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恐怖日和 ~ホラー小説書いてます~

見よう見まねでホラー小説書いてます。
たまにグロ等閲覧注意あり

恐怖日和 第四十一話『赤ちゃんのいない団地』

2020-05-16 13:48:48 | 恐怖日和


赤ちゃんのいない団地  

 この団地は赤ちゃんが死ぬことで有名だった。

               *

「ふう、やっと寝てくれた」
 マチ子は抱いていた太郎をベビーベッドに寝かせるとそっとタオルケットをかけた。
 この団地に越してきてから太郎はよくぐずるようになった。それまではあまり手のかからない子で、親思いの良い子だとママ友に自慢するほどだったのに。
 三週間前の引っ越し時のことをマチ子は思い出す。
 荷物を運んでいる自分たちを住人がじっと覗き見していた。
 値踏みされているんだと不愉快になり、マチ子は失礼極まりない住人たちを睨み返した。
 団地は転勤してきた夫へ会社から貸し与えられたものだが社宅ではなく、上司や同僚その妻たちに気遣いする必要はなかった。
 とはいうものの、ご近所トラブルはできるだけ避けたい。新住人に対しての一時的なものだろうとその場は気を静めた。
 だがそれからも、ほぼ毎日誰かがこちらを覗き見ていることをマチ子は知っている。
 頭に来て管理人に抗議しようと考えたこともあった。しかし太郎のぐずりがだんだんひどくなってきて、そんなことに気を煩わせている場合ではなくなった。
 太郎から解放されたマチ子は残業で遅くなる夫・太一の夕食を準備した。

「またぐずってたのか」
 ネクタイを外しながら太一が訊く。
「そうなのよ。近頃特にひどくなって――」
「なんでだろうな。あっちにいた頃は全然そんなことなかったのに。この部屋、ダニでもいるんじゃないか。刺されてかゆいからぐずるとか」
「ううん。そんなことないと思う。痕もないし」
「じゃ、どうしてだろうなあ」
 太一はそう言ったきり、さっさと部屋着に着替えるとテーブルについて飯を黙々と食べた。
 食事を終え箸を置いた太一が湯呑を差し出す。
 マチ子は急須の熱い茶を注いだ。ついでに自分の湯呑にも注ぐ。
「ねえ、あなた、ちょっと変なこと言うけど、別に頭がおかしくなったわけじゃないからね」
 そう前置きして「太郎、ここの人たちに呪いかけられてるんじゃないかな?」と真剣な眼差しを夫に向けた。
 太一がお茶を吹き出す。
「アチチチ――おいおい。そんなことこの世にあるか。もしあったとしても呪いをかけられる理由がないぞ。引っ越して間もないし」
 そう言いながらテーブルに飛ばしたお茶をティッシュペーパーでふき取っていく。
「人の悪意に理由なんてないわよ。あの人たちいつも暗い顔でこっちをじっと見てんの。みんな子供いないみたいだから羨ましいんじゃないかしら。
 太郎の具合が悪いのはそれが原因のような気がする」
「だからと言って呪いなんてありえないよ。よくそんなこと思いつくな」
 太一は笑い「赤ちゃんが物珍しくて見てるだけだよ。そのうち気にしなくなるさ。
 太郎も環境の変化が一番の原因じゃないか。慣れてきたら治ってくるよ」
「わたしもそう思ってたんだけど――慣れてくるどころか、だんだんひどくなってくるから――」
「おいおい、そんな気に病むな。だから変な妄想するんだよ。大丈夫、大丈夫」
 その時、寝室で物音がしたような気がしてマチ子が振り返った。
「どうした?」
「なんか音したような」
「そうか? 俺は聞こえなかったけど」
 マチ子は様子を見に行こうと立ち上がりかけた。その手を太一が握る。
「もう寝たんだろ? 泣き声してないから大丈夫だよ。それより久しぶりに――」
「でも――」
「ここんとこあいつずっとぐずってて、お前つきっきりだったろ? 俺のことも構ってくれよう。一緒にお風呂入ろうよう、ママぁ」
「もうやだ、あんたは赤ちゃんか」
 胸に顔を押し付け抱きついてくる太一を押し返しながらマチ子は寝室の気配を窺った。だが何も聞こえず、さっきの音は気のせいだと思った。

