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峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

人から「悲しみ」が失われている:デトロイトの人工知能学者が唱える仮説...【注意!掲載日とURLをご確認の上、お読みください】

2017-04-01 03:40:37 | 哲学・思想

 

はじめに、こちらを...

 


人から「悲しみ」が失われている:デトロイトの人工知能学者が唱える仮説

TEXT BY WIRED.jp_W& HIROSHI M. SASAKI(WIRED:2014.04.01)


これはとても良くできています...

もちろん、文中に「【注意!掲載日とURLをご確認の上、お読みください】」と丁寧な断り書きがあるとおり、エイプリルフールの「捏造記事」ですね。

文章そのものも、終わりの方は、「そういうことだよ...」と仄めかす調子になっています。


これは一種の科学的コラムの体裁をとった、エイプリルフール記事ですが、疑似科学的な説明に対して免疫がしっかりついていないと、こういうものを鵜呑みにしてしまうことになります。


ここで主張されていることは、確かにそれなりの説得力を持っています。実際、本当にそうかもしれないと一瞬感じさせる何かがあります。
ただ、こうしたことに関して「科学的な検証」が可能かどうかは、実はまったく疑問...というよりも、常識的に考えれば、この「仮説」の「検証」はまず無理だとおもいます。

何が言いたいかといえば、まず第一に、科学でできることには、大きな制約があるということ、これをわきまえておかなければなりません。

科学的な検証の手続きはとても厳格ですから、きわめて説得力があると私たちの誰もが思うような仮説であっても、「検証」というのはとても難しいことなのです。

私たちの「常識」というのは、所詮は私たちが経験的に見知っている範囲の中で、成立しているように「見える」「思える」だけのことなのですが、それが「科学的検証」をくぐり抜けるためには、「どういう条件下で...」「どういう物差しのもとで...」「一定以上の確実さを持って、どのような数値として...」「観測」「計測」されるか...ということが確認されなくてはなりません。
さらに、それに加えて、その現象がそう「計測」「観測」される「メカニズム」を「論理的」にきちんと説明する「数学的モデル」もつけなくてはならないのです。
だから、何しろ手間暇がかかる...お金がかかる...時間がかかる....科学の世界はだから、がっちりとした「検証」待ちの仮説ばかりがひしめいているわけです。
科学の世界は「99パーセントが仮説」というのは、そういうことです。

よく誤解されていることなのですが、「99パーセントが仮説」というのは、科学的な主張のほとんどが「怪しい」ということではなく、実験や観測を行っている現場では、まずまず十中八、九間違いないような常識と言ってもよいようなことであっても、「検証」がすむまでは「仮説」ですから、「検証」が説得的に行われて、晴れてその「仮説」が「科学的な成果」として認められるまでは、とてつもなく時間と労力がかかる...ということです。
だから、この手間暇のところをすっ飛ばして、すぐに「成果」を認知させようとする...これが一方では「疑似科学」の温床になり、もう一方では過重な結果主義、成果主義の圧力となる....小保方さんの「STAP細胞」の問題は、こういう背景のもとにある。

そこで、次に言いたいことは、いまの流れからも見えるように、私たちの「常識」から「科学的成果」への道のりは、とてつもなく大変だ、ということをわきまえる、ということになります。
小保方論文とSTAP細胞の発見をめぐる様々なごたごたに関しても、科学的に最終的な判断を出すには、私たちの常識的な感覚とは次元の違う手続きを経過しなければならない、ということなのです。
ですから、すぐに調査して報告しろ、とか、出てきて白黒をはっきりつけて謝罪せよ、とか、本当のところはどうなのか、早く明らかにせよ、とか言うとは、まったく的外れだ、ということなのです。これは所詮は、常識的な世界のレヴェルの話でしかない...

それはそれで大切ではあるのですが、科学的な成果とは、何の関係もない、というべきです。


小保方さんの問題のときには、理研が中途半端な報告を出しましたが、科学的な検証は、STAP細胞の存在が科学的に確認できるか、という問題なしにはあり得ないのですから、いまの時点できちんとした判断が出るはずがないのです。つまり、STAP細胞の存在そのものについて判断をしていない理研の報告は、科学的な報告にはなっていないのです。だから、あの報告は、問題を科学の次元から常識の問題へとシフトしてしまったもので、泥仕合にならざるを得ないのです。

科学的な問題の決着は、証拠と科学的手続きに従ってのみ、なされます。それはつまり、公開されている手続きに従って行われる、科学的検証なのです。だから、それが終わるまで、マスコミも、黙っているべきなのです。素人がごちゃごちゃ言ってもどうにもならない世界の話なのです。

小保方さんの例について言えば、いまだに、あれはだましているのだ、捏造だ、偽装だ...いや違う、はめられたのだ...いろんな論調がありますが、いまあげたような論調のどちらかに立つ人は、科学的な問題には無関係なところで議論をしていることになりかねません。

ここで誤解してはいけないのですが、それはそれでもちろん、全面的に悪い、ということではありません。

科学者といえども社会の中に生きていますから、社会的な役割と使命そして責任がある...だから、それは大いに議論してもいい。
しかし、それは科学的な内容とは何の関係もないし、科学的な内容と何の関係もないからには、問題の核心とはまったく次元が違う問題でしかない、ということをわきまえておくべきなのです。

このわきまえがないと、科学に対して過大な期待を抱き、過大な要求をする...

それが、疑似科学の温床になり、成果主義、結果主義の圧力を生み出す源となる...

