葬儀を考えることは、人の生き死にを考えることです...
そして人の生き死にを考えることは、自分自身の人生を考えることでもあるのです。
自分自身の人生と向き合うとき、何が見えるのか... 自分自身としっかりと向き合っていなければ、自分の人生の軌跡を穴が開く程見つめていても、何も見えてはこないのです... 仕事も、出世も、収入も、家族も、友人も...人生において大切なものはたくさんあります。しかし、そうしたものに対して、どこまで自分の人生を賭けることができるのか...それを決めるのは、自分自身なのです。
それが本当に大切なものであるかどうか...尊いものであるかどうか...守るに値するものであるかどうか...それは、そのものの「何であるか」ではなく、その人がどこまで命懸けで護り抜き、戦ったかによるのです...他人がどうこう言うものではないのです。
「捨ててくれ...」と言う人はいます。しかし、本当に捨てたければ、自分で捨てれば良いのです。 自分の方でちゃんと捨てていれば、あとはどうでも良いはずなのです。 それを、「捨てる」というのです。 この世を去ったあとまでも、いつまでも未練たらたら「捨ててくれ」「ゼロにしてくれ」...人に頼む前に、まず、自分がしっかりと捨てなさい...そう言わなくてはなりません。
「モノ」ならば、代わりに人に捨ててもらっても良いでしょう。しかし、自分の人生を集約するような場面において、「捨ててくれ」「忘れてくれ」は、甘えでしかないのです。大体、一人で、自分一人の力で生きてきたなどと思っているのでしょうか... どうしても捨てたければ、自分で捨てる。 自分で捨てる勇気も、覚悟もない者が、人に頼む... そして、本当に捨てる勇気があり、覚悟があるならば、いただいた命、いただいた人生、いただいたご縁を、溝に捨てるような真似はしないのです。
「勇気」「覚悟」といったものは、本当は、激情や感情のうねり、勢いや行き掛かりとは違うのです。 人生においては、自分の壁、自分の殻を破るためには、時には見境のない「蛮勇」が必要なときがあります...若いころには、特にそうです。
しかし、「勇気」「覚悟」というのは、本来は「智慧」に裏付けられていなくてはならないのです。 しっかりとした智慧を持ち、ことの是非善悪が解り、その是非善悪の限界も解り、自分の負っている恩義がわかり、感謝することを知り、自分の使命をわかっていなくては、勇気など出るはずもないですし、覚悟など、とても無理です。
本当の意味で「捨てる」ためには、捨てるべきものをしっかりと持っていなくてはなりません。命懸けで頑張り抜いた者は、その懸けた命の分だけ、捨てるべきものを持つ。その大切なものを、来たるべき人たちのために捨てる...自分が捨てることによって、道を開き、新しい者のために委ね、托す...これが、本来の「捨てる作法」なのではないか...大人たちが背中を見せて教えるべき「捨てる」とは、そういうものではないか...
もちろん、簡単ではありませんが、最初から投げてしまっていては、お話にもならないのです。 捨てることができない、覚悟ができない...自分自身と、自分自身の人生とに向き合う時の、この脆弱さは、わたしたちの時代が見失って久しいものを、影のように浮かび上がらせています。 目に見える危機も大切ですが、影のように傍らに控えるこの薄暗い影法師の不気味さを忘れてはならないのです...本当の危機は、この影の中にこそ、潜んでいるのではないか... そのように問う...これも大切な智慧なのです。
...(引用)...先日、同年代のKさんとお話しをしていて腑に落ちたことがいくつかあった。 一般の人の目線での死生観や宗教観がである。 「死んだ人間に金を掛ける必要は無い、おれの葬式なんてやらなくていい、骨も適当に捨ててくれ」、そのような親世代の男達の心情を、言葉通りに受け取るんじゃないと彼は言う。 そこには遠慮や自信の無さが見え隠れはしまいか?と。 私も男の端くれである。何となく分る気もするのだ。 死んだ人間は用を成さない。 この言葉の裏には、社会的な役割としてしか生きて来なかった自分への焦りと諦めが見えはしまいか。社会的な評価の中で生きて来た人達にとって、その積み重ねてきた鎧を脱ぎ捨てることはとても無防備な状態なのだ。 困難な世を生きる為に被った鎧が、いつしか自分自身のように振る舞い、一人歩きする。やがて死を迎え、その鎧を降ろす時が来る。 