と戦って、命懸けで知の尊厳を守ったのは、ソクラテスです。
知とは、ものを知り、考えるとは、ただの知識の寄せ集めや、集めた知識を効率よく運用するための技法ではなく、人間が自分の頭で考え、自分の考えにしたがって意志を定め、自分自身の生き方を自分で決定し、それを守り抜いて生きていくためのもの、わたしたちの生き方そのものなのです。そしてそのように、自分の生き方を自分自身によって決断していくところに、人間の「自由」があるのです。

ソクラテスは、自らを「知恵ある者(ソフィスト)」とは見なしませんでした。そうではなく、自分は「知恵(sophia)」を「愛する(Philein)」者だというのです。これが知を愛する者としての「哲学者(philo-sophoia)」の始まりです。

「知恵ある者(ソフィスト)」は、知識を売り、あるいは知恵を用いて生活をする存在です。それに対して哲学者は、自らを「無知」だとします。

「無知の知」として知られるこの宣言が言わんとするところは、自分にはまだまだ十分な知識がない...あるいは、人間の知恵には限界がある、自分はそのことを知っている...ということにはとどまりません。

そうではなく、そこには、自分には人間として知っていなければならない根本的な知が欠けている...人間が人間にふさわしい生き方をするためには、自分自身が何者であるのか、何者であるべきなのかを知る根本的な知が必要である。その知を全力で求め、わがものとし、その知にふさわしく生きていかねばならない、という自覚がなければなりません。

「知恵ある者(ソフィスト)」が依って立つ知...売り買いされ、あるいは生活の資として活用されるような知は、教師が教師として生きるために、商人が商人として生きるために、あるいは職人が、農夫が、職人や農夫として生きるために役立つような知恵です。その知はそれぞれの道の専門家として生きるためには必要なものです。しかしながらそうした知は、私が、あるいはあなたが、どのような人間として生きていくべきかを教えてはくれないのです。

哲学者が愛し、求める知は、専門知、エクスパートとしての知ではありません。そうではなく、自分自身は何者であるのか、何者であるべきなのか、どのように考え、どのような者として生きていくべきかを決断するための知なのです。だから哲学者であるためには特殊な専門知を必要としないのです。どのような専門領域における「専門知」も、大学における「哲学」という学問領域において必要とされる「専門知」も必要ないのです。その代わり、自分自身が本来何者であって、いかに生きるべきか、全身全霊で問い続けるパッションが目覚めていなければならないのです。

「知(ソフィア)」を「愛する(フィレイン)」と訳される「哲学(フィロ・ソフィア)」のこの「愛」とは、自分自身のあるべき生き方を全力で問い、命がけで求める激烈さを持っています。それは単なる「興味」や「好奇心」あるいは「愛好」「好み」のようなものではなく、激しい衝動に衝き動かされた渇望に近いものです。自分自身のあるべき姿、自分自身の本質へ向けられたこの激しい問いかけは、人間のあり方そのものに深く根ざしています。なぜならば、人間は自分の決断、自分の行動を通じて、自分がどのような存在であるのか決めることができるし、また、決めなくてはならないからです。

ライオンや虎や狐は、目の前を無防備に通り過ぎていく小動物を、捕殺して貪り喰らおうとも、あるいは、知らぬふりをして見逃そうとも、彼らはやはりライオンであり、虎であり、狐なのです。しかし人間はそうではありません。相手が何であれ、誰であれ、どのような状況下であれ、殺すか殺さないか...その人の「何者であるか」はその行いによって決まります。殺す、殺さないというような極限的な状況を考えなくとも、相手に対して、自分が置かれた状況に対して、どのように向き合い、どのように行動するのか...その時その時の行動によって、その人の「何者であるか」が決まる。そうしてそのつど選択されたその人の「何者であるか」によって織りなされた人生が、その人の存在そのものなのです。だから私たちは、自分自身の存在にふさわしいあり方を絶えず自ら考え、自ら決めていかなければならないのです。

このことは反対からいえば、私たちは自分たちの生き方を自分で決めることができる、ということであり、それが人間の自由、ということなのです。そしてこの自由は、自ら自分自身にふさわしい存在であろうとし、そうした存在がいかなるものであるのか「考えることの自由」に基づいているのです。

哲学のパッションは、人間の自由に支えられていて、人間の自由へと向かうパッションなのです。それは確かにとても危険なものです。物わかりの良い冷静さや落ち着いた分別とは対極のものだからです。しかし、人間の自由は本質的に危険をはらんでいるのです。というよりも、自由とは自分自身で決断して生きることであり、他の誰でもない、自分自身として生きることであって、その営みは必然的に自分にとっても、世界にとっても危険なものなのです。

人間は時として恐るべき凶暴さを発揮する存在です。人はその行動を指して「危険」を言います。しかし、真に危険なのは、行動として表れた粗野で暴力的な行為などではないのです。それは、人間の本来的な自由、つまりものを考えることの自由なのです。このものを考えることの自由の危険に気がついている人が、いったいどれほどいるでしょうか...考えることの自由、思惟の自由とは、恣に想像をたくましくすることではないのです。


