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恐怖日和 ~ホラー小説書いてます~

見よう見まねでホラー小説書いてます。
たまにグロ等閲覧注意あり

恐怖日和 第四十六話『みちのえき』

2020-09-26 03:06:56 | 恐怖日和

みちのえき

 くねくねとカーブを描いた山道は永遠に続くように思われた。
「ね、どこかに休憩所あったら止めてくれる?」
 ドライブの間もよおしてきていた尿意がだんだん耐え切れなくなった美和子は前方を睨むように運転している浩二に頼んだ。
「どうしたの? トイレ? 恥ずかしがらないで、もっと早く言えばよかったのに」
「え? うん――」
 美和子が我慢しているのは夫の手前だからではなく、単に不潔な公衆トイレに入るのが嫌だったからだ。
 こんな山道に設備の整ったきれいな公衆トイレがあると思えないが、背に腹は代えられない。
「おっ、あった」
 大きなカーブを抜けた先に広い駐車場を備えた休憩所があった。入り口には『みちのえき』と手書きで書かれた木製の看板が掲げられてある。
 駐車場の奥には赤い三角屋根の公衆トイレがあり、少し離れた場所には同じ色形の屋根の東屋も設えてある。
 周囲は桜やツツジの植え込みに囲まれ、一見公園のようだが他に何もない。
 新設時はお洒落な休憩場だったのかもしれないが、赤い屋根は日に焼け色褪せているし、白壁は青黒いコケに覆われている。木々も手入れされておらず枝が伸び放題で、駐車場の縁を彩るはずの花壇には雑草しかなく、柵も壊れ荒れ果てていた。
 こうなればトイレの中が不安だが、選り好みしている場合ではなく、こっちが頼んだ手前、勝手に駐車場へと入っていく浩二に不満を漏らすわけにもいかない。
 トイレに近い一画に車を止め、浩二がドアロックを解除した。
「ありがと」
 美和子は礼を言いながらバッグを持って車を降り、急いでトイレへと駆けこんだ。
 夕方とはいえ空はまだ明るかったが、山の影が被さってトイレ内は海中のように薄暗い。
 だが、足を踏み入れた途端、ぱっと自動的に照明が点いた。
 結構新しい設備なのね。
 便器も洋式の洗浄機付きで、五つの個室はきれいに清掃され、使用できる場所を選別する必要もない。
 トイレットペーパーの有無に不安も抱いていたが、予備を含め全室に完備され湿気でよれていることもなく、横に設置された汚物入れもきちんと処理され清潔さが保たれていた。
 美和子は手前の個室に入ると壁に取り付けられたフックにバッグをかけて用を足した後、ほっと一息ついた。
 山間に鳴くひぐらしの声が静かにトイレ内に響いている。
 衣服を整えた美和子は個室を出て三台ある真ん中の手洗い台の前に立った。ここも自動式で、手をかざすと水の出る蛇口だったが、そんなどこもかしこも新しい設備にもかかわらず、目の前の壁には鏡がなかった。
 いや、以前はあったが今はないというのが正解なのだろうか、長方形の白い跡がついている。
 三台ともすべてなく、心ない利用者にいたずらで割られたのかもしれない。
 美和子はため息をついてバッグからコンパクトを取り出し、化粧直しを始めた。口紅を上塗りし、鏡の角度を何度も変えながら顔全体のチェックをしていて、ふと自分の背後にさっき使ったトイレが映り込んでいるのに気付いた。
 そのドアの隙間から人の顔が覗いている。
 照明が照らしているにもかかわらず暗がりに滲んだように輪郭が曖昧な、だが女性だとわかる顔立ちをしていた。
 美和子は鏡が割られたのではなく、故意に取り外されたのだと瞬時に悟り、気付いたことに気付かれないよう、知らん顔をして急いで外に出た。
 まっすぐ車に向かい、助手席に乗り込むと、
「早く出てっ」
 窓を開けてゆっくり煙草を吹かしていた浩二を急かす。
「もうちょっと待って」
「早くっ」
「なんだよ、勝手だな」
 文句を言いつつも煙草を灰皿でもみ消し、浩二が車を発進させた。
「どうしたんだよ」
 繰り返すカーブをハンドル操作しながら浩二が訊いて来る。
「何でもない」
 そう答えると、それ以上何も訊いて来なかった。
 上り下りの山道をどんどん進み、長いトンネルを過ぎて隣市の標識を超えてから、美和子は大きく長いため息を吐いた。
「これだけ離れたらもう大丈夫よね」
「なに? どういうこと?」
「実はね――」
 美和子はさっきの出来事を浩二に説明した。気付いていることに気付かれて憑いて来る可能性を考え、今まで黙っていたのだと。
「ああ、そういうことだったのか――でも、それ意味なかったよ」
「え?」
「さっきからずっと後ろにいる」
 浩二が声をひそめ、美和子にも見えるようにルームミラーをずらした。
 ぼやけた薄墨色の女が後部座席でうつむいて座っていた。