これらは、過酷な現場で孤独に黙々と科学的な探究を続けるプロフェッショナルたちの足を引っ張る行為なのです。


要するに、科学的な次元での問題と娑婆の常識を一緒にするな、ということです。この区別ができない人は、人のことをああだこうだ言う前に、自分が疑似科学の餌食にならないように注意しろ、ということです...ちょっと言葉が過ぎました...しかし、これは偽らざる思いです。


世界は才能があっても根気のない人間だらけ...あるアメリカの大学の卒業スピーチから...

2017-03-24 23:07:46 | 哲学・思想

 

 初めに、こちらを...

これは、アル・ゴア大統領のスピーチ・ライターを務めていた、作家のダニエル・ピンク氏が、自身が教鞭をとっている「ミネアポリス・カレッジ・オブ・アート&デザイン」で行った卒業式スピーチです。2008年度といいますから、9年前のものです。


「世界は才能があっても根気のない人間だらけ」副大統領のスピーチライターが“執念”の大切さを説く...

Logmi:2008年7月12日

 

さすが、アメリカ合衆国副大統領のスピーチ・ライターを務めるぐらいの人ですから、とても見事な祝辞になっています。

内容的に、とても多くの問題提起をしていますから、色々な切り口から考えることができますが、ちょうど今は大学の卒業シーズン...

ということで、比較的まっすぐ素直な読み方で...

 

さて、このスピーチは、スピーチの王道にしたがって、きちんと内容を整理し、聞き手の心に残るように繰り返しサマライズしながら語られていますが、中心的なメッセージを3つのテーゼにまとめています。

 

1.人生にプランなどありません。

2.執念は才能に勝ります。

3.あなたの人生がすべてじゃありません。


最初の、「人生にはプランなどない」というのは、とても大切なことです。

筆者は、家族や教師、友人や先輩など、周囲のアドヴァイスにしたがって、無難な選択肢を選び、ロー・スクールに行きますが、結果として得たものは、生涯の伴侶と返済義務のある多額の奨学金、そしてこの「人生にはプランなどない」という人生の教訓だけだったと書いています。これは、面白いコメントであると同時に、とても的を得た、正直な感想だと思います。

じっさい私も、自分の大学生活を振り返ってみれば、これと同じような感慨を持ちますし、同じようなことを口にしそうな友人の顔を何人も思い浮かべることができます。 

私自身は大学で伴侶や奨学金とは関わりがなかったのですが、最初に志した学科の授業に落胆し、自分の進むべき方向性に迷ったことがありますし、その後の人生も、まさしく紆余曲折...人生の道程を転々として、教員一家の息子で教員志望の人間からは想像のできない、先の見えない生き方になりました...


歌人だった祖父の影響で、国文学を学んで国語の教師になろうと思って早稲田の文学部に行き、講義に落胆して道に迷い、素晴らしい哲学者の晩年の姿を目の当たりにして哲学に憧れて哲学を専攻し、大学院に進み、研究職を目指して博士課程に進みつつも、またもや道に迷って、29歳の時にそれまでの人生を全部放り投げて禅宗の修行道場に駆け込む...

42歳の時に道場を下り、縁あって、それまで一度も足を運んだことのなかった、山梨県のお寺の住職になる...


ざっと見てみれば、こんな人生の流れなのですが、確かにそのつどそのつど、それなりに先のことを考えながら人生の選択をしてきているのですが、結局その通りになどなりませんでした。最終的には僧侶としての生き方を選ぶことになりましたが、追い詰められて道場に飛び込むまで、自分が僧侶になるなどとは、思ってもいませんでした。ましてや、40過ぎまで人生が決まらず、修行僧として定収も保証もない生き方になるとは想像もしませんでした。

 

 

さて、このスピーチでは、こう語られています。


人生には、プランなんてものは存在しない...


なぜならば、どれほど綿密な人生設計をして、計画したプラン通り生きていこうとしても、実際にはなかなかそうはならないから。

自分の人生は、自分だけの都合で決まるわけではありません。自分一人を思い通りに変えることすらままならないのに、ましてや自分が生きている社会そのものを思い通りに変えることなど、できようはずがありません。だから、「あれをして、その次にはこれをして……」という人生計画にしたがって緻密なプランを立てたとしても、所詮は一方的な自分都合のものでしかありません。人生は自分と他者、自分と世界とが交錯する場ですから、その一方でしかない自分の内部でのプランの緻密さは、実はプランそのものの実現を保証してはくれはしないのです。だからスピーチでは、


 

この世の中はめまぐるしく変化し続け、予測不可能で、自分の思うようになんて行かないからです。私の言うことを信じてください。そんな綿密なプランは、あっという間に紙くずになります...


ということになるのです。今日のように、様々な意味において大きく変化しつつある世界においては、なおさらそうですね。

私自身の実感で言えば、1986年に大学に入学してバブル真っ盛りの東京にやってきましたから、今の日本の社会は、当時からすればまったく想像できません。

あの頃、一緒に将来を語り合った仲間のその後は、どうなったか...

皆それぞれ自分の道を歩んでいますが、あの当時、今日の自分たちが置かれている状態を想像できた仲間はいませんでした。

それではどうすればいいのか...

スピーチでは、こう語られています、


別に700通りの脚本を用意してから大学を去れと言っているのではありません。行き当たりばったりに生きろというのでもありません。私が言いたいのは、あなたはこれからの人生を通じて、いつだって決断ができるということです...

 

 要するに、代替プランをいくつ考えようと、そんなことで現実の変化に対応することなどできようはずもないわけですから、人生を計画的に思い通り運ぼうという考え方そのものを見直さねばならない、ということ。しかし、だからといって、所詮人生など思うようにはならないと諦めてしまい、行き当たりばったりで良い、と居直るべきでもない、ということです。

そしてスピーチでは、


私が言いたいのは、あなたはこれからの人生を通じて、いつだって決断ができるということです...

