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恐怖日和 ~ホラー小説書いてます~

見よう見まねでホラー小説書いてます。
たまにグロ等閲覧注意あり

恐怖日和 第五十二話『蟲篭』

2021-03-05 14:34:29 | 恐怖日和




「あの時にちゃんと断っておけばよかったわね、ごめんなさい」
 古式ゆかしい日本家屋の玄関先で老女が申し訳なさそうに頭を下げた。
 俺もあの時の話を本気で受け取っていたわけではなかった。だが、にっちもさっちもいかなくなり、思い切って来てみたのだ。

               *

 この老女と出会ったのは一か月前。老女の幼なじみの家だった。俺は水道の修理工で、台所の水漏れ修理の依頼でそこに来ていた。
 数をこなしていれば自然と身に付くような技術で故障部分を直している俺をどう見たのか、老女二人は優雅に茶をすすりながら褒めちぎってくる。
「ねえお兄さん、ご結婚されてるの?」
 依頼主がきらきら瞳を輝かせて俺に聞く。
「いえまだっす」
「じゃ、彼女さんはいらっしゃるの?」
「ははは、いませんよ」
 手元に集中したまま俺は答えた。この質問も過去いくつもされた。中には無関心な人もいるが女性の年寄りには必ずと言っていいほど訊かれる。
「へえ、そう」
 そう返す依頼主は「ねえ、みいちゃんの孫娘、まだ独身なんでしょ」と今度は老女に訊ねた。
「ええまあ」
「このお兄さんいいんじゃない?」
 ほら来た。こういう会話も聞き慣れている。俺は無関心を装って仕事を続けた。どうせ茶のお供の一つだ。
「こういうのは縁だから」
「娘さん夫婦も亡くなったんでしょ。このままじゃお家絶えちゃうわよ」
「そんなたいそうな。まだまだ若いからあの子にはこれからもチャンスはあるわ。もしなくても二人暮らしていくだけの資産は十分あるし、跡継ぎなんていてもいなくても、もうどうでもいいし」
「みいちゃんがよくてもお孫さんが寂しいでしょ」
「あの子はいいのよ。一人が好きだから――んーでも、わたしが死んでいなくなったらどうなるのかしらって、ちょっとは考えるけどね」
「ほらぁ、ね、独り者のお兄さんがここに来たのも縁、あなたが居合わせたのも縁。こんなに縁があるじゃない」
 資産がある――それが耳に入ってから俺は作業しながら二人をそっと覗き見ていた。
 依頼主は我がことのように喜んで勧めているが、資産家らしい老女――みいちゃんは乗り気ではないみたいだ。それはそうだろう。どこの馬の骨ともわからない男をそうやすやす家に入れるわけにはいくまい。だが気にはなるのか、こっちをちらちらと窺っている。俺のことを値踏みしているのだろうか。
 こういう話を振られるだけあって、俺は見た目もまあまあイケてる。みいちゃんのほうもしわくちゃではあるが若かりし頃はかなりの別嬪だったのではないか、そう考えると孫娘も悪くないかもしれない。
 こりゃ、逆玉の輿か――
 だが、こういう話は本当に茶のお供で、本気にしたら恥をかく。
 上手い話なんかそうそう転がってるもんじゃないしな。
 そんなことを考えているうちに作業は終了し、請求書を書いて依頼主に渡した。
 料金はすぐ支払われ、領収書を渡すと同時にメモを突き付けられた。
「彼女の住所、ここから少し離れた田舎だけど」
 みいちゃんを指さして依頼主が微笑む。
「もう、いいって言ってるのに」
 深いため息をつき、みいちゃんは茶をすすった。
「気が向いたら訪ねて上げて。お見合いなんて思わず、ちょっと遊びに来ましたくらいの恰好でいいから」
「はあ」
「きっとよ」
 戸惑っているような雰囲気を醸し出しながら、ちゃっかり俺はメモを受け取った。信じたわけではなかったが、ここは良い青年でいることで、次の依頼にも繋がるという打算が働いた。
 だから、本気でみいちゃんを訪ねることはしなかった。
 だが、状況が一変した。
 遊び好きの俺には借金があった。ちゃんと返済しているので質の悪い借金取りに追われることはなかったが、代わりに家賃を滞納し、とうとうアパートを追い出される羽目に陥ってしまったのだ。
 強制退去まで数日という時に思い出したのが、あの時のメモだ。
 俺は仕事着のポケットを探った。洗濯は何度かしていたが、捨てた覚えはなかったから、運が良ければ残っているはずだ。
 果たしてポケットの底からしわしわになったメモが出てきた。うっかり触ればぼろぼろになりそうな紙をそっと広げる。油性のサインペンで書かれた住所が毛羽立った表面に辛うじて残っていた。
 そんなわけでバスを乗り継ぎ、書き写したメモを頼りにみいちゃんの家を探し出した。
 閑静な住宅街の一角、石垣を積み上げた重厚な塀と古風な日本屋敷が目の前に広がる。
 退去の期限は後二日。
 上手く行けばここを俺の住処にできる。転職を余儀なくされるかもしれないが――いや、十分な資産があると言っていた。借金も返せる上に、もうあくせく働かなくてもいいかもしれない――