「なんとかしろよっ、連れて来たのはお前だからな」
「わかってるわよ。でもどうしようもないでしょ」
 浩二が朝刊から顔を上げ、いきなり怒鳴り始めた。それに負けじと美和子も返す。
 あの日から一週間後の日曜日。二人はずっとこの調子で、美和子はいい加減うんざりしていた。
 家の中にまで憑いてきた女の霊は、今はリビングの片隅にいるが、キッチンや寝室、トイレや風呂にまで現れては消え、消えては現れと、ところ構わず美和子たちの目にその姿を映していた。
 ただうつむいて立っているだけで何かされるわけではない。だが、その周囲は禍々しい気に汚染され、次第に拡大してきている。場所だけでなく心の中もどす黒く濁り始めているのが自分でもわかった。
 それは浩二も同じらしく、日中は仕事でいないものの疲れのせいか同じ影響を受けるようで、お互い自分自身で掌握できない感情をぶつけることが多くなってきていた。
「だからっお祓いを頼むなりなんなりしたらいいだろっ」
「そんなお金ないわよ。効果があるかわかったもんじゃないし」
「やってみないとわからないだろうがっ」
 浩二が持っていた朝刊を美和子にぶつけリビングを出て行く。
「なによ、えらそうに」
 憤慨しながら美和子は散らばった新聞紙を集めてそろえた。
 もとはと言えば浩二が悪い。
 あのドライブは浮気のバレた浩二が詫びで設けた温泉旅行の帰り道だった。
 自然現象で止めて欲しいと言ったのは確かに美和子だが、あそこに入ったのは浩二の独断だ。
 気付いたら片隅にいた霊が消えていた。
 だが、いなくなったわけではない。
「お願いだから帰ってよ――」
 美和子はせっかくそろえた新聞の中に顔を埋めたが、
「あ――そうよ。送ってけばいいんじゃない」
 そう思いついて、くしゃくしゃの新聞から顔を上げた。

 美和子の提案で休日を潰された浩二の機嫌はさらに悪化した。
「お前だけ来ればよかっただろ」
「あの日と同じでないとうまくいかないかもしれないでしょ。それにわたし、こんな山道の運転苦手だし。やっぱりあなたでないと」
 山道に入ってからもまだ文句を言い続けている浩二に辟易していた美和子だったが機嫌を取りながら微笑んだ。
 後部座席に女が座っているのをそっと確認し、まだ家に侵食していなかったことに安心した。
 出発時間が遅かったので『みちのえき』に着く頃には、あの日より空が暗くなるだろう。そんな時間の違いで引き離しに失敗するのではという不安はあるが、美和子は賭けるしかなかった。
 到着した『みちのえき』にはすでに街灯が灯っていた。あの時には気付かなかったが、昔風のお洒落なガス灯を模している。だが、その光は弱々しく細かな羽虫が群がっていた。
「どうすんのか知らないけど、さっさと行って来いよ」
 浩二はまったく関係ないと言ったふうに煙草に火をつけ、こちらを見もしない。
「わかったわよ」
 舌打ちしそうになるのを押さえて、美和子は車外に出た。後部座席をチラ見すると女はいない。街灯の光では見えないが、自分の背後についているのかもしれない。
 美和子は足元の暗がりに注意しながら急いで公衆トイレに向かった。
 トイレに入るとあの時と同じく自動で照明が点いた。今回も清潔で塵一つ落ちていない。
 ここに戻す方法などまったくわからなかったが、勝手について来たのだから、勝手に戻るのではないかと期待した。
 とりあえずトイレの奥に入り「ここにお戻りください」と祈った。
 なんの実感もなかったが、一応洗面台の前でも祈る。
 戻ったことを確認するため上着のポケットにコンパクトを忍ばせてきたが、鏡に映ってまたついてくるはめになったらと思うと開けない。
 ふっと思い立ち、美和子はトイレの出入り口から顔を出して駐車場を確認した。
 街灯の鈍い光の下、運転席の窓から肘を出した浩二が煙草を吹かしている。その後ろの席にうつむいた女の霊が座っていた。
「やっぱりだめか――」
 失望しながら中に戻った美和子はもう一度、深く深く心から祈った。
 トイレから出てくると後部座席に霊は見えなかった。
 祈りが通じたのかどうかまだわからないが、とりあえず美和子は車に戻り、助手席のドアを開けて中を覗いた。
 待ちくたびれて居眠っているのか、肘を窓にかけたまま浩二が深く項垂れている。指に挟んだ煙草の火はフィルターまで達して消えてしまっていた。
「ごめんね、待たせて」
 話しかけても目を覚ます様子はない。
「あなた?」
 軽く肩を揺すっても同じだった。
「あなたっ、あなたってばっ」
 激しく揺さぶると煙草がぽとりと浩二の腿でバウンドして足元に落ちていった。
 カーブの向こうからヘッドライトが見え、一台の車が駐車場に入って来た。
 眩しい光に照らされると同時に、浩二が胸に倒れ込んできた。苦悶を浮かべた白目が美和子を見上げている。
「きゃあぁぁぁぁ――」
 ボートを積んだワゴン車から降りてきた若い男女が美和子の悲鳴を聞きつけ駆け寄ってきてくれた。
「どうかされましたか?」
「しゅ、主人が――主人が――」
 浩二を抱いて泣き喚く美和子に緊急事態を察知した若者たちはてきぱきと行動し始めた。
 美和子は浩二から引き離され、崩れそうな身体を女性たちに支えてもらっていた。男子たちの救急車を手配する声がする。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
 背中をなでてくれる優しい声にうなずきながら、さっきの『その人をあげるからここにお戻り下さい』という心からの祈りを美和子は思い出し、漏れ出そうになる笑みを両手で覆い隠した。