ソクラテスの人生は、まさしくそうした人間の有り様をはっきりとあらわしています。不当な裁判によって死刑を宣告されたとき、逃亡するのか、逃亡しないのか...その選択が、その人自身の「何者であるのか」、その人の存在を決定するのです。だから、ソクラテスは裁判の不当を知りつつ、敢えて死ぬことを選んだのです。

これは善し悪しの問題ではなく、損得の問題でもなく、それどころか、合理・非合理の問題ですらないのです。そうした尺度から見るならば、ソクラテスの行動は、あるいは愚かなものに映ったり、あるいは理不尽で、不合理な行動に見えるかもしれません。それは確かにその通りなのです。そもそも、ソクラテスの決断の根源はそうした分別のところにはないからです。ソクラテスの最期をめぐっては、「悪法も法なり...」という言葉がよく採り上げられるのですが、この言葉を耳にしたとしても、誰もがどこか釈然としないものを感じるはずです。そしてその「感じ」は正しいものなのです。ソクラテスの決断は、論理的・合理的な判断ではないからです。そもそも、ソクラテスの刑死をめぐって、ソクラテス自身にとって、いかなる論理的、合理的な判断が可能であったのか...それは最初から無理なことなのです。

自分が何者であるのか、ということを深く問うことなく、いまある自分の有り方をそのまま受け入れ、そのいまある自分の立場に従って判断をするだけであれば、どうすることが得で、良いことで、合理的であるか、「正しい答え」を専門家、エキスパートに聞くことが可能です。

しかし、そもそも自分は何者であり、何者であらねばならないのか...心の奥底に、そう根源的に問わずにはおられないパッションが目覚めるとき、善し悪しも、損得も、合理・非合理も、役には立ちません。こうした問いかけは、アテナイの街頭でソクラテスがそうしたように、「知恵ある者」たちを困惑させるだけなのです。

ソクラテスの刑死は、いくら判決が不当なものであっても、逃亡することはソクラテスという人間のあり方にはふさわしくない...ソクラテスはただ、そのような決断を通じて、自分自身の「何者であるか」ということを選び取った、ということなのです。誰もがソクラテスであることはできません。しかし同時に、誰もが自分自身であらねばならないのです。ソクラテスといえども、私の、あるいはあなたの代わりを務めることはできないのです。


自分自身であることというのは、生物学的に自分が「人間」あるいは「人」であるということではありません。それは、何かすでに存在するカテゴリーのようなものではなく、あるべき自分自身の存在に向けた決断そのものです。だから、繰り返しますが、人間にとって大切なことは、自分自身がどうあるべきか、どう生きるべきか、という根本的な知恵なのです。だから、哲学者は、ただひたすらこの問題を問いかける...

「知恵ある者」たちは、人間として知らねばならないこの根本的な知恵を持ってはいない...だから、「知恵ある者」と呼ばれたとしても、「無知」なのです。しかしここで大切なことは、それでは哲学者がこの「根本的な知」を持っているのか、といえば、やはりそのようなものは持っていない、と言わねばならないということです。

そのつど自分自身の何者であるのか、ということを決断しなくてはならない存在であるから、人間はそのつどそのつど決断の場において自らの有り様を決めなくてはなりません。そこに当てはめて意思決定すれば良い、というような、あらかじめ決められた都合の良い尺度など、存在しないのです。それが「自由」ということの意味なのです。裏を返すならば、だから、哲学者が、いかに生きるべきか、ということに関しての根本知を持っているわけでもないのです。哲学者は、専門知においても、根本的な知においても、「無知」なのです。だから、この二重の無知において、自分自身が無知であると知っていることによっても、ただその自覚だけでは、その人は哲学者であるということはできません。

自分自身が人間として生きるためには、根本的な知が必要であり、その知が自分には欠けている...そう自覚し、その知を目指して人生をかけて、熱烈に思索の営みを続ける...哲学者であるために唯一必要なのは、自分自身のあるべきありかたを問いかける、無条件のパッションなのです。ソフィストと哲学者を分けるのは、このパッションなのです。知と結びついたこのパッションは、しばしば人間社会の秩序やルールと衝突し、常識を突き破って機能します。それはもはや、世間における知ではないのです。古代のギリシア人はそれを、神と人との間に置きました。それは人間を超えたもの、神的なものからの呼びかけであり、「ダイモーン的な知」なのです。プラトンやアリストテレスが、真の創造のために必要だと勧請する「狂気」神的な「マニアー」とは、そうしたものの一つなのです。


さて、もともとのテーマである大学改革の問題に戻りましょう...