               *

「俺――あ、僕も本気じゃないって思ってはいたんです。でもあれからどうも気になって気になって――こういうの運命って言うんでしょうか、そんな感じがして。こういう気持ちって大切ですよね。こういうことがなければ恋人を作ることもできませんし」
 意味があるようでないようなわけのわからない言い分を玄関先でまくし立てる俺をじっと見て、みいちゃんはほうっとため息を吐いた。
「ここではなんですし、まあ中へ」
「お、お邪魔します」
 俺は心の中でガッツポーズしながら後についていった。
 長い廊下の手前にある応接間に通された。
 外観とは違い内装も家具もシックな洋風で、座ってと手振りした後、みいちゃんは少しの間姿が見えなくなった。
 いきなり孫娘に合わされるのかと一瞬緊張したが、茶の準備をして戻ってきたので、ちょっと残念なようなほっとしたような心持ちでふかふかのソファに尻を沈めた。
「ごめんなさいね。急なお客様だから何もなくて」
 そう言いながらティーセットを載せた盆をテーブルに置く。高級そうなカップには紅茶、お揃いのトレーにはクッキーが載っていた。どちらも今までの俺には縁のないものだ。
「どうぞ、召し上がって」
 勧められるまま紅茶を飲む。高級な味過ぎて美味いのか美味くないのかよくわからない。
「すみません、急に来てしまって。自分の心に正直になろうと思ったとたん、居ても立ってもいられなくて――」
 俺は頭を下げた。ここまで来たらとことん純朴な青年になりきってこの家に入り込んでやる。
「来られるのは構わないのよ。わたしも暇だから――あ、こんなお婆ちゃん相手にしてもねぇ。ふふふ、でも、孫娘の婿にという話は気が進まないの」
「そうですよね。どこの誰ともわからない僕なんて――冗談を鵜呑みにして、のこのこやって来る男なんて信用置けませんよね」
「まあ普通ならそうね――でもそういう意味じゃないのよ。友達が勧めてくれたのも冗談じゃないわ。彼女は本当にわたしや孫娘を心配してくれているの。
 あれからもあなたのことを感じが良いってずいぶん褒めてたし、わたしもあなたを良い人だって思ってる。
 だからこそ、あなたはこちらを疑ったほうがいいと思うの」
「そ、そんな――疑うなんて――こんな立派な屋敷を持つ立場のある方を――もうそれだけで信用に値します」
「そうかしら? わたしはあなたのためを思って言ってるんだけど――でもそこまで思ってくれるのなら、孫に会ってみます?」
 にっこり微笑むみいちゃんにうなずいて襟を正した。
「じゃ、こちらに」
「え?」
「あの子の部屋に案内するわ」
 てっきり孫娘を応接間に呼ぶのだとばかり思っていたが。
「あ、は、はい――」
 いきなりの展開に戸惑いつつも後について応接間を出る。
 心臓がバクバク跳ねる。
 深窓の令嬢は病弱なのか、それとも部屋に閉じこもってただ本を読んだり絵でも書いているのか。
 まさか引きこもり? 人前に出られないほどブスとか?
 長い廊下は日本庭園のような中庭を横切り、さらに奥に続いていた。
 屋敷の広さや価値の高さが窺えて高揚するも、不安も大きくなってくる。
 いくつか障子の前を通り過ぎ、突き当りのお洒落な洋風ドアの手前で、みいちゃんが立ち止まった。
 ドアにつけられたフックには『亜耶香のへや』と書かれたプレートがかかっている。
 ノックしてからみいちゃんはそっとドアを開けた。