恐怖日和 第四十五話『薄紫色の女』 

2020-08-28 13:04:10 | 恐怖日和

薄紫色の女

 重く垂れ込めた雲からぽつぽつと雨粒が落ちてきて電車の扉にいくつもの線を引き始めた。
 エアコンが入っているにもかかわらず効きが悪くて蒸し暑い。
 のどが渇き、立ちっぱなしの足の指が引きつり出した。
 もうすぐ駅に到着する。
 あと少しの辛抱だと祐明は自分に言い聞かせた。
 かんかんかんと警報機の音が近づいてきた。
 駅近くの踏切の音だ。
 祐明はほっとし、すでにびしょぬれになった雨の滴る窓を眺めた。
 踏切を通過する時、薄紫色のワンピースを着た女が遮断機の前に立っているのが見えた。ふと気になったのは傘を差していなかったからだ。
 せっかくおしゃれしているのに雨に降られて――
 以前、おしゃれをしてショッピングに出かけた妻の奈美子と娘の晴海が土砂降りに合い、ずぶ濡れで帰ってきたことを思い出す。迎えに行かず呑気にテレビを見ていた祐明は奈美子だけでなく、まだ小学三年生の晴海からもこっぴどく叱られたことまで思い出し、苦笑を浮かべた。
 ホームに到着した途端、さらに雨足が強くなった。駅から自宅まで徒歩で十五分ほどかかる。
 この雨じゃ、スーツどころか下着にまで染み込んできそうだ。小降りになるのを待つか――
 祐明はそう考えながら、他の乗客とともにホームに降りて跨線橋の階段を上っていく。
 駆け足で下りてくる人の群れを避けて上っていると人々の間に薄紫色の肩がちらりと見えた。
 さっき踏切にいた女性?
 同じ色だったのでそう思ったものの、あの踏切からここにたどり着くのは女性の脚では至難の業だ。
 不可能ではないかもしれないが、あの位置で踏切を待っていたのだから遮断機が開いて渡れば駅と反対の方角へ行くことになる。わけあって戻ってきたのかもしれないが、そう考えるよりもよく似た色の服を着た別人と考えるほうが自然だ。
 振り返ってじっと見ていたが、ホームへ駆け下りた人々の中に薄紫色の姿はもうなかった。
 死角に入ったまま、すでに電車に乗り込んだのか。
 祐明はそれ以上興味をなくし、跨線橋を渡った後、今度は改札に向かって階段を下った。
 足早に追い抜いていく若い男の肩がぶつかる。
「あ、すんません」
「いえいえ」
 祐明が顔を上げると男の向こう側に薄紫色がちらっと見えた。また死角で全身が見えず、彼の長い脚の間でひらひら揺れる薄紫色の裾だけが見えている。
 なんで毎回全体が見えないんだ? なんかイライラするな――
 こう何度も遭遇すると尾行されてるんじゃなかろうかと勘繰ってしまう。
 だが、自分は尾行されるような人間ではない。
 通り過ぎてったんだから尾行でもないけどな――
 いやいやそうじゃなくて、いったいどういうことだ?
 考え込みながら、IC乗車券で改札を通り抜ける。
 前から歩いて来る男の後ろに、またも薄紫色の肩が見え隠れしていた。
 祐明は足を止めて男が通り過ぎるのを待ち、思い切ってその背後を確かめた。
 だが、薄紫色の女どころか誰もいない。
 ああ、これは見てはいけないものだ――
 思い起こせば、踏切に立っていた女の顔は滲んだようにぼやけていた。なのになぜか目が合った気がした。
 ふと気になったのは傘を差していなかったからではなかったのだ。
 祐明は薄紫色の女から逃れるため無心になり、構内をあっちこっちぶらついた。斜め上に視線を当て人の向こう側を見ないようにし、必死で歩き続けた。
「痛えな、おっさんっ」
 ぶつからないよう注意していたが、とうとうガタイのいい若者にぶつかってしまった。
 だが、どんっという衝撃が憑きものを落としたのか、頭の中がすっきり晴れたように感じた。
 若者の背後やこっちを見遣りながら通り過ぎていく通行人の死角に視線を向けても薄紫色の女は見えない。
「いやぁ、ありがとう、ありがとう」
 逃れられたことが嬉しくて、つい出てしまった感謝の言葉に面食らったのか、若者は「ちっ」と舌打ちを残して去ってしまった。
 やっと帰宅の途につけると、祐明は出口を目指した。
 雨のせいで出入口付近は人々でごった返している。
 その中に奈美子の横顔が混じっていた。
 おっ、迎えに来てくれたんだな――
「奈美――」
 手を上げかけたが、薄紫色の肩が見えてその手を途中で止めた。
 奈美子の死角に見えたのではない。彼女のTシャツが薄紫色なのだ。
 あんな色のTシャツ持ってたか?
 見覚えのない色をまとった奈美子が祐明に気づき、滲んだようにぼやけた顔をぐにゃっと歪め「迎えに来たよ」と笑った。
 その瞬間、駅構内の喧騒が消え、耳元でギギギィィィッと電車のブレーキ音が響いた。