               *

 太郎は寝室のベビーベッドですやすやと眠っていた。
 誰も触れていないのにかちゃりとドアが開くと、ハイハイする赤ん坊が入ってきた。
 赤ん坊は何かを探すようにかわいいお尻を振って部屋中を徘徊し始めた。
 この間からずっとここに来ているが、目当てのものがいっこうに見つからず、いつもぐるぐる回るだけだった。
 探しているのはミルクの匂いのするものだ。久しぶりに嗅ぐ匂いの源は確かにこの部屋にある。
 赤ん坊の探しているもの――それは赤ちゃんだった。

 ようやくハイハイし始めた頃、赤ん坊は若すぎるシングルマザーの母親に放置されてこの団地で餓死した。
 お腹が空いて動けなかった小さな身体は命が尽きるとともに自由になり、団地の中ならどこでもハイハイで移動できた。もうお腹が空くことはなかったが、寂しくて母親を探し求めて団地中を徘徊した。
 ママドコ? ママドコ?
 だが、母親はとっくに逮捕され団地にはいなかった。
 ある日、赤ん坊は遠い昔に嗅いだ甘いミルクの匂いに気付き、その幸せな匂いをたどってある部屋に入った。
 うさぎ模様の清潔なケットの中で赤ちゃんが眠っていた。
 ママイナイ オトモダチイル
 赤ん坊はハイハイで近づき、赤ちゃんの顔の上に座った。
 キャッキャ
 純真無垢な丸い魂が赤ちゃんの身体からぷくっと出てきた。でも赤ん坊と同じ形になる前に天井から降りてきたきらきらと輝く光の筋に導かれて浮き上がると溶けるように消えた。
 赤ん坊は天井に戻っていく光を追ったが浮くことができず、一緒についていくことは叶わなかった。
 それからも赤ちゃんを見つけては何度もオトモダチにしようとした。だが、すべて光に連れて行かれ、かといって自分はついていくことができなかった。
 やがて団地は『赤ちゃんが必ず死ぬ団地』として有名になり、赤ちゃんや幼い子供のいる家族が入居してくることはなくなった。
 長い年月が経った今も赤ん坊はオトモダチを探し、ずっと団地内をうろついていた。

 オトモダチ イナーイ
 ぐずり始めた赤ちゃんの声がすぐ近くに聞こえている。なのに見つからない。
 ハヤク ハヤク
 赤ん坊は焦った。自分が近づくとなぜか赤ちゃんがぐずり始め、泣き声を聞いた母親がすぐ部屋に飛び込んでくる。そうならないようしたいのに、まず赤ちゃんが見つからない。
 赤ん坊は必死のハイハイで探し回した。
 そのせいで目の前のベビーベッドの脚に思い切りぶつかってしまった。
 ベッドを知らない赤ん坊はこれを柱だと思っていつも避けていた。
 ジャマ
 ぶうと口を尖らせ忌々しそうに見上げる。
 そして甘くて幸せな匂いがこの上から漂ってくることに気付いた。
 ミツケタ
 脚をよじ登りベッドに上がり込んだ。
 男の子が柔らかい枕に頭を載せ、今にも泣きそうに顔を歪めている。
 見つけた喜びに浸る間もなく慌てて顔の上に座った。
 キャッキャ オトモダチ
 嬉しくて体を揺らしお馬ごっこする。
 キャッキャ
 赤ちゃんの両手が苦しそうに空をかき、ぱたんと落ちた。
 キャッキャ
 赤ん坊はわくわくした。
 赤ちゃんの身体から白く輝く丸い魂がぷくっと出た。膨らんだり縮んだりしながら浮かんでいる。
 オトモダチッ
 赤ん坊は嬉しそうに形になるのを待った。
 だが、暗い部屋の天井からきらきらと輝く光の筋が降りてきた。
 ダメッ
 赤ちゃんの魂が上へ上へと導かれていく。
 もちろん止めることも連れていってもらうこともできず、吸い込まれていく魂をただ見ているだけ。
 光が消えて暗闇が戻ると赤ん坊はがっくり項垂れた。

               *

 風呂から上がり後片付けを済ませたマチ子は音を立てないようそっと寝室に入った。
 豆電球の光の下、先に風呂から出ていた太一はすでにいびきをかいている。
 ベビーベッドの太郎はタオルケットから両手を出してよく眠っていた。
 今晩はぐっすりね。
 マチ子はほっとした。
 夫の言う通り環境のせいだったのだろう。もう大丈夫かもしれない。
 安堵の微笑みを浮かべながらベッドを覗き込み、太郎の頬にそっと手を触れた。
「えっ?」
 頬が異常に冷たく感じ、思わずマチ子は手を引っ込めた。
「太郎?」
 震えながら息子を抱き上げる。小さな頭が力なく落ちてぐらぐら揺れる。
「いやあっ、太郎っ」
「どうしたっ」
 マチ子の悲鳴に太一が目を覚まして照明を点けた。
「あなたっ太郎が。太郎がぁ」
 太一が息子の様子を見て血相を変え、慌てて一一九番に電話をした。