 ぷんと甘い芳香剤に混じって何とも言えない臭いがして、俺の不安はマックスに達した。
 心が押しつぶされそうで今にも逃げ出したいのに、この家の主になれるという打算が働いて足は動かない。
「亜耶香ちゃん。お客様が会いに来てくれたのよ」
 みいちゃんは奥に向かってそう声をかけてから「どうぞ」と微笑んでドアの前から退けた。
 もう後には引けない。
 心臓バクバクのまま俺は会釈すると部屋の中に足を一歩踏み入れた。
 甘い香りがさらに濃厚になる。
 何かわからない臭いは薄くなったが消えたわけではなく、かすかに自己主張をしていた。
 窓には重々しいカーテンが引かれ、部屋の中は暗かった。だが、隙間から微かに光が漏れ入り、真の暗闇ではなく、この部屋の内装が完全な洋風だと見て取れた。
 高価そうなシャンデリアがぶら下がっているのに点けてくれもせず、中にも入らないでみいちゃんはドアをばたんと閉めた。
「あ、ちょ――」
 初対面で二人きりにされても――
 そう訴えようとしたが、さっきのようにお茶を持ってきてくれるのだろうと考えた。
 天蓋付きのベッドには白いレースのカーテンが張り巡らされ、もぞもぞと夜具の中から起き出してくる人影がその奥に見えた。
 きっとすごくきれいなお嬢様だ――きっとそうだ。
 自分を納得させながら、
「あの――いきなり来てすみません――えっと――」
 一歩一歩踏み出したものの、何をどう言えばいいのかわからず言い淀む。心臓が口から出そうだ。
 みいちゃん早く来てくれ。
 心の底からそう願って、ベッドのそばまで近づいた。
 衣擦れが聞こえ、髪の長い細身のシルエットが動く。
「俺――いえ僕――ええっと――」
 そう言いながらカーテンを開こうと手を伸ばした。
 キチキチキチキチ
 何かの鳴き声がした。
 キチキチキチキチ
 虫?
 素早く辺りを窺ったが、薄暗いとはいえ仄かに浮かび上がる調度品の中には虫篭や飼育ケースの類はない。
 キチキチキチキチ
 鳴き声がカーテンの中から聞こえてくるとわかった瞬間、俺は慌てて後退った。
 鼓動に合わせこめかみが脈打ち、眩暈もする。
 なんだなんだなんだ――
 カーテンの隙間から黒い虫の鉤手が出てきた。人の手のように大きい。
「ひぃっ」
 だが、そう見間違えただけで、実際は華奢な左手だった。黒く見えたのは黒いレースの手袋をはめていたからだ。その手がカーテンをつかんでゆっくり開いていく。
 中から出てきたのは同じ黒いレースの寝間着を着た痩せこけた女だった。両目は焦点が合っておらず、どこを見ているのかわからない。
 キチキチキチキチ、キチキチキチキチ
 女は右手に持っているカッターの刃を出し入れしながら呆然と突っ立ったままの俺に飛び掛かってきた。
 ガリガリの女を振り払うのは簡単だと思った。だがなぜか足元がふらつき、跪いてしまった。
 あのばばあっ。なにか薬を盛ったな。
 動悸や眩暈は緊張のせいだと思っていたが、そうではなかったのだ。
 立ち上がらなければと踏ん張ったが脚に力が入らず、倒れ込んでしまった。女はすかさず俺の上に圧し掛かってくる。
 キチキチキチキチ
 全刃の出たカッターが目の前できらめき、その瞬間首筋が熱くなった。
 キチキチキチキチ、キチキチキチキチ、キチキチキチ
 女の深いほうれい線が持ち上がる。
 キチキチキチキ、チキチキチキチキ、チキチキチキチ
 目の前が真っ暗になってきた。
 キチキチキチキチ――
 音もだんだん小さ――な――て――――――