 

と語られています。大事なことは、緻密なプランが有効に機能しないような、予想不可能な社会に生きていることは受け入れなければならないけれど、私たちはこれからの人生を通じて「いつだって決断ができる」ことだというのです。

しかし、ここで言う「決断ができる」とは、一体どういうことなのか...


はじめに、「いきあたりばったり」に生きている人が行う選択を「決断」と呼ぶことはできないということを、確認しなければなりません。

勘違いしてはならないことは、繰り返しになりますが、「人生は計画通り行かない」からといって、計画を立てることそのものを放棄してしまって良いわけではない、ということです。諦めてしまっては、そもそも何もできませんし、人生には何も起こりません。

「決断」と呼べるべきものは、自分で考え、ある程度の見通しを持って初めて成り立つものです。

何の計画も、努力も、準備も無しで、周囲の状況に追い詰められて、本意でもないことを「選ばされる」というのは、選んでいるようで、実は「選ばされている」だけですから、その人の主体的な決断などそこにありはしないのです。

「決断ができる」ということはですから、出来得る限り情報を集め、考え、計画を巡らすという行為を前提としています。

「人生にはプランなどない」というのは、「プランを立てるな」ということではなく、「プランに頼るな」ということです。もう少し言えば、プランを綿密に立てたからといって油断をするな、常に「リプランニング」を考えて生きろ、という意味なのです。


さて、面白いのは、スピーチでは「決断」を2つに分けて説明しているところです。

一つは「手段的な理由」で行う決断。

もう一つは「ただそうしたいから」「そこに価値を見出しているから、そうせずにはいられないから」行うような決断、筆者の言葉で言う「もっと“根本的な”理由」で行う決断です。

「手段的な決断」というのは、成果がしっかりと見込まれている場合の決断です。その人に具体的な目標があり、その目標に到達するための筋道が見えており、求めらるべき成果がある程度算定できている場合の決断です。

一方、「より根本的な決断」というのは、スピーチ内での説明にもある通り、ざっくりと言ってしまえば「やりたいからやる」としか言いようがないものです。

しかし、ただやりたいから...という理由だけでは、ただの空想、夢物語ではないか...

計画を綿密に立ててすら、うまくいかないのならば、そもそもなりたい自分になんかなれっこないし、だいたい、人生は思い通りになんかならない、と自分で言ってるじゃないか...言ってることが矛盾しているんじゃないか?

そんな疑念も湧いてくるはずです。

ありていに言ってしまうならば、スピーチで語られているような人生論は、何らかのずば抜けた才能があり、人脈を持ち、資金力にも恵まれているような人、要するに一部の特別な人のものであるように思われるはずです。そして、そうした判断は、基本的には正しいといえるでしょう。このスピーチは、良くも悪くも、成功者による、(将来の)成功者に向けられた、成功者のためのスピーチです。少なくとも、今日の意味における「成功者」の世界観の中で生み出されてきたものです。ここは、確認しておきたいとおもいます。

実際、スピーチの中でも、これからの時代には「新しいものを生み出せる人たち」が必要であると述べられており、このスピーチはまさしく、もっぱら将来そうした斬新なものを生み出していくであろう、クリエイティヴな人に向けて語られています。ですから、相当な才能が前提されていると読むほうが自然です。


しかしながら、このスピーチは、ただそういった人たちだけのためのものであるかといえば、そうでもありません。スピーチでは、続けて、このように言われています。


一方で、本当にすばらしいことを成し遂げる人間、世界にインパクトを与える人間というのは、とにかく最後まであきらめずに、粘り強く、ひたむきに取り組み続ける人たちです。どのような分野においてもそうですが、ことさらみなさんがこれから進もうとしているクリエイティブな分野においては、執念は才能に勝ります...


とにかく最後まで諦めずに、粘り強く、ひたむきに取り組み続ける...

平凡で月並みのようですが、結局、最後にはここに尽きる、というほかはないのです。ここでは「クリエイティブな分野」におけるモットーとして語られていますが、「どのような分野においてもそうですが...」と前置きがつけられているところがとても大切です。分野を問わず、人生においては、諦めずに、粘り強く、ひたむきに、という姿勢にまさるものはない、ということなのです。

続くコメント、


よく聞いてください。この世界は、才能はあっても根気のない人間で溢れ返っています。時間などかけなくても才能さえあればなんとかなると考えてしまっているような人たちです...


これは、とても大切なことを言っています。

「この世界は、才能はあっても根気のない人間で溢れ返っています」...厳しいけれど、ズバリと本質をつく一言です。人生においては、どのようなことであれ「諦めずに、粘り強く、ひたむきに」取り組むことが一番大切なことです。

しかし、実際には「才能さえあればなんとかなる」と人は考えがちです。才能のある人は、そのようにして自分の「才能」によりかかって努力を怠る口実とし、特別な才能に恵まれていない人は、自分には才能がないのだから、努力しても無駄だと諦める口実にしてしまうのです。どちらにしても、いちばん大事な諦めずに、粘り強く、ひたむきに」取り組むことから逃げてしまいがちです。このスピーチで語られているように、「執念は才能に勝る」のです。