恐怖日和 四十四話『泥穴』

2020-06-20 01:55:44 | 恐怖日和

泥穴

 久しぶりの一人旅で県境の山間にある温泉を訪れた。予約した旅館はひなびた雰囲気が良く隠れ家的でゆったり疲れを癒せそうで嬉しくなった。
 温泉の質も評価が高く、一日に三組しか客をとらない宿の予約は難しいと言われていたが、連休明けの平日のせいかたまたま部屋が取れたのは幸運だった。
 玉砂利の敷き詰められた玄関前では若女将と五人の仲居さんたちが出迎えてくれた。
 フロントで受付を済ませると綾乃という若女将が自ら部屋へ案内してくれることになった。まだまだ修行中の身でと謙遜しているが、なかなか立派にこなしている。
 部屋に向かう途中、子連れ客でもいるのかロビーのソファに三歳くらいの男の子が座っていた。そばに親御さんがいないのは退屈で一人部屋から出てきたのかもしれない。
 まあ、館内にいるのなら心配ないが――よそ様の子供ながら少し気になった。
 部屋に入ってすぐ若女将と入れ替わりに大女将が挨拶に来た。
 畳に正座し「いらっしゃいませ、村田様」と丁寧に頭を下げた後、すぐお茶の用意を始める。
「いい宿ですね。すっかり気に入りました」
 丁重な挨拶に気を良くしながら程よい温度のお茶をすする。茶葉がいいのか大女将の入れ方がいいのか、とてもおいしい茶だった。
「それはありがとうございます。ここはお湯も最高ですのよ。お夕飯の前にぜひ旅の疲れを癒してくださいまし」
「そうさせていただきます。それにしてもここも安泰ですね。若いのにしっかりした若女将がいて――あ、もちろん大女将もまだまだお若くてご健在ですがね」
「あらまあ、ありがとうございます。お世辞でも嬉しゅうございます。若女将もきっと喜びますわ。小さい頃に二人兄妹の上を事故で亡くしましてね。それからわがまま放題に育ててしまって――そんな未熟者に、なんて嬉しいお言葉――」
 大女将の表情に一瞬だけ愁いが浮かんですぐ消えた。
 何と返せばいいのかわからず黙って茶をすすり続ける。
「それではごゆっくりお寛ぎくださいませ」
 再び丁寧に頭を下げる大女将に会釈しながら「お風呂の前に庭を散策してもいいですか?」と尋ねた。
 窓から見た裏山まで続く広い庭がとても見事だったからだ。ひと風呂浴びる前に汗をかくのも気持ちいいだろう。
「どうぞ、どうぞ。うちは庭も自慢ですの。裏山から来た野鳥やリスを見れますよ。
 あ、イノシシやサルはいないのでご安心を。
 ではごゆっくり」
 お茶目な笑顔を浮かべ大女将が部屋から出ていった。
 イノシシは怖いけどサルは見てみたいな。
 そんなことを思いながらバッグを戸棚の前に置くと部屋を出た。