恐怖日和 第五十一話『守神』

2020-12-14 11:40:34 | 恐怖日和

守神


「ねえ、あなた、シロ帰って来てる?」
 買い物から帰宅した妻が珍しくシロのことを訊いた。彼女は猫が嫌いではないのだが、毛のアレルギーがあるので極力近づかない。もちろんリビングから続く縁側以外の場所に上げるのは禁止だ。その約束でシロを飼っている。
「うん帰って来てるよ。今朝も餌をあげた」
「そう、それならいいんだけど」
「なんで?」
 食材をエコバッグから冷蔵庫に移し替えながら「町田さんがね、気持ち悪いこと言うから――」と口ごもる。
「気持ち悪いことって何?」
 数日前から寝不足が続いて頭痛がひどく、こめかみを揉んでから訊ねた。
「たぶん単なるうわさだと思うんだけど、ほらそこの窓の障子がぼろぼろの家の男の人――その人がね野良猫も飼い猫も見境なく捕まえて虐待してるって――」
 妻の言う男の人とは田んぼを挟んだ向こう側の家に住む初老の男のことだとすぐわかった。縁側から見えるその家は障子が不気味なほど変色してぼろぼろに破れ、庭も荒れ放題でまるで廃屋のようだ。
 たまにしか見かけないが、男の目はいつも血走っており、一目でヤバそうな雰囲気を醸し出している。
 関わってはだめな人種だとわかっていたのに、以前散歩中に男が頭陀袋に入れた猫を棒で叩こうとしているのを止めたことがあった。
 わけのわからない言葉で怒鳴り散らされ、振り回している棒で自分が殴られるのではないかと警戒したが、男はそのまま自宅に戻ったのでほっとした。
 袋の中で暴れる猫を解放するまで、それがシロではないかと気が気ではなかったが、出てきたのは三毛の野良猫でふぎゃあと文句を言うように鳴き叫びながら逃げていった。
 まさか私やったと思ってないよな。
 少し悲しい思いをしながら帰路についたことを思い出す。
「う~ん。そのうわさ本当だと思うよ」
「えーっ、シロ大丈夫かしら。その人、変な信仰しててね、ただの虐待じゃなくまじないや呪いのための生贄にしてるんだって。シロが狙われなきゃいいんだけど」
「な、なんだって――」
「でね、町田さんちのお隣の一人暮らしのおばあちゃんいるでしょ――よくチワワを散歩させてる――そのワンちゃんが急にいなくなってね、おばあちゃんウワサを知ってたもんだから、あの男が盗ったって大騒ぎしたんですって。
 でね、うろうろ歩いてた男を見つけて問いただしたそうなんだけど、自分が欲しいのは猫だけだって喧嘩になって――そのいいわけも怖いんだけどね――で、町田さんはじめ、ご近所みんなで喧嘩を止めてその場はいったん収まったんだけど――
 結局ね、ワンちゃんはただの脱走であくる日に町田さんが見つけて保護したんですって。でもお隣に連れてったらおばあちゃんが亡くなってて、町田さん腰抜かしたそうよ。不思議なのがね、亡くなって間もないのに遺体の色が黒かったんですって。別に腐っているわけじゃなくただ真っ黒で――」
 だんだん妻の声が遠のいていく。
 数か月前用水路にいたものに合点がいったからだ。そしてここ数日前から続く毎夜の怪異の原因にも。
 私は右手の黒い染みを押さえた。あの男が呪っているのだ。いったんシロが助けてくれたものの呪いはまだ続いている。
「でね、あの男が呪い殺したんじゃないかって、みんな言ってる――ねえ、聞いてるのっ?」
 鋭い妻の声で我に返った。
「ああ聞いてるよ」
「わたし、シロが心配だから言ってるんだからね。あいつにつかまらないように気を付けてあげてよ」
「ああ、ありがとう。注意しとく」
 背中に流れる冷汗を感じながら平静を装った。妻は怪異譚好きだが、それが自分に降りかかってくると話は別だ。夫とシロがもうすでに狙われていると知ったら気を病みかねない。
「そんな人が近所に住んでるっていやだわ。どうにかならないのかしら――」
 妻は独り言ちながら冷蔵庫を閉めた。

 がりがりとリビングの窓を引っ掻く音が聞こえて来た。
 やっぱり今夜もか。
 寝室まで聞こえてくる音なのに、隣で眠る妻には聞こえないらしく、毎晩目覚めるのは私一人だ。
 シロが入れて欲しくて引っ掻いているのか。
 リビングのカーテンを開けて窓越しに確認する。
 いるのは猫ほどの黒い影だ。だが、シロではない。嫌な気を放ち、入り込む隙間を探しているかのように伸びたり縮んだりしながらガラス窓を引っ掻いているが、私に気付くとびちゃりと大きく窓一面に広がり――
 そこで朝目覚めるということを、ここ数日繰り返していた。
 変な夢だと思っていたが、まったく眠れていないように疲労が募り、今夜は身体を起こすことさえできない。
 これが呪詛ならいったいどんな結果が待っているのか。
 右手にあれ以上の変化はなかったが、妻が話していた老女のように私も真っ黒に変色して死ぬのだろうか。
「しゃあっ」
 威嚇の声が聞こえた。
 きっとシロだ。今は来るな。
 そう祈った。
 だが祈りもむなしく、格闘し暴れ回る音が聞こえてくる。
 頼むから逃げてくれ。
 戦うシロの声と激しい物音が鳴りやまない。
 だが、私にはどうすることもできない。
 逃げろ、シロ。逃げろ――