才能のあるなしを問わず、分野を問わず、いちばん大切なことは、「諦めずに、粘り強く、ひたむきに」取り組むことです。しかし、これは「成功」を保証するものではありません。「執念は才能に勝る」とはいっても、この「執念」ですら成功を保証するものではないのです。どれほど才能があろうとも、実際には才能だけでは成功することができないように、執念は才能に勝る...しかし、それは「勝る」だけであって、それだけで決まる、というものではないのです。


結局、「才能があるかどうか」など、簡単にはわかりません。ほんとうの意味での才能を見極めるには、それなりの眼が必要です。

もちろん、ある程度のレベルで良いのであれば、才能のあるなしを判断することができるでしょう。

それほど努力をしなくとも、やすやすと何かをマスターすることができるのであれば、その人には才能がある、と言っても良いでしょう。

あるいは、大して努力をしなくとも、周囲がびっくりするようなことをやってのける人であれば、その人はすごい才能に恵まれている、と言っても良いでしょう。

しかし、そうした意味で言われる「才能」とは、所詮は素人のレベルでの判断でしかありません。その程度のレベル、つまり素人が驚く程度のレベルで良いのであれば、世界中には、信じられないようなことをバリバリやる人間など、実は掃いて捨てるほどいます。

そう、「時間などかけなくても才能さえあればなんとかなる」程度のレベルのものは、実は教育や努力によって凌駕することは可能ですし、そもそもそんな甘いことを言うことからも分かる通り、その人は井の中の蛙であって、あまりにも世界を知らなさすぎるのです。

ヴァイオリンの「スズキ・メソッド」の例を出せばわかりやすいでしょうか。小学校に入る前の小さな子供が大勢集まって、バッハのシャコンヌを一斉に合奏して弾き始める...その光景に世界が驚嘆しました。小さな子供が、バッハのシャコンヌを弾きこなすなんて...とんでもない才能の持ち主だ、と両親は大喜びかもしれませんが、その程度の才能ならば、それほど驚くこともない...きちんと一人ひとりの可能性を抽き出しさえすれば、実現可能なことなのです。スズキ・メソッドはそうしたことを証明してみせたのです。

その道を心から愛し、その道に執念を持って取り組む人は、苦労を厭うことがありません。

多くの人が身も心も捧げて知恵を駆使し、研究を重ね、心血を注いで競い合っているそのフィールドに、自分も降りていって、そこで切磋琢磨し、しのぎを削り、そのうえで、誰もが及ばない結果を出す...その時、本物の才能が目に見える形で現れ出るのです。鉱石に金が混じっていることは、手にとって見れば素人でもある程度はわかります。しかし、どの程度の純度で、どの程度の量の金がそこに含まれているのかは、実は目利きでないとわからない。才能に関して言えば、基本的にはその人と同じぐらいの才能がなければ、わからなのが普通のことなのです。


そういう観点から言えば、このスピーチで語られているモットーは、こう受け止めたほうが良いように思います。


「執念は才能に勝る」というのは、実は「才能」などというものは「執念の彼方」に初めて姿を現すものなのだから、本当は「執念は才能に先立つ」という意味だと理解したほうが良い。

「人生にはプランなどない」というのは、人生設計がその通りに行かないのは、社会が変化するからだけではなく、自分自身にどのような才能があり、本当は何をしたいのか...つまり、自分が一体何者なのか、実は簡単にはわからないからなのだ。

「人生は設計通り行かない」「思い通りにはならない」というのは、若い頃に思い描いている「設計図」が本当にその人の生き様にあっているのか、本当にその人が心から願う理想の姿なのか、実際に人生を生きて、挑戦し、闘い、挫折をしてからでなければわからないものだからだ、と考えたほうが良い。

この世に生を享けてから、成長し、学び、自分を確立し、使命を果たし、年老いてこの世を去るという、複雑でしかも私たちにとっては決して短くはない人生の見取り図は、そのあるべき全体像が見えるまでには時間がかかるのです。人生は、一生かけて自分自身の人生のあるべき全体像を見つけ、悔いのないように隅々まで探索し、最後まで一つ一つピースを埋め込んでいくような作業なのです。人生の設計仕様書は、全体が完成して初めてその全貌がわかる、と考えたほうが良いのです。

人生は計画通り行かない...だからこそ、探求するに値するのです。

そして、粘り強く探求し続けなければその意味がわからないからこそ、本当に自分がやりたいことを求めるという志がなければ、長続きなどできません。

結果が見えないような中で努力を重ねていかねばならないからこそ、スピーチで言う「根本的な決断」、つまり「ただそうしたいから」「そこに価値を見出しているから、そうせずにはいられないから」行うような決断が私たちの心の支えとなるのです。


最後に、3つ目のテーマは「あなたの人生がすべてじゃありません」というものでした。

自分の人生はたしかに大切です。誰もが、まずは自分自身の存在がいちばん大切です。

しかしながら、だからといって、自分が生きることの意味、自分の存在の意味は、自分自身の中だけで完結しているわけではありません。

共に生きる...この観点を抜いて、人生を全うできるはずなどないのです。

 

さて、このスピーチを全体として振り返って見るとき、何が言えるのか...

それは、当たり前だと思っている考え方、感じ方を、もう一度根本的に見直すことの大切さです。スピーチの3つの柱となっているテーゼ、

 

1.人生にプランなどありません。

2.執念は才能に勝ります。

3.あなたの人生がすべてじゃありません。


これらは、誰もがなんとなく「そんなもんだろう...」と漠然と思っていることだと思います。

しかし、それは決して自明なことではありません。自分自身の人生をきちんと生ききるために、自分の頭で考える...

物事を真摯に、粘り強く考えることの必要性を、このスピーチは前提としているのです。

 

 


「適者生存」を考える...「ベストアンサー」は「ファイナルアンサー」か?