 庭に出ると清々しい新緑の風が頬をなでた。美しく剪定された樹木の間からはたどたどしい鶯の鳴き声が聞こえ、その可愛らしさに頬が緩む。
 裏山に続いている幾本もの桜はすでに葉桜だったが、ツツジなどの花木がちらほら開花し始めていた。満開であればもっとみごとな庭なのだろうが、この時期だから予約が取れたのかもしれない。
 来年は桜の満開時に予約を取りたいものだ。そうだ。チェックアウト時に予約しておけばいい。モミジやカエデの紅葉もたくさんあるから秋でもいいなあ。
 ふと気づくと、周囲から庭園感が消え、雑木林に取り囲まれていた。考え込んでいるうちに裏山に入ってしまったのか。慌てて振り返ったが戻る道がわからない。
「だ、大丈夫――ここだって庭の延長みたいなもんだろう」
 そう独り言ちながらだいたいの見当をつけて引き返した。
 だが、美しい庭に戻るどころかますます木陰が濃く深くなり、下草も消え、枯葉混じりのねっとりとした山土の泥が靴底を重くする。
 まさか遭難? いやいやそんな山じゃない。ついさっきまで旅館の庭だったじゃないか。
 それにもし迷ったのだとしてもじき夕暮れだ。戻ってこない私に気づいて従業員が探しに来てくれるはずだ。
 そう自分を落ち着かせようとするも焦りが募り、誤って足をすべらせ泥穴の中に落ちてしまった。
 幸いにも溜まっていた泥のおかげでケガはなかった。何のための穴か知らないが意外と深く、飛び上がっても縁まで手が届かない。
 飛ぶ度に足元の泥溜まりが跳ね、腐った泥臭が鼻孔に届く。穴の中は冷たく、靴下からしみ込んでくる水分が足首を冷やした。
「おーい。おーい」
 何度か叫んでみたが、捜索されるまでこんなところに誰も来ないし、ましてや旅館まで声が届くこともない。
 ただ待っているしかないがほんのちょっとの辛抱だ。
 だが、すべり落ちた際、泥に濡れた背中と尻から冷たさが滲み込み、じわじわと身体が凍えてくる。
 泥まみれの手も濡れたままで乾かず、冷たさにかじかむ。吐く息も真冬のように白かった。
 びちゃ、びちゃっと音がした。
 人の足音かもしれないと思い「おーい」と呼んでみた。
 返事はないし音もしない。
 大女将がイノシシやサルはいないと言っていたので動物だという考えにいたらず、思わず呼んでしまったことを後悔した。別の震えが背筋を這ったが、穴の縁から小さな顔が覗く。
「おじちゃんあそぼ。だれもあそんでくれないの。だからあそんで」
 さっきの男の子だ。
 ほっと息を吐き、
「おじちゃんね、穴に落ちちゃったんだ」
 ほらねっというように泥で汚れた両腕を広げ「ぼくいい子だから、誰か大人の人呼んできてくれるかな」
 しばらくじっと見ていた男の子の頭がうなずいて縁から消えた。
 ああよかった。これで助かる。でもみんなに笑われるだろうな。
 泥にまみれた自分が可笑しくてくすっと笑いが漏れた。
 だが、何分経っても誰も来なかった。次第に穴が薄暗くなり息がさらに白くなる。
 頼まれごとを忘れてその辺で遊んでいるのではないか。子供とはそういうものだ。
 そう思って「おーい」と声をかけてみた。返事はないし、顔も出さない。
 きっとだいじょうぶさ、確かにこっちの言うことにうなずいたじゃないか。小さな子だから足が遅いだけだ。今頃はもう旅館についてきっとみんな大慌てで――ん? ちょっと待てよ。いくらなんでもあんな小さな子がこんな場所まで一人で来るか?
 まさか凍えるような寒さで見た幻覚じゃないだろうな? 
 考えれば考えるほどその可能性が大きくなる。
「ウソだろ――俺はそんなものに助けを求めたのか」
 がちがちと歯の震えが止まらず、どうすればいいのか考えようにも思考がまとまらない。その時、
「おーい。おーい。村田様ぁ」
 遠くのほうで自分を呼ぶ複数の声がした。
 ああ、幻覚じゃなかった。
 助かったという安心感で違和感も消し飛んだ。きっとあの子は冒険好きでしっかりした子供なんだろう。
「おーい。村田様ぁ。おーい」
「ここだぁ、早く出してくれぇ」
 声が届いたか耳を澄ませて様子を窺ったがこっちに気づいた様子はなく「ここだ、ここだぁ」とさらに声を上げて呼んだ。
 穴の縁からひょこっと男の子の顔が覗いた。
「あ、ぼく、呼んできてくれてありがとね。もう一度ここだって教えて来てくれるかな。呼んでも聞こえないみたいだから」
 男の子が顔を引っ込めた。
 よかった。やっと出られる。
 さらなる寒さで息の白さがさっきよりずっと濃くなっていたがもう大丈夫だ。
 戻ったら熱い温泉に頭まで浸かるぞ。
 そう思ったのもつかの間、頭上からぼたぼたと泥が落ちてきた。
 見上げたとたん、氷のように冷たい泥が顔面に直撃した。
「な、なんなんだ?」
 指で払い除け再度見上げると男の子がにこにこと見下ろしている。
「おじちゃん、あそぼ」
「はぁ? さっさと大人を呼んで来――」
 キャッキャと笑い声を上げて投げつけてくる泥が口に飛び込んできた。それを吐き出しながら「おいっふざけん――」怒鳴った瞬間、大量の泥が喉の奥にまで流れ込んできて堪らず嘔吐した。
 なんてガキだっ。親は何してるんだっ。
 繰り返し吐いて涙が溢れてくる。
「おーい。村田様ぁ」
 足音とともに声が近づいてきた。
 ここにいることを知らせたいが喉がかすれ声が出ない。
「なあ、こんだけ呼んで返事がないんだ。ここにはいないだろ」
「そうだな。ふつうこんなとこまで来ないしな」
「もしかしてコンビニにでも行ったんじゃないのか」
「夕食前に?」
「なんか買いたいものでもあったのかもよ」
「いったん宿に戻ってみるか」
 二人のやり取りが聞こえ、足音が遠ざかっていく。
 ちょっと待てよ。そこに子供がいるだろ。気付けよっ。っていうか、お前もここだって呼べよ。
 そう心の中で毒づき見上げたが、もう子供の姿はない。
 追いかけてくれたかと期待したものの、いつまで待っても誰も来ない。空が完全に暮れ、穴の中は暗闇に閉ざされた。
 寒さと絶望で身体の震えが止まらない。
 あのガキどういうつもりなんだ。
 怒りで頭だけがかっかと熱い。
 まさかこのままってことはないだろう。コンビニに行ってないことももう知られているに違いないし、きっと消防団や警察が捜索に来てくれる。戻ったらあのガキをぶん殴ってやる。
 そう考えているとズボンの膝あたりがくいくいっと引っ張られた。
 真っ暗闇の足元から「だれもあそんでくれないの。だからおじちゃんあそぼ」と声がし「だれもきづいてくれないの。おかあちゃんもあやのちゃんも――」そう言って身体をよじ登ってくる。
 さっきよりも濃厚な腐泥の臭いが鼻先に迫った。