「あなたっ、ちょっと起きてっ」
 妻の緊迫した声で目覚めた。
 身体中にまとわりつく粘着いた寝汗が気持ち悪い。
 起きようとしたが肩から首筋にかけて突っ張るように痛み、頭痛もひどくて頭を動かすこともできない。
「起きてってばっ」
 寝室を覗く妻の顔色が悪い。
「どうした――」
「庭に猫が死んでるの。やだわ、何でうちに」
 それを聞いて身体が飛び起きた。くらくらと眩暈がしたが、何とかベッドから降り、パジャマのままリビングに急いだ。
「あそこよ」
 縁側に立った妻が目を背けながら花壇のほうを指さす。
 雑草まみれの花壇の中には口をかっと開いて硬直した黒猫の死骸が横たわっていた。
「どこの猫よ。まさかシロが持ってきたんじゃないわよね?」
 色や模様の違いでしか猫を区別できない妻はシロのしわざだと疑っているが、これはただの黒猫じゃない。呪いで黒く染まったシロだ。
「ちゃんと片すから君は中にいて」
 涙声を悟られないように妻から離れ、シロに近付く。
「わかった。じゃ、お願いね」
 何も気づかず妻が奥に消えるのを確かめて右手の袖で目頭を拭いた。黒い染みが消えていた。
「私を守ってくれたんだな、シロ」
 両手を合わせてから縁側に置いてあるシロのブランケットを取ってきた。亡骸を丁寧にくるみ、花壇の隅に立てたスコップで深く穴を掘って埋めた。
 ここは私の花壇で妻は触らない。
「安心して眠れよ」
 小さな盛り土にそう声をかけた。

 呪いに負けたためにシロが死んだのだと思っていたが、その夜から怪現象は起こらなくなった。
 体調が戻ると私はすぐ白い花の苗を買ってきて花壇に植えた。時間があれば縁側に座り、ぼんやりと風に揺れる小さな花弁を眺めていた。
 ある日、買い物から帰った妻が町田さんから聞かされたと言って、あの男の現状を教えてくれた。
 それによると、男の家はただ同然で借りていたもので、男と連絡がつかない大家が様子を伺いに来て失踪に気付いたらしい。
 このまま戻ってこなければいいのだが、と大家は心底ほっとしていた様子だった。そう町田さんからひそひそ教えられたそうだ。
「町田さんは何でもよく知っているな」
 皮肉を言うと、
「でも役に立つ時もあるのよ」と妻が苦笑した。
 確かに。おかげで男の所在不明はわかった。
 失踪に至った本当の理由は定かではないが、シロが守ってくれたのだと思うとよけい切なくなり、とてつもない寂しさに襲われる。
 妻は私があの男に命を狙われていたことも、死んでいた黒い猫がシロだということも、いまだに気づいておらず、シロが帰ってこないのはどこかで死んでしまったからだと思っている。
「もうあきらめたら? こういうことも含めてわたしは飼うなって言ってるの。だからちょうどいいのよ。今後、何も飼っちゃだめよ」
 きつい言葉だと思うが、腑抜けのような私を励ましているのだということもわかっている。
 だが、事情が事情だけに私はいつまでも気持ちの整理をつけられないでいた。

