「つくつく日記」

NGO代表、空手家、学校の講師とちょっと変わってる私の日々の雑感をお届けします。

台湾への旅 「八田與一から学ぶ」~最終回~

2005年05月18日 | 「台湾への旅」



3回かけてお伝えした李登輝前総統の「台湾の声」の中で以下のような一文があります。

その時分では東洋一の灌漑土木工事として、10年の歳月と(当時のお金で)5千4百万円の予算で1930年にこの事業を完成したときの八田氏はなんと、44歳の若さでありました。嘉南大圳の完成は世界の土木界に驚嘆と称賛の声を上げさせ、「嘉南大圳の父」として60万の農民から畏敬の念に満ちた言葉で称えられました。

八田氏は25歳で東京帝国大学工学部土木科を卒業すると同時に台湾に渡り、台湾総督府の土木技手として勤務し、28歳の時には灌漑面積3万3千ヘクタールの桃園大圳水路工事設計の責任者として活躍し、時の政府もその功績を認めて技師に昇進させます。そして、この鳥山頭ダムの大任をゆだねられたのは30歳を越えたばかり。

八田氏の功績は誰も疑う事はありません。しかし、当時としては独創的であり、若年であり、成功不可能にも思える計画を信じ中央政府と交渉をし、きちんと予算を持ってきた上司や周囲の存在抜きにしてはこの事業の実施はあり得ませんでした。

八田氏のような才能を活かす周囲の人的なサポートがあったからこそ、成功した事業だと思います。それだけの大きな事業をもし失敗したら、その責任は上司や周囲にも及ぶ事は想像に難くないでしょう。

そのリスクを負っても、住民の気持ちを考え、八田氏の才能を信じた上司・周囲の存在。私はこの点が特に現代人が学ぶ所だと思いました。この事は今の学校教育や企業、すべてに当てはまる事ではないでしょうか。

私たち全員が八田氏のようにはなれるわけではありません。しかし、八田氏のような人を活かす事は努力をすれば誰もができる可能性があります。人と周りを信じること。独裁者は1人で国を作りますが、英雄は1人でなく多くの英雄に支えられて国を作ると言う事を学んだ気がします。

八田氏は恐らく、その点を実感していた為、日本人と台湾人を平等に扱い、銅像にも見られるように常に謙虚な姿勢でいたのかもしれません。そして、ダムの建設に関わった人の多くが自分も必要とされていたという気持ちがあったからこそ、現在も八田氏に対する感謝の念が強いのでしょう。

現在、鳥山頭ダムはダムとして使われている他、公園として整備され多くの台湾人で賑わっています。バーベキューやキャンプ場、プールもあります。そんな台湾の人達の笑い声はきっと銅像を通して、天国にいる八田氏にも届いていることでしょう。

「八田與一から学ぶ」終わり

*最後に、二つのエピソードを紹介します。「八田技師記念室」配布資料より一部引用。

八田氏の銅像は、ダムの完成後の昭和6年7月に安置されましたが、第二次世界大戦の末期に金属類はことごとく回収され、八田氏の銅像も免れませんでしたが、回収を逃れるために、八田氏を慕う人が銅像を隠します。

終戦早々に偶然に倉庫で発見しされましたが、国民党政権が日本統治時代のものを破壊していた為、そのまま隠され、そして、昭和56年1月1日に再びもとの位置に安置したのでした。

昭和20年8月31日の夜、八田氏の次男泰雄さんが、学徒動員から帰って来られました。その9月1日の未明に八田夫人は八田家の家紋入りの和服に、裾が乱れないようにと、モンペを身に付けて、遺書を残して夫が作ったダムの放水口の渦巻く水の中へ身を投げます。

戦争で負けた日本人は台湾を去らなければならなくなりました。台湾を愛し、夫が埋まる台湾に永住しようと思っていた夫人は台湾を去りたくなかったのかもしれません。丁度、25年間前の嘉南大圳工事の起工日と同じ日でした。


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