しかし、丸裸になった自分は実に弱く脆いものであり、その姿は痛々しくもある。 親父達はそこで剥き出しになる自分の姿を想像できないのである。いや、したくないのだ。 死んでしまえば、言い訳もできないし、虚勢も張れまい。自分の死後、家族や世間がどんな評価を下すのか気が気でならない。社会的な役割(鎧)を果たしているうちは、皆がそちらの方を見ていてくれる。 しかし、社会的な役割を失ってしまった(死)後の自分は何も残らないのではないか? お葬式はそれが曝される場でもある。 Kさんは、父親をかけがえの無いものと感じている。それは社会的に価値がある人間であるとか無いとか、偉業を成し遂げたとかしないとか、そういうものを超えた存在としてである。 しかし、それを生前の父に伝えることは照れくさいし、父もそのような会話を否定するはずだと思っている。 そのような関係に於いて葬式を語る時、父が子に「葬式不要」と宣言するのは何となく納得できる。 この物言いはある種の遠慮かもしれないし、照れ隠しであるかもしれない。 「自分の葬式は立派にやってくれ」などと堂々と息子に言える男などそうざらにいるまい。 彼の父の「葬式不要」発言の裏にも、面と向かって本音を語ることの出来ない男ならではの複雑な感情を読み取ることが出来ないだろうか。 そして父と息子の複雑な感情表現と遠慮は実に日本人的でもある。 だから私は彼にこう提案した。「『あなたの葬式は立派に俺が出すから後のことは心配すんな』と言い返してみれば?」と。 これは親父からすれば涙が出るほど嬉しいセリフなのかもしれないぞ。 勿論、Kさんにもその覚悟がある。 とにかく生前にしっかりと父との「その後」のスタンスをしっかりと宣言すれば良いではないか。 そのぶっきらぼうな物言いにお父さんはすべての思いを読み取るであろう。 で、今朝の新聞の雑誌の記事… 「私のことは忘れて下さい」ですって。 どうぞ先回りしなくても、遺された人の心が判断しますから。 「何も残さない」…。 そもそも何か残せるものがあるとでも? また「0葬」か… 「何も残さない」とは、何も見ていない証拠ではないか。 人間の本質が財産や地位や名誉や形のあるものだけだというのか。 それならば、あなたも人間をそのような社会的な価値基準でしか見ていないのか? なるほどそのような価値観ばかりがまかり通れば、あなたの子や孫は益々生き辛い世の中で苦しむであろう。 あなたの子どもの世代は、世俗的な価値観の中で身動き取れなくなっているではないか。 空気を読んで窮屈な鎧を纏うか、思いっきり身体に合わない鎧を着て虚勢を張るか。 それに耐えきれず、鎧を外してしまえば生きて行けない。 そう、社会の中で価値の無い人間は、生きて行くのもおこがましいのだ…と。 そして、堕ちて行くのは奈落の底…。 その先のセーフティネットがないのだ。 人は社会的な役割を終えても、失っても、その存在そのものは尊いものだ。 死んでもそれは残るのだ。 いや、死んだからそれがはっきりと見えるのだ。 社会のあり方がそれを認めなくても、世間様が嗤い蔑もうが、宗教者は絶対にそこは譲らない。 何よりも、それを親が子に示さなくてどうするというのだ。 親父たちは、鎧を脱いだ後に「何も残さない」生き方を積極的に目指すかのように見せつつも、実は鎧の下の自分を磨くことをせずに鎧ばかりを磨いて来た人生を虚無に感じているのではないか? そんな鎧ばかりを気にしている親父に刃向ってやろうではないか。 「あなたのことを忘れることなど出来ないし、何も残さないなどとは言わせない。だって、私が死んだら私の事を忘れるの?何も残って欲しくないの?自分勝手なことばかり言ってるんじゃないわよ。」とね。 そんなこと言われた親父だってまんざらではないはずだ。 親父達よ。残念ながらあなたが「残さない」と思っても、残るものがある。 少なくとも、後悔やら喪失感などはしっかりと残る。 いや、「何も残さない」と宣言したことによってそれらは更に残る。 さあ、この始末をどうするつもりか。 それよりも、鎧を失っても尚残るものこそを話し合っておくべきではないか。 愛する人が死んでも尚生き続けなければならない人の為に。 あなたが残した言葉や思いが、遺された人の人生に虚無感を生じさせることもあれば、セイフティネットとなることもあるのだから...(引用了)...
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