 ごとごと回る洗濯機の音を聞きながらいつものように花壇を見つめていた。隣家に面したほうの庭の奥から三毛猫が出てきた。シロがいた頃からちょいちょい庭を横切っていたようで妻の愚痴を聞いた事がある。
 この辺りも野良猫の保護に力を入れ、不妊や去勢手術を施される猫が増えたが、この三毛はまださくら猫にはなっていなかった。その証拠に耳先がカットされていないだけでなく、後ろに子猫を連れている。
 茶トラとさばトラの二匹、間隔を開けて辺りを窺いながら注意深く母猫を追いかけている。
 誰もいないと思っていたのか悠々と庭の真ん中まで来たが、縁側の私に気付き、母猫が止まってじっとこちらを警戒した。子猫たちもぴたりと動きを止める。
「早く行けよ。見つかったら怒られるぞ」
 驚かさないよう姿勢を崩さず、できるだけ優しい声で忠告していると、遅れてちょこちょこ、もう一匹子猫が追いかけて来た。
 私はそれを見て思わず腰を浮かせた。
 真っ白な子猫。
 私が立ち上がっても親猫は逃げようとせず、白い子猫が私のほうへ駆け寄るのを見ても止めようとしない。
 沓脱石を上れず、みいみい鳴く白い子猫を抱き上げても威嚇すらしなかった。他の子猫とただただこちらを見つめているだけだ。
 手の平から伝わる子猫のぬくもりに目頭が熱くなった。
「あなたっ、野良猫に餌付けしないでよっ」
 背後からけたたましい妻の声がして母猫と二匹の子猫が慌てて逃げた。
「お、おい待て――」
 呼び止めたが、もう猫たちの姿はなく、白い子猫が私の手の中に残った。
 洗濯カゴを抱えて縁側に来た妻の視線は痛かったが、子猫を離す気になれない。洗濯物を干す間もずっと抱きしめていた。
 妻は眉をひそめていたが、干し終わった後、私を振り向き、
「もう、しょうがないわね。今までと同じようにちゃんと約束は守ってよ」
 そう言って笑った。

恐怖日和 第五十話『似顔絵』

2020-11-29 12:56:22 | 恐怖日和

似顔絵


 うちそんな怖い顔してるかなあ?
 赤ちゃんとか小さい子がな、うちのことじっと見るねん。そやかいそんな怖い顔してるんかな思て。 
 なんか憑いてるんちゃうかて? いややわ、怖いやん。そんなことゆわんといてよ。ははは。
 えっ、うちの歳? そんなこと初対面の女に聞くもんやないで。
 まだ三十代かて? 
 いやっ、もうそんなうまいことゆうてぇ。ほらほらビール飲んで飲んで。
 もう孫もいてんのに三十代ゆうんは嫌味やで。
 そうよぉ、孫よぉ、息子の子ぉ。うん、男の子よぉ、めちゃめちゃかわいてな。
 もう三つになってん。保育園行ってからしっかりしてきて――そやねん、夫婦共働きやさけ預けてるんよ。そんなとこ入れんでもうちが面倒見たるゆうたんやけどな。
 嫁が気ぃつこて断ってきて。
 まあ長いことうちと子供が一緒におんの妬けるんやろなぁ。
 それでのうても、おばあちゃんおばあちゃんゆうて、慕ってくるし。
 コツ? 
 嫁はええとこの娘やさかいかしつけが厳してな、子供にあんまり甘いもん食べさせへんねん。
 そやかい親の見えんとこでおいしいお菓子いっぱい食べさせたるねん。もう気ぃ狂たようにがつがつ食べるで。
 しつけやゆうても、食べるもんはようけ食べさしたらな逆にいやしい子になるんちゃうかって見てて思たわ。
 え? んーそやなぁ、見つかったら怒られるやろなぁ。ははは。
 そやけど孫はかわいいわぁ、この間もな、おばあちゃんの顔やゆうて画用紙に似顔絵描いて持ってきてくれてな。
 婆バカ思うやろけど、これが上手で。将来はピカソかゴッホや、ゆうてピカソやゴッホの絵なんか見たことないけどな。ははは。
 ただな、その絵に嫁がえらい気ぃつこて――
 あーいや、ええわ、もうこの話やめとこ。
 えっ? 何? 気になる? こんなこと聞いてもしょうもないで。
 え? 聞きたいてか? あんたも聞きたがりやね――ちょっと変な絵やっただけやねんけどな、わざと描かせたんちゃうよゆうて、嫁が気ぃつこただけの話や。
 そやねん、ええ嫁やねん。今まで嫁姑問題なんかもあらへんさかい、わざとやなんか思うかいな。
 えぇ? まだ聞きたいん? どんな絵かて?
 うーん――しょうないな――
 顔が三つあるんよ。
 うちの顔挟んで左右にいっこずつ――白目ひんむいた気色悪い顔が――
 息子は顔がだぶって見えてるんやゆうて孫の乱視心配してな、今度病院に連れて行くゆうてたけど――えっ? さっきの話? ああ、小さい子がうちのことじっと見てるってやつかいな――なんか憑いてるいうのあながち間違いやないて?
 や、もうっ、そんな怖いことゆわんといてぇ。そやかいこの話やめとこ思たんや。
 子供ゆうんは突拍子もないことしたりゆうたりするもんやて嫁も苦笑いしてたし、うちもそう思う。ははは。
 まあまあこれ飲んで、飲んで。えっ? もう帰らなあかんの? 嫁はんに怒られるって? ははは、そりゃ早よ帰らな。
 またおいでな。うち、この時間やったらいつもおるさけ。ほなね、バイバーイ――
 ――ふう、危ない、危ない。孫自慢して口滑らせてもたわ。
 あの絵、嫁は気ぃつこてたけど、うちわけわかってるし別に怒らへん。
 ふふふ、あの左右の顔、昔うちが自殺に見せかけて殺した男らや。ほんまいつまでも未練がましい奴らやで。