 医師から太郎は窒息死だと伝えられた。
 顔のそばにぬいぐるみなど置いてなかったか、掛物が顔に掛かっていなかったかなど、不注意なダメ母親と責められているようにマチ子には聞こえた。
 その言葉に首を横に振り続けたが、医師は寝返りの際にタオルケットが鼻口を塞いだのだろうと結論付けた。だがあの時、太郎の息を止めるものなど何も載っていなかったのは確かだ。
 一生懸命そう伝えたが、自分でもただの言い訳にしか聞こえず医師や看護師の視線が痛い。原因は何であれ無責任な母親が子供を見殺しにしたことは間違いないのだから。
 マチ子は隣にいる夫を見た。
 項垂れて医師の話を聞いている。
 風呂から上がって寝室に入ったのはこの人が先だ。その時に太郎の異常に気付いていたら、あの子は助かっていたかもしれないのに。
 そうだ。あの物音が聞こえたような時もわたしは様子を見に行こうとしてた。なのにこの人が止めた。
 わたしだけが悪いんじゃない。
 わたしだけが悪いんじゃない。
 わたしだけが悪いんじゃないっ。
 視線に憎悪がこもる。
 太一がふとマチ子を見た。悲しみで沈んでいる瞳が愚かな妻を非難しているように思える。
「わたしだけが悪いの?」
「マチ子?」
「わたしのせいだと思ってんでしょ。わたしの不注意で太郎を殺したってっ。
 わたしがどんだけあの子を大切にしていたか、あんたにはわからないの?」
「よさないか。誰もそんなこと言ってないだろ」
 医師たちの視線を気にしながら太一が戸惑う。
 だが、興奮したマチ子はもう自分を押さえられず、夫につかみ掛かった。
「や、やめろ、マチ子――お、落ち着けっ」
「わたしはちゃんと太郎を見てたんだっ。ちゃんと見てたぁぁぁぁぁぁっ」
 マチ子は取り押さえようとする医師の眼鏡を弾き飛ばし、止めに入った看護師のきれいにまとまった髪をつかみ乱した。
「太郎ぉぉぉっ」
 暴れる身体を押さえつけられたマチ子は獣のような咆哮を上げて気を失った。

 太一は今まで見たことのない妻の豹変ぶりにただ狼狽えるばかりだった。
「マチ子、マチ子」
 気絶した妻を太一は抱きしめた。
「あの――お父さん――事件性はないとわかってますが、赤ちゃんの不審死ということで一応警察に届けます」
 医師は額に落ちた髪をかき上げ机に戻った。
「はい――」
 妻を抱え太一は力なくうなずく。知らず知らず頬に涙が溢れていた。

 処置室でマチ子を休ませてもらっている間、太一は買ったままの缶コーヒーを握りしめ、しばらく暗い待合室に座り込んでいた。
 そこに奥さんが病院の屋上から飛び降りたと血相を変え看護師が駆けつけた。
 太一は彼女の言葉がまったく理解できず、持っているはずの缶コーヒーが床に転がるのをただぼんやり眺めていた。

               *

 この団地は赤ちゃんがよく死ぬことで有名だった。
 だが、きょう引っ越してきた赤ちゃん連れの若い夫婦はそのことを知らなかった。
 団地のあちらこちらで住人たちが暗い目をして引っ越し作業を見つめている。
 赤ちゃんを抱いたひっつめ髪の妻が彼、彼女らに会釈した。だが、誰も返す者はいない。
「ここの人ら、なんかいやな感じやわぁ」
 妻が引っ越し業者とともに作業する夫に耳打ちした。
「気にすんな。どこにでもそんなんおるよ」
 首にかけたタオルで汗を拭きながら夫が妻の肩をぽんと叩いた。

 夕方、引越しも無事終わり、
「さ、お隣さんに挨拶に行こか」
「オッケー。あっ、ちょっとこれ持って」
 妻は挨拶品の入った紙袋を夫に渡した。
「加奈どうすんの?」
「ちょうど今寝たとこやから置いてくわ」
「大丈夫か?」
「だいじょぶ。だいじょぶ。ちょいちょいと行って、早よ帰ってこ」
 二人は慌ただしく玄関を出た。