2016-11-28 22:00:32 | 哲学・思想

初めに、こちらを...

*弱者を抹殺する。と題してYahoo知恵袋に投稿された質問へのベストアンサーが秀逸!

Temita

 

これはとても良いですね....

そして、まさにその通り!
で終わらせないで、この回答者に対して、あなたは次にどのような質問をしますか?

 

この回答者は、とても明確な答えを出しています。
複雑多様な生き物の世界という、とても難しい問題を、これだけ綺麗にすっきり説明できるのは、回答者自身がとても明確な前提を持っているからですね。

ああだこうだ紛糾しようと思えばできないことはないけれども、結局、基本的にはこういう考え方に行き着くのではないか...
どんな議論も、最後はこうした考え方を前提することになるのではないか...
そんな考え方の枠組みをあらかじめ前提として、そんな前提から答えているのです。だから、すきっと一貫した明確な話になる...

それでは、その前提を代表する思想が、どのようなものか、あなた自身のなかで整理できますか?
これを知るには、この回答のなかに登場する用語を少し踏み込んで考えてみる...調べてみれば、すぐにわかることです。誰が、どのような使い方をしているのか...

そうすれば、この回答者が前提としている考え方の骨組みがわかります。
まずは、あなた自身がそうした前提を受け入れることができますか?


生き物の生存戦略...それは、「生きる」ということの根本にかかわる問題です。
あなたが、私が、この地球上で生きていく...そのことの意味を、こうした観点から説明して、果たして語りきれるのか...

前提そのものは確かにその通りだし、その前提を一旦受け入れて考えるならば、あとはそのとおり..という場合であっても、そもそも「生きる」、という深く重大な問題を、この回答だけで終わり...すべて問題ありません...こうした観点からの議論で尽くされている...本当にそうなのか?


前提が違えば議論は嚙み合いませんから、ここで違う前提の議論(たとえば宗教的な信仰や個人的な信念など...)をぶつけることが取り敢えずは適切ではない場合であっても、違う側面から、「~という観点からの問題は、どう考えるべきですか?」 という質問を、共通の会話ができるように、できれば具体例を引きながら問いかける...
こうすれば、考え方の前提そのものに肉薄する、とても深い対話が可能になるかもしれません。


次に、前提に関しては同意する場合、こうした説明ではカバーできないような事例はありますか?
生き物の生存戦略...生きるということの根本にかかわる問題ですね。
いろいろな事例を考え、調べてみて、例外はあるのか...ケースそのものは少ないにしても、重要だと思われるような例外はあるかもしれません。
場合によっては、その「例外」を基に、ここでの回答の前提に、ある一定の条件を加えて考える必要が出てくるかもしれません。こうすれば、議論がとても膨らみます。

 

なぜ、このようなことを言うのか...


自然の世界はとても豊かで複雑で、驚きに満ちています...
それを、とてもシンプルで明快な法則で説明し、理解する...
これはとても素晴らしいことです。そして、とても大切なことです。科学的な思考というのは、まさにそうしたものです。
しかし、同時に、世界には今の科学では説明できないようなものが、山のようにあるのです...
将来、わたしたちの科学的な能力がさらに進歩し、それまでは、ただの偶然、あるいは乱雑でこんがらがっているとしか思えなかったような現象にも、実はきちんとした論理的法則性がある...そんな風に一つ一つの物事が説明されて行くにしても、いまの時点では、実はわたしたちの科学の力ではお手上げのケースは、ほんの身の回りに、いくらでも転がっているのです。
ですから、この回答の、すきっとした説明に対して、いや、こんな面白い問題がある...こんな例は、例外のように思われるけれども、どうなのか?
そんな質問が、とても大切なのです。


この回答者、もちろん、素人ではないですね(笑)

ですから、わたしたちが、この回答に満足してしまうのではなく、さらに突っ込んで、良い質問を繰り出せば、「基本的には、こうなのだが、実はね...こんな例外があってね、これは学会の大問題なんだよ...」「こんな考え方の人がいてね、少数派だけれどもね、間違っているとも言えなくてね、こうした事例に関しては、この人たちの方が優れた見解を出せるんだよ...」

そんな素晴らしい話を聞かせてもらえるかもしれません。

素晴らしい学者、素晴らしい教師ほど、難しく、困難な質問を喜ぶのです。
せっかくこの明確で見事な回答を寄せた人がいるのですから、さらに踏み込んだ質問を考えるべきなのです...


*ちなみに、写真は「適者生存(Survival of the fittest)」という言葉の祖とされるハーバート・スペンサー(1820-1903)。


哲学を目指した頃...

2016-11-26 19:28:02 | 哲学・思想
私は、自分自身の人生の意味に対して確固とした自信を持つことができないでいて、それで哲学を志しました。
自己探求のその先に、ぶれないしっかりとした軸のようなものを自分の中に見つけ出すことができないか...そう思ったわけです。
 
最初は現代英米神学(P.ティリッヒ)をやり、神と信仰の世界に、学問を通じて迫ろうと思い、それでも足らないものを感じて、思索の力というものを信じて、あらゆる問題の根源に向かって徹底してものを考え抜くドイツ観念論の「絶対者論」に取り組みました。専攻はF.W.J.シェリング...それも、晩年のシェリングの「宗教哲学」です。
 
 
研究室では素晴らしい恩師や学友に恵まれ、学問としての哲学の奥深さ、知的な努力の積み重ねの伝統が放つ煌めきと凄みも体験できました。
そしてそれ以上に、最晩年の西谷啓治先生の謦咳に接し、その思索する姿に触れ、哲学の営みのもの凄さを感じ、戦慄するような「なにものか」を感じることができました。
先生に最後にお目にかかったのは、本当になくなる直前...その時私は駆け出しの新米哲学徒であったのですが、もの凄い勢いで私は先生に詰め寄られました...今思えば、それが先生の私に対する公案だったように思います。
しかし、結局、確固とした自信も、ぶれることのないしっかりとした軸も、その時の私は自分の中に見つけ出すことができませんでした...
 