恐怖日和 第四十九話『消火栓』

2020-10-28 17:54:54 | 恐怖日和


消火栓

 さっさと帰ればよかった。宿題なんて忘れても命まで取られることなんてないのに――

 リコは校舎を出たところで課題プリントを机の中に忘れていたことを思い出して教室に戻ることにした。
 校舎にはもう誰も残っていない。二階に上がると廊下の壁に設置されている消火栓の扉が半開きなのに気付いた。それだけでなく、開いた隙間からホースの一部が垂れ下がり床に落ちている。
 馬鹿男子のいたずらだなと思い、片づけようかと近づいたがなんだか様子がおかしい。
 見えているホースの一部が白くて平たい布状のものではなく、細くてぬめっていて、今まで実際に見たことはなかったが腸のような生々しさを感じた。
 扉の手前まで来るとそれがずるずると音を立て中に戻り始めた。
 え、なにこれ? 
 この学校に怪談や都市伝説の類があっただろうか。
 リコは入学してから今までそんなものを聞いたことがなかった。もちろん過去に噂になるような事件や事故があったという話も聞いた事がない。
 じゃ、これは今現在起きている事件? 中になんかいるの? え、ヤバいじゃん。に、逃げなきゃ。
 だが、いまだ信じられない。
 だって、この中になんも入れないよね。動物とかましてや人間なんて――
 動けずじっとしている間に扉がゆっくりと開き、中から異常に長いねじくれた灰色の指が出て扉の縁をつかむ。
 びたりと音を立てて床についた足も手と同様不気味な形状で、それを見た時、リコはスカートをひるがえし、階段に向かって廊下を駆け出していた。
 やだやだやだやだ――
 だが、足がもつれ一段目から踊り場まで転げ落ちてしまった。後頭部を打ち付けて一瞬気が遠くなる。
 だめ。早く逃げないと。
 気力を奪い立たせるが、打ち所が悪かったのだろうか身体はぴくりとも動かない。気分も悪いし、だんだん頭もぼうっとしてくる。
 びたりびたりと足音が聞こえ、だんだん霞む視界の中に灰色をした得体の知れないものたちが入って来た。
 覗き込んでくる顔が恐ろしく醜い。
 腹に衝撃が走った。鋭い刃物で裂かれ、内臓をいじくられているような激痛がリコを襲う。
 だがどうすることもできず涙が溢れるばかりだった。
 ギィギィッ
 激しい鳴き声が聞こえ腹の中の動きが止まり、足首を持って引きずられ始めた。
 背中と頭を打ちつけられながら階段を引っ張られていく。踊り場に這いつくばって床に溜まった血を一心不乱に舐め取っているやつらが逆さまに見えた。
 さっさと帰ればよかった。宿題なんて忘れても命まで取られることなんてないのに――
 廊下を消火栓のほうへと引きずられ、中に引っ張り込まれていく。
 この中はどうなってるの。
 せめてそれを確かめたかったが、頭の先まで入ったとたん扉が閉まって真っ暗闇になった。
 その時リコは思い出した。
 確かにこの学校には怪談や都市伝説はない。
 だが、理由もなく家出する生徒がたまにあるということを。

恐怖日和 第四十八話『ミスリード』

2020-10-10 11:38:07 | 恐怖日和

ミスリード

「――というわけで大変だと思いますが、きょうも頑張ってください」
「はいっ」
 店長が朝のミーティングを閉め、一同返事をする。
 どちら側も連日の気苦労で覇気が感じられない。
 依美は心の内でため息を吐いた。
 レジ袋廃止でマイバッグなどの持参が決まってから、それを利用した万引きが横行するようになった。
 防犯カメラの設置や店内放送での注意喚起、従業員の目視などで被害防止に努めるものの万引きがなくなることはなく、日々神経をすり減らされ疲労が溜まっていた。
 ただでさえそんな状況なのに、きょうは諸事情でさらに従業員数が少ないという。規模の小さなドラッグストアだし、休日ではないので客足は少ないだろうが、神経をすり減らされるのは辛かった。
 それでもやるしかない。
 依美は重い足を引きずって自分の持ち場へとついた。