恐怖日和 第四十三話『強盗』

2020-06-08 02:06:01 | 恐怖日和

強盗


「センパイまだですかぁ?」
 山中の長いドライブに辟易したのか、闇夜にただ恐怖を感じているだけなのかわからないが、助手席の鉄二が音を上げ始めた。
「もうすぐだ。ほら見えてきた。あそこだ」
 辰也はヘッドライトに浮かんだ山沿いの待避スペースに車を入れてエンジンを止めた。
 しんとした暗闇に囲まれる。
「本当に真っ暗ですね、辰也さん」
「なになに、お前怖いの?」
 後部座席の冬真の声に鉄二が笑う。
「鉄二さんほどビビりじゃありませんよ」
 すぐ返されて鉄二の舌打ちが聞こえた。
「こんなとこでもめんなよ」
 辰也は運転席から二人を見遣った。少しだけ闇に慣れた目が輪郭だけを捉える。
「センパイ、ほんとに金持ちの家があるんすか」
「ああ、前にここを通った時その山の上にでっかい屋敷が見えたんだ」
 辰也は暗くて何も見えない場所を指さし「家があるのはそこだけで隣近所に何もない」と説明する。
「確かにそんな場所なら住人さえ押さえ込めば後はゆっくり物色できますね」
 後部座席からの声に、
「そういうこと。
 だが、屋敷までのルートがわからなくて何回かここに通って調べた。で、そこに細い坂道があるんだが、上っていくと玄関先に辿り着くらしい」
 辰也はもう一度暗い部分を指さしたが、もちろん車内からは何も見えない。
「細いってどんなっすか?」
「車は入れない。周囲が蜜柑の段々畑に囲まれたあぜ道のような道だ。たぶん防犯のための工夫だろう。そこを徒歩で上っていく」
「じゃ、あんまり重いものや大きなものは盗れませんね。車まで運ぶのが大変ですから」
「そうだな。現金に通帳かカード、宝飾品、まあそのバッグに入るような高級品はとりあえず全部入れろ」
 冬真の横に置いた三個のボストンバッグをあごでしゃくった。
「こんなど田舎にお宝あるんすかね?」
「ど田舎の大屋敷だからあるだろうよ」
 ふんっと鉄二を鼻で弾き、辰也は冬真から手渡された目出し帽を受け取ってかぶった。
「借金返せるほどの収穫あったらいいな」
 そう言いながら帽子をかぶった鉄二に冬真が「それな」と笑う。
 この二人には金が欲しい理由があった。だからこの計画に誘ったのだ。
 ドアを開けるとつんと甘酸っぱい蜜柑の花が香っていた。
「行くぞっ」
 辰也はバッグを手に勢いよく外に出た。