その時私が哲学科の大学院生としてやっていたことは、結局「講壇哲学(Schulphilosophie)」つまり、大学機関での研究としての哲学、大学の講壇で教えかつ学ばれる教養としての哲学の訓練でしかなかったのですね。
私には、自分自身の人生の問題を何とかしたい、という、哲学に向かうだけの動機がありましたから、学生時代には真剣に、懸命に哲学と取り組みましたが、それはじつは「哲学」ではなく「哲学の研究」でしかなかったのです。
私は、自分が研究しているシェリングの思想に惚れ込んで、論文を書くときにはシェリングが乗り移らんばかりの思いを持っていましたし、ヘーゲルも、ニーチェも、ハイデガーも、読むたびに心が揺さぶられるような思いをいだいていましたから、自分の勉強を、ただの「学問的研究」...分析対象としての哲学の研究とは違うのだと思っていましたが、それでは本当に自分が「哲学」をしていたのか...といえば、そうではなかった...
私の書くものは、謂わば誰かの思索の継ぎ合わせ、「パッチワーク」でしかなく、私自身の内面から本当に湧き上がってくる言葉ではなかった...
研究者の卵であった私を厳しく親切に指導してくれた先輩...私にとっては、恩師なのですが...この先輩に、有る時、
お前の書くものは、確かに引用も幅広くきっちりしているし、なかなか面白いけれど、結局人の思想のパッチワークじゃないか...お前しか吐けない一句、一言で良い、お前にしか言えない一句を吐くことが、哲学の仕事じゃないのか...
と指摘され、悔しくて、しかし自分でもうすうすわかっていた本当の弱点をずばりと指摘されて、自分自身が不甲斐なくて、涙が止まらず、朝まで眠ることができなかったことがあります。
私の大学院生活は、いつかこの先輩に対して、「これが私の一句です!」というものを何とか呈示したい...そんな思いを底流に持っていました。しかし、結局、その願いは叶わず、自己嫌悪が高まるばかり...
 
カントやフィヒテ、シェリングやヘーゲル...ニーチェやハイデガー...私が取り組んだ哲学者たちは、誰もが口を極めて「講壇哲学」を徹底的に攻撃しています。
哲学は教えることも、学ぶこともできない...それは、一人一人の孤独な格闘であり、言葉だけを頼りに、徹底的に言葉に向き合う必死の努力なのである...
本物の哲学者たちから発せられるこうした言葉に深く共感しながら、自分自身は結局、本物の哲学はできていなかったのです...
 
 
要するに、私はとても「甘かった」のですね...
ものを考えることは好きだったし、哲学に対して激しいあこがれと情熱を持っていましたが、真剣に、命がけで取り組む、という事の本当の意味がわかっていなかった...
私の一生懸命は、要するに普通の一生懸命...
論文を生産し、しかるべきポストについて、講壇哲学を大学の講座で「教える」ことはできるが、ただそれだけのこと...そんなことであれば、「やらねばならないこと」とはいっても、自分の夢を実現するためならば、誰もがやらねばならない当たり前のことでしかありません。貧乏暮らしだの、連日の徹夜だの、ストレス漬けの出口のない毎日だの、そんな程度のことが我慢できなければ、何の世界であっても一本立ちなどできませんし、一流になることなど、夢のまた夢です...そんなものは、一生懸命、と大袈裟に言うほどのことではないのですね。
もちろん、大学教官になり、大学教官としての使命を全うするということは、実はとても大変なことです。生半可なことでは、「講壇哲学者」になることすらできません。その意味では、今から考えると、私は学者として生きていく、という点から見ても、「甘かった」のです。
 
 
それでは、何が問題であったのか...実は、「命懸け」と言っても、今ここですぐさま生命を投げ出さなければならない、という事ではありません。それは全く問題が違うのです。命を投げ出す、といっても、追い詰められた末での瞬間の決断であれば、蛮勇を持っての勢いで、あっさりできてしまったりするものです...そんなものは、実は命懸けでも何でもない。ただの勢いです。
そうではなくて、自分の人生のすべてを賭けて、その一点に立ち向かう...勝算があろうとなかろうと、自分が生きていることの意味がすべてそこに懸かっている、と肚を据えて覚悟を固めているかどうか...
命を捨てる決意を持って取り組み、そしてなおかつ、絶対に諦めない...どれほど駄目であっても絶対に命を捨てることなく闘い続ける事...ただそれだけの問題なのですね。とても泥臭い世界...
そこでは、本当に命を捨ててやる覚悟があれば、結果として生きたか死んだかなど、問題ではなくなっていきます。人間の命はとても儚いですから、ちょっとしたことであっけなく命を落としてしまったりします。だから、命を捨てるというのは、ただ死を選ぶことではないのです。命を捨てるとは、生「き死にを委ねる」、ということです。それでは、いったい何に委ねるというのか...
それがわかっていなければ、委ねるなどということはとうてい無理ですし、命を捨てるなどということはできようはずがありません。
命を捨てる、というのは、個人的な思い入れだけでできるようなものではないのです。それには、時節因縁がある...
 