「いらっしゃいませー」
 その声に視線を向けるとトートバッグを肩に掛けた女性客が入って来た。
 従業員たちの緊張が伝わってくる。
 空っぽのマイバッグではなく普段使いのバッグのようだが、だからと言って万引きしないとは限らない。マスクをつけているのもご時世とはいえ、なんだか怪しそうに見えた。
 きっと店長は事務室の防犯カメラで目を光らせているだろう。その証拠に「マイバッグはレジで使用するまで折りたたんでおいてください」という店内放送が流れ始めた。
 あれマイバックじゃないけど、どっちにしても注意喚起にはなるか。
 依美は心の内で独り言ちた。
 メモを見ながらカートをつくくだんの女性が依美の横を通り過ぎる。
「いらっしゃいませ」
 依美の挨拶に会釈が返ってきた。人の良さそうな眼差しがマスクの上に見える。
 怪しいそぶりもなく、普通に商品を選んでカートに入れている女性客に依美は、この人はだいじょうぶだと安心した。
 だが、執拗に万引き防止の放送が流れ続け、依美は店長に異常を感じ始めた。
 隣の通路にいた同僚が陳列棚の切れ間から顔を出す。
「ね、店内放送ヤバくない? お客様たちが不快に感じちゃうかも」
 言葉通り、通路にいる客たちに不穏な空気が流れ始めた。
「わたし止めてくるわ」
 事務室に向かって走る同僚の背中を依美は見守った。
 突然事務室のドアが開き、飛び出てきた店長に驚き同僚が「きゃっ」と悲鳴を上げた。
 それを気にも留めず店長は血相を変えてレジに向かう。
 そこではあの女性客が精算している最中だった。
「あのお客様。バッグの中を見せていただけますか?」
 店長は大声を出して女性客のバッグをつかんだ。
「なにするんですかっ」
 驚きと怒りを隠せず、女性がバッグを引っ張り戻す。
 依美を含め従業員が駆けつけ、客も何事かと騒ぎに注目した。
「店長、やめてください」
 レジ担当が止めようとするも店長は一歩も引きさがらず、
「マイバッグはたたんでおけっつーてんのに、この女はっ」
 と顔を紅潮させ目を剥いて女性を罵った。
「店長、それマイバッグじゃありませんよ。それにそのお客様はなにもしてません。わたしたちが確認しています。ねっ」
 同僚が同意を求めたので、依美もうなずいた。
 それでも女性のバッグを離さない。
「わかりました。気の済むまで見たらいいでしょ」
 女性がバッグを離し「何もなかったら許さないわよ。こんな恥かかせて」と頬を流れる涙を拭った。
 果たしてバッグの中には仕事関係の書類の束、手帳や筆記具、化粧ポーチなどが詰まっていて商品を盗み入れるスペースなどなかった。事実、彼女の持ち物以外何も入っておらず、マイバッグはきちんとたたまれ、財布の横にあった。
 店長は憑き物が落ちたように青ざめ平謝りしたが、すでに手遅れだった。
 女性は絶対許さないと店長を怒鳴りつけ、レジを通した商品のかごを突き返し、こんなところ二度と来るかと吐き捨てて店を出て行った。
 他の客も非難の声を上げ、店内は大騒ぎになった。
 かごやカートをその場に置いて出て行く客が続き、依美や他の従業員たちはただおろおろするばかりだった。

 結局、悪評の立ったドラッグストアは閉店を余儀なくされ、依美は現在求職中だ。
 だが、それだけで潰れたのではないとわかっている。
 あの後、店から大量の商品が万引きされていたことに店長はじめ従業員一同、みな気付いた。
 騒ぎに気を取られ過ぎて誰も注意していなかったのだ。頼りの防犯カメラには怪しい動きをする大勢の客たちが映ってはいたものの、うまく死角を利用され、顔や手元など映っておらず、決定的な犯行証拠は何一つ残っていなかった。
 たまたま騒ぎに便乗した個々別々の犯行なのか、グループの計画的犯行なのかもわからず、もし計画的なグループの犯行だったなら、あの女性客がグルだったのかどうかも今となっては知る術もない。