 いくら人目がないとはいえ懐中電灯を点ければ誰かに発見される恐れがある。辰也は手探りで目的の坂道に近付いた。
「ひとつも街灯ないっすね。防犯するなら普通つけると思うけど」
 辰也の肩をつかんでついて来る鉄二がつぶやく。
「必要ないんだろ」
「な、なんか逆に怖いっすね」
 肩から鉄二の震えが伝わってくる。
「それだけ田舎なんですよ。僕たちには好都合じゃないですか」
 後ろの冬真に鼻で笑われても「そうだよな」と覇気がない。
「ここだ」
 坂道に沿って張られたフェンスに触れて辰也は振り返った。闇の中に二人の気配だけ感じる。
「鉄二、先に行け」
 辰也は道を譲った。
「ええっ、なんでっ?」
「しっ」
「セ、センパイから行ってくださいよぉ」
「だめだ、お前が逃げないとも限らないし。それに上って行けばいいだけだから簡単だろ?」
 辰也は冬真の後ろに移動した。
「怖いんですか、鉄二さん」
 笑う冬真に、
「そりゃ怖いだろうよ、ったく」
 不満を隠しもせず、鉄二が坂道を上り始めた。続いて冬真、辰也が続く。
 坂道は細いがちゃんとコンクリートで舗装されていたので歩きやすかった。それでも転ばないようフェンスを伝って進んでいった。
「うわっ、これなんだ」
「ちょ、ちょっとぉ」
 立ち止まった鉄二とぶつかる冬真の声が闇に響く。
「静かにしろっ。いったいどうしたんだ?」
 辰也も立ち止まって注意する。
「目の前になんかあるんすよ。触った感じ、ビニールシートで覆われてるみたいな――」
「ああそういえば、白いシートを被せたものが途中にあったな。ロープでぐるぐる巻きにして」
「蜜柑運ぶモノレールじゃないですか? 収穫時期以外は片してあるんですよ、きっと」
「でもこれ通り道の真ん中っすよ。こんなとこに普通あります?
 それに――これ、機械って感じしないっていうか」
 鉄二の声にぺたぺた触る音が重なる。
「うわっ」
 突然の叫び声に辰也は念のためポケットに入れておいたペンライトをつけた。
 鉄二が白いシートの物体に伸しかかられている。触れたせいで横倒しになったわけではなく、物体自身が蠢いて鉄二を襲っていた。
「う、うわあ」
 冬真が後退り、辰也にぶつかる。
「早く進めっ」
「で、でも――鉄二さんが――」
「いいから今のうちに。でないと俺らもヤバいぞ」
 冬真を押しのけ、白い物体ともがく鉄二を跨ぎ辰也は先を急いだ。
「ま、待ってください」
 冬真が追いかけてくる。それを確認してペンライトを消した。
「あ、あれなんなんでしょう? 一見、マネキンの胴体がシートにくるまれているみたいでしたけど。でも、それならふつう動きませんよね――鉄二さんどうなるんでしょう」
 背後で冬真の声が震えている。
「分け前が増えると思えばいいさ」
「そ、そうですね」
「しっ。もうすぐ着く」
 その時、がさっと音がして立ち込める蜜柑の花の匂いが揺らいだ。
「ぎゃっ」
 冬真が悲鳴を上げた。
 辰也は急いでペンライトをつけ、冬真を確認する。
 ブルーシートの物体が冬真に伸しかかっていた。これもロープがぐるぐる巻かれ、マネキンの胴体のような形をしている。
「た、助けてぇ」
 手を伸ばして苦し気な声を上げる冬真を無視し、辰也は屋敷へと急いだ。

 玄関前に着くと辰也は重厚な木製の引き分け戸を静かに引いて戸を開けた。
 広い三和土に身を滑らせ、音を立てないよう靴を脱ぎ、上がり框にバッグと脱いだ目出し帽を置いて上がり込む。
 目の前には長い廊下が伸びていた。躊躇なくそこを進み、値打ちのありそうな襖絵を三部屋分素通りした辰也は一番奥の金襖を開けた。
 二十畳ほどの奥座敷の真ん中に敷かれた布団の中で酸素マスクをつけた老人が横たわっている。
 辰也は色のない老人の顔を覗き込み、耳元で話しかけた。
「ちゃんと二人連れて来たよ、お祖父ちゃん。これで後継者の試験に合格したのかな?」
 皺の奥で薄目を開けた老人が白く濁った眼球で辰也を見、小さく頷くとそのままこと切れた。
 すぐさま隣室の襖が開き、正座で控えていた十数人の使用人の中から白衣の医師が出て老人の臨終を確かめた。
 執事を先頭に使用人たちが辰也に向かって深々とお辞儀する。
「おめでとうございます旦那様。わたくし共々みなこれからも一生懸命お仕えいたします」
 挨拶を終えた執事が合図を送ると使用人たちはそれぞれの業務に戻り、残った数人は遺体の処理に取りかかる。
 白衣姿は知らぬ間に消えていた。
 庭番の男がおずおずと辰也に近づいてくる。
「お車は駐車場に回しておきました。あの――これはどういたしましょうか」
 坂道に放ったままにしていた二つのボストンバッグを持っている。
「上がり口に置いてあるのも一緒に全部処分しておいて」
「かしこまりました」
 深く首をたれ庭番が去って行く。
 自分はこの屋敷にふさわしい主になれるだろうかと考えながら、辰也はその後姿を見送った。