生き死にを委ねる...その覚悟が本当にあれば、攻めて攻めて攻めて、それでも駄目ならば、退いて退いて退いて、負けて、服従して、身売りしてでも生き延びて、必ず反撃する...体力と気力と知恵...英知も狡知も駆使して五年でも、十年でも、二十年でも、なりふり構わず死ぬまで戦い抜く事ができる。
要するに、哲学から撤退して修行の道に入ったとき、私は落伍したのですが、それは私の覚悟が足らなかっただけのことなのですね。今思えばなのですが、自信がなくなろうが、論文が書けなくなろうが、忘れ去られようが、失踪しようが、私は、断固、撤退してはいけなかったのですね。徹底的に考え、自分と向き合うことはどこにいても、どんな境遇にあろうとできることですから...
哲学にせよ何にせよ、最後は覚悟の問題だと私は思います。そして哲学は、「考える」いうこと以外のすべてを剥ぎ取った素っ裸の状態で自分自身に覚悟を問う営みです。
そう考えれば、哲学は書物の上のことでもなく、新奇なアイデアを弄ぶことでもなく、評価される論文を量産することでもありませんね。誰もが日夜、自分自身の日常の営みを続けながら取り組んでいくこと...
覚悟があれば、待つことができる...それは、しかるべき時節因縁を待つのです。自分の「命を捨てる」つまり「生き死にを委ねる」ものが自分に到来するのを待ち続ける...怖れながら、待望しつつ...厭いながら、待ち望みつつ...引き裂かれ、宙ぶらりんになりながら、食い下がって考える...考えるとは、待つための儀式なのです...そして、待つとは、委ねるための祝祭なのです...祭りは、長ければ長いほどよい...果たされることのない、果たされることのできない約束のために、すべてを犠牲にして待つことができるか...そこに初めて、「信」が生まれ、「真(まこと)」が生起する...効率も悪く、正確な見通しも立たず、設計すらできない...しかし、これこそが一番大切なことではないかと思うのです。
これが、「哲学」の落伍者として、今思うことです...
同じ失敗は、繰り返してはならない...私にとってそれは、自分と同じ轍を踏まないように、来たるべき若者たちに、できる限りを伝えることなのです...この拙い文章が、誰かの役に立つならば、これほど嬉しいことはありません。
 

「汎用人工知能」をめぐる問題から見えてくるものは...

2016-11-23 15:32:48 | 哲学・思想
新しい技術に対しては過大な期待がかかる...それは良いのですが、そうした期待に便乗して、企業や企業の推進するプロジェクトのイメージ・アップを図る...
企業というのは経営体ですから、そのこと自体は当然だとしても、そのやり方が問題ですね。社会に対する影響力の大きい企業、つまり一定以上の「ブランド」を持った企業には、それ相応のマナーが要求されるはずですし、行儀の悪さはその企業のイメージのみならず、その分野の技術全体に対するイメージの失墜をもたらしかねません。

これは「汎用人工知能」と言われる場合の「汎用」という言葉の定義の揺れの問題なのですが、この記事の主張がそのまま正しいのだとすれば、日立のやっていることは「勇み足」ではなく悪質な便乗ですね。
日立ほどのブランドを背負った会社がやって良いことかどうか...
この記事が、企業のコンプライアンス崩壊の現れでないことを心から望むのですが...

さて、問題の核心は、この記事の中のコメント、

日立製作所としては、「汎用的に使える」「人工知能技術」ということで、略して「汎用人工知能」と呼んでいるという主張なのだと思いますが、「汎用人工知能」では全く意味が異なってしまうため、濫用は避けるべきです...

というところにありますね。
要するに、幅広く様々な分野に容易に応用ができる、という意味での「汎用」という定義であれば、それは一般的な言葉の使われ方であるのですが、それならば、既にAIの技術は社会の中に様々な形で取り入れられており、既に「汎用」といって良いAI技術は珍しくなど有りません。だから、日立がわざわざここで「H]として大々的に打ち出しているものは、そんなありきたりのものではないはずです。
しかし、その実態は...
確かに、このページにある日立のPVを観てみると、「このようなことができます...」とあげられているものは、特段凄いものではないことがわかります。
記事の中でも引用されている丸山宏氏のコメント、

ビッグデータ、教化学習、最適化などの技術を、汎用のツールとしてブランド化したもののように見えます...

がピッタリで、鳴り物入りのこの「汎用人工知能」にできること、なるものがこの程度では、確かに「とほほ...」となるのです。

もう一方でこの記事は、IBMの「コグニティブコンピューティング」と、「ワトソン」を袋叩きにしていますが、ここで挙げられている事例を見れば、確かにがっかりとなりますね。
もちろん、公平を期していうならば、ここであげられているチャットの例など、お互いが「誰であるのか」ということがわからない状態で気の利いた会話をせよ、ということなど所詮は無理ですし、初めて会う相手で、相手のこともよく知らないのであれば、ここでのワトソンとの「会話デモ」以上の気の利いた会話ができるかどうか...今時の若者だってできないかもしれない(笑)
ですから、少し意地悪が過ぎるようにも思います。ワトソンの場合には、アメリカの有名クイズ番組「ジョパディ」に挑戦し、歴代のチャンピオンに挑戦して勝利を収めた、という成果も出してます。これはとても凄いことです。