こうした問題を論ずるときに必ずと言って良いほど話題になるのが、教養と「リベラル・アーツ(自由七学芸)」です。

「アールス・リベラリス(自由な技芸)」とは、人間が自由に行う活動を指すのではありません。それは、人間の自由を実現するための「技芸(ars)」なのです。人間は、これらの技芸を身につけ、わがものとすることで、初めて自由な存在になる、つまり人間として立っていくことができるというのです。
古代ギリシアに淵源を持つこの思想は、「文法」「修辞学」「論理学(弁証法)」の「三学(trivium)」と、「算術」「幾何学」「天文学」「音楽」の「四科(quadrivium)」からなる
「自由七学芸(septem artes liberales)」として整備されていきます。

重要なことは、「三学」はもっぱら「言語」あるいは「言葉」に関わるもので、「四科」は「数学」に関わるものだということです。

現代では、コンピュータ・サイエンスの飛躍的な発展により、私たちの思考を「言語学」あるいは「数学」によって解明しようとする試みが主流となっていますが、「言語」と「数」とに関して言えば、「言語」がより根本的であるのか、それとも「数」がより根本的であるのかという問題はあるにせよ、いずれにしても私たちの「思考」は「言語」あるいは「数学」によって記述可能だ、ということになってきています。

下部に属する諸学の分類の詳細はともかく、リベラル・アーツが基本的に「言語学」と「数学」という二本の柱によって構成されているということは、これが私たち人間の精神活動を原則的に網羅するものと考えることができるでしょう。少なくとも、今日においてリベラル・アーツの再興が考えられているときには、そうした可能性が考慮されていると見た方が良いでしょう。

しかし、さらに重要なことは、このリベラル・アーツの体系のさらに上部に、それらを統合するものとしての「哲学」が置かれ、さらにその上に「神学」が置かれていたということです。だから、安易に「神学」抜きのリベラル・アーツを考えることは、その本質的な部分を見落としかねません。


かつて、ヨーロッパの知の体系においては、「神学部」が置かれていない大学は、大学の名に値しないとされていました。

このことは、一方では、宗教的な権威が学問の自由を抑圧していた、ということの例として批判的に語られることがありました。確かに、ガリレオ・ガリレイ、ヨハンネス・ケプラー、ルネ・デカルト、スピノザ、カント...そうした例を挙げることは難しくありません。

しかし、それは一面的な見方でしかありません。こうした例は、何も神学が存在したから起きたというものではないからです。

神学は私たちの思考を超えたものへ向けられた思索です。神学、あるいは形而上学、あるいは絶対者論は、私たちの思考の限界点へと向けられた試みです。そしてそれは、考えることの自由に基づいています。それはまた、私たちの存在を支える究極的な根拠に肉薄せんとする激しいパッションに支えられているのです。

儚く、有限な存在である私たちは、自分たちの存在の限界点に向かって思いを馳せずにはいられません。パスカルが言うように、私たちは「一本の葦」でしかないのですが、それは「考える葦」なのです。

思考の限界概念に立ち向かう私たちの知の営みが、果たして納得のいく成果を出すことができるかどうか...

それは誰にもわかりませんが、実はそのようなことはある意味においてどうでも良いことなのです。そう問わずにはいられない人間がそこにいる限り、そうした試みは必ず踏み行われにはおかないからです。これもまた、決断に支えられた行為であり、自由な思索の努力なのです。

こうした努力を無駄なことだということは簡単です。しかし、成果が見込まれるものだけを思索の課題にするというのは、自由な人間の姿ではありません。知の体系の内部において、知のシステムをカスタマイズし、オプティマイズする...こうした作業は、確かに一定の成果を約束されています。しかし、それはそうした行為をしている人間が「自分自身であること」に寄与しはしないのです。学問がそうしたものになってしまうのであれば、それは「自由の諸学芸(artes liberales)」ではなく「機械的技術(artes mechaniae)」に近いものであると言わねばなりません。人間の知の営みがそういうものであるのであれば、いつかコンピュータが人間に取って代わる日が来るでしょう。

人間は、どこからやってきてどこに行くのか...この問いに対しては、誰も答えることができません。人間は、時間的にも空間的にも、ぽつんとこの世界に投げ出されてしまっている存在なのです。だから、自分自身であろうとする努力は、否応なくそうした人間の不安定なあり方に直面せざるを得ないのです。だから私たちは、自分たちの儚い存在の究極の根拠を、思考の限界点のその先まで求めずにはいられないのです。

私たちの思考を超えた存在に向き合う姿勢は、思考の限界を超えていこうとする情熱と同時に、その限界点において謙虚になれ、有限な自分自身のあり方にふさわしくあれ、と謙譲を教えるのです。

大学から神学部が失われることは、学問の自由の実現ではなく、むしろその死滅ではないのか。知が、自分自身の限界に挑むこと以上の自由が、果たして存在するのであろうか。そしてこの思考の限界概念に挑むことは、単なる知的な実験とはまた異なるものなのです。知の自由を支えるパッションがそこなければならないのです。

 



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