 早朝、浅い眠りから覚めた辰也は蜜柑の花が香り漂う坂道を下った。
 数メートル下りた蜜柑の木の下にロープでぐるぐる巻きの白いシートにくるまれたものがあった。鉤裂きにめくれた穴から冬真の目が覗いている。
 辰也は見開いたまま動かないその目を見つめた。
「これからお前はこの家の守り神だ。もう借金や世のしがらみに悩まされることはないぞ」
 そう言い、めくれた部分を戻して手のひらで撫でた。
 シートの穴は何もなかったように元通りに塞がり、それを確認すると辰也はもう一人の守り神のほうへと坂道を下っていった。



恐怖日和 第四十二話『シロ』

2020-05-31 16:12:07 | 恐怖日和


シロ

 猫のシロがまったく帰ってこなくなった。桜の咲く季節になると雌の尻を追っかけて姿が見えなくなることは当然のこととなっていたが、それでも腹が減ると帰ってきて裏庭の沓脱石の上で餌をせがんだ。
 奇特な人に拾われて飼われているのではないか、それならそれでいいじゃないかと猫アレルギーの妻は笑う。だが、道に飛び出して車に撥ねられてでもしていたら可哀想だ。いくら自由にさせていたとはいえ、家にいるようしつけていればそんなことにはならないのに。
 きょうも朝起きてすぐ、縁側から裏庭に確かめに出た。
 やはり帰っていない。
 洗濯干場にしている裏庭には自分の趣味で作った小さな花壇がある。すぐ飽きて今は雑草まみれになっているが、そこに足を踏み入れ、腰の高さの境界塀の向こうへと目を凝らした。
 ブロックで設えた塀のすぐそばには田んぼが広がっていて、塀の真下にはコンクリート製の細い用水路が巡らされている。
 シロは畔道を通り、用水路を跳び越えて庭に戻ってくるのだが、まったく見かけない。
 あきらめきれず、塀から身を乗り出し辺りを見回す。
 田んぼは丹念に耕され、濃厚な土のにおいがした。
 田植えが始まれば、いつもは底を濡らすだけの用水路に小川から引かれてきた水がとうとうと流れ出す。
 夏が来る頃までシロの姿を見なければ、あきらめねばならない――
 ふと、じめじめした用水路の底に何かあると気づく。
 香箱座りする猫ほどの大きさと形状をしているが、ぬらぬら濡れた真っ黒いものなのでシロではない。
 豪雨が降り続いたあくる日などよくそれぐらいの石が雨水とともに転がり込んでくることはあるが、ここ数日、そんな雨は降ってはいないし、石にしては質感がおかしい。
 やっぱりシロではないか、いや、真っ白な猫だから明らかに違うのはわかっている。だが、用水路を跳び損ね打ち所が悪くて死んだのではないか、それが腐敗して黒く変色しているのではないのか。そんなことまで考えてしまったが臭いはなく、それにシロはそんなドジではない。
 だったらこれはいったいなんなのだろう。
 花壇に刺し込んだ緑色の長い支柱を一本引き抜き、腕を伸ばして黒いものを擦ったり軽く突いたりしてみた。
 柔らかい感触が棒の先から伝わってきたが、猫など動物の毛質は感じられない。シロの死骸でないことは判明したが、ではいったい何なのか。
 直接触れたわけではないが、感触を例えるなら蛙が一番近い。だが、蟇蛙にしても大きすぎるし真っ黒すぎる。
 確かめてみるか。
 塀を乗り越えて狭い用水路に降り立ち、黒いものに右手を伸ばした。その瞬間、かぱっと口を開けてそれが飛び掛かってきた。とっさに避けたが小指の付け根あたりに喰らいつかれ、焼けるように痛く、思わず手を振ったが離れない。
 左手で外そうとしたその時、目の端に白いものが走り、用水路の壁に飛び乗った。
 シロだ。
 私の手にぶら下がる黒い何かに素早く猫パンチを繰り出す。
 そいつはばふっと粒子になり霧散した。
「シ、シロ――ありがとうな」
 まだじんわりと痛む右手を擦りながら礼を言うとシロは何事もなかったかのように塀を跳び越え、裏庭を横切り、沓脱石の上で餌をねだるようにみゃあと鳴いた。

 それから数か月が経った。
 シロは相変わらずふらふらどこかに出かけ帰ってきたり来なかったりする。
 あの禍々しいものはいったい何だったのか今でも正体はわからないが、私の右手とシロの右前足には黒い染みが残ったままだ。