ここで少し注意しなくてはならないことなのですが、「会話」の問題を扱う場合には、はるかに難しい問題が存在します。そもそも会話というのは、ただの情報のやりとりではありませんから、進行している言葉のやりとりが「もっともらしい」からといってそれを「会話」と呼ぶことには問題があるのです。
たとえば、How are you? という簡単で日常的には何気ない言葉であっても、相手に対する How という「気遣い」がそこになければ、How are you? という問いかけにはならないのです。
私たちは、How are you? という言葉を通じて相手の「気遣い」を感じ、その気遣いに対して I'm fine,thanks! と「心遣い」を返すのです。言葉は、ここでは単なる情報のやりとりではなく、気遣いの応酬と交流であって、その心の通い合いがコミュニケーションの基本となります。「気遣い」というような、「心」のないところには、How are you? I'm fine,thanks!という「会話」は成立しないのです。「気遣い」「心遣い」あるいは「心」といったものは、何気ない会話の表面には浮かび上がってこない隠れた主題です。しかし、この隠れた主題...情報化して処理することのできない心の領域を円滑円満にするために、私たちは、How are you? I'm fine,thanks! と決まり切った定型句をやりとりするのです。ちょっとしたイントネーション、表情、間...言葉としては上がってこない様々な微細なトーンが、こうした隠された主題の活動を私たちに感じさせる兆候であり、痕跡なのです。

繰り返しますが、言葉を発する側も、そして当然受ける側も、互いに対する「気遣い」がある。その気遣いが「コミュニケーション」の本質です。気遣いがないところにコミュニケーションは有りません。それは会話ではなく、面前に「人間」と認識される物体が現れた場合にあらかじめ約束されていた受け答えとしてのビーコンの音を発することと何ら違いはないのです。受ける側も、相手のビーコン音を受信したとき決められている規定のビーコンを発するだけ...二台のロボットがであって、ぺこりと頭を下げ、互いにビーコン音を出したとすると、見ているわれわれは、それを「挨拶しているようだ」と見るかもしれませんが、そんなものは挨拶でも何でもないのです。それでは、AI搭載のロボットとの「会話」なるものは、本当に「会話」なのか...
実は、「会話」というのはとても難しいものなのです...人間同士であっても、とても難しい...それは、「会話」の本質の中に「心」の問題があるからなのです。広い意味での「コミュニケーション」を考えるのであれば、情報のやりとりだけで成立するコミュニケーションの局面も確かに存在します。しかし、何気ない「会話」というのは、そうした情報のやりとり、という明快な目的がない分だけ、はるかに難しいのです。
さて、この記事で執筆者がいらいらを募らせている原因は、この「会話デモ」の完成度の低さだけではなく、一見コミュニケーションを遂行しているように見えて、その実一番肝心なところが抜け落ちている、「心のない」コミュニケーションまがいに対する本能的な嫌悪感ではないかと推察されます。
機械に心を求めることは無理だとわかっているにしても、「会話」と銘打つからにはもう少しもっともらしくできるだろう...「気遣い」あるいは「配慮」が有るかのように錯覚させるような会話の小道具のいくつかぐらい、プログラムの中に忍び込ませても良いのじゃないか...ファーストフードのアルバイトが窓口で捲し立てる「心のない」接客マニュアル以下のできばえじゃないか...といったところでしょうか。

さて、本題に戻って、「汎用人工知能」と称するものについてですが、要するに、

日立の提供する「汎用人工知能」H(エイチ)に関して言うと、仮にも(IBMのコグニティブコンピューティングよりも遥かに意味として強い言葉である)「汎用」人工知能を名乗るなら、Siriよりマシな会話ボットをWebでデモしてくれてもバチは当たらないと思います。少なくともビデオやWebを見ている限りは、既存技術の焼き直しと寄せ集めに見えて、あまり「汎用っぽさ」は伝わってきません...

だと筆者は切り捨てていますが、その通りだといわねばなりません。AI産業の先端で開発に向けて努力されている本来の「汎用人工知能」とは、

AGI(Artificial General Intelligence)の訳とされ、人工知能研究のメインストリームでは、GoogleやFacebookなどを含めて「まだ世界の誰も開発に成功していない」ものとされています...

そして筆者は、こうも付け加えています。

そもそも、なにをもって「汎用」と呼ぶのか。ビデオの中では「プログラミングが必要ない」というようなことを仰っていましたが、それを言ったら既に主流であるCaffeやmxnet、CNTKだって設定ファイルだけで勝手に学習して使えるわけだから「汎用人工知能」だと言えます。そんな誇大広告は誰も望んでないので誰もその言葉を使っていないだけです。誰もいろんなものを留めることに使える輪ゴムを「汎用の輪ゴム」とは呼ばないのと同じように、機械学習はいろいろなことに適用できるのがむしろ当たり前だからです。

AI産業の先端で取り組まれている「汎用人工知能」を「汎用」といわせるものは、いったい何か...
実は、それはとても難しい問いです。人間の頭脳は、「汎用」であるといって良い。様々な事柄に対応する場合の応用可能性の柔軟さは、驚異的なものです。個別の問題設定をした上での処理であれば、人間の頭脳よりも優れたものはいくらでも生み出されてきましたが、人間の頭脳に取って代わるような柔軟性を備えたAIの出現はまだのようです。
しかし、ここで「応用可能性」とか「柔軟」と言われているものが、いったいどういうことを意味しているのか...
実はそれはとても難しい問題なのです。人間の知性とはいかなるものなのか...考える、ということは、どのようなことなのか...実は、こうした問題は自明ではないのです。
どのようなAIの技術であっても、基本的には「アルゴリズムの処理」に還元されます。人間の頭脳は、人間の精神は、果たしてアルゴリズムを使って解明され、再構成されうるものなのでしょうか...
この問題も又、結局は「人間とは何か」という問いに帰って行くのです...