 加奈は閉めきった暗い部屋ですやすやと眠っていた。
 ベビーベッドはまだ組み立てられておらず、畳の上に布団を敷いて寝かされている。
 かちゃりとドアが開き、赤ん坊が顔をのぞかせた。
 オトモダチイル
 喜びながらハイハイして近づき、顔を覗き込む。
 不穏な空気を感じ取った加奈が今までの赤ちゃん同様ぐずり始めた。
 慌てて赤ん坊が顔の上に尻を乗せた時、廊下からどすどす音を立て足音が近づいてきた。
 もう母親がやって来たのかと思った瞬間、ばんっと勢いよくドアが開いた。
 立っていたのは髪を振り乱した黒い女だった。黄色く濁った目を吊り上げてじっと赤ん坊を睨んでいる。母親というにはあまりに禍々しい女に驚いた赤ん坊はとっさに逃げることができずにいた。
「お前だったんだな。
 太郎を殺したのはお前だったんだなっ」
 地の底から響くような声で怒鳴り、女の髪がぶわりと逆立った。
 コワイ コワイヨォ
 慌てて加奈の顔から降りると赤ん坊はハイハイして逃げた。その後を黒い女が追いかけてくる。
 赤ん坊は泣きながら逃げ続け、女はいつまでもそれを追い続けた。

               *

 加奈が何事もなくすくすく育っていくと、はじめは戸惑っていた住人たちに笑顔が戻ってきた。
 団地は次第に明るくなり、加奈は住人たちから大事にされ大きくなった。
 赤ちゃん連れの入居がどんどん増え、団地の忌まわしい噂は完全に消えた。
 だが、霊感がある人が入居するとすぐ退居してしまうらしい。
 団地内を這う小さな影とそれを追う凄まじい形相の黒い女が見えるからだという。

恐怖日和 第四十話『終末』

2020-04-29 01:54:23 | 恐怖日和


終末

 始まりは数年前の異常に大型の台風からだった。
 その年だけのものかと思っていたが、その後毎年発生、しかも一件だけでなく同じ年に何度も各地を吹き荒らした。
 季節を無視した酷暑に極寒の日々が繰り返され四季がなくなり、未知の病の蔓延、食糧不足などで世界の人々は減り続けた。
 俺はいたって健康とは言えないまでも、薄汚れた寝床に寝転んでいまだに生きながらえていた。
 特に行動したわけではなかったが、もともと雨戸を閉め切って家に籠っていても苦ではなかったので精神が崩壊することもなかった。
 食にもこだわりはなく閉じて久しい近所のコンビニで買い溜めたカップ麺やお菓子類だけで十分しのいでいけたのは、運動不足で腹も減らなかったからだろう。
 電気は止まってしまったが水は今でも水道の蛇口から出てくる。とはいえひどく濁ってはいた。延命は早々とあきらめていたので飲用し続けたが、初めの二日ほど腹を下しただけでその後は何もない。
 もう自分は死んでいるのではないか、もしかしてゾンビにでもなったかなどと空想したが、そういうわけでもなさそうだ。
 時々外で物音がするのでまだ近所には生きている人がいるのだろうが会って話しする気にはならなかった。
 辛うじてまだ発信しているラジオから今夜来る嵐の予報が聞こえてきた。今までにない大型だそうだ。毎回言っているし、事実その通りになっている。
 長い間耐えてくれたこの家もこの前の嵐でだいぶガタが来ていた。もうそろそろ倒壊するかもしれない。
 自分をずっと守ってくれた家とともに死ぬのも悪くないな。
 枕元に散らばったゴミの中からお気に入りの本――何百回と読んで表紙もページもぼろぼろ――を取り出して布団の中に入れる。
 だんだんと強くなってくる風に鳴る家鳴りを聞きながら目を閉じた。
 ベりべりばりばりという音で目覚めたが、目は開けなかった。どうせ開けても真っ暗闇だ。
 どーんがたーんと家の崩れる音が聞こえ、すごい衝撃を感じたが痛いという感覚はない。
 やっぱり俺はもう死んでるんだな。
 そう思ったがガタンという大きな音と共に頭部にすごい衝撃を受けた。
 はは、まだ生きてるじゃん。
 そう思ったがすぐ意識が遠のいていった。

 目の前には闇が広がっていた。閉じた瞼の闇だと気付いて目を開ける。
 真上には夜明け前の濃い水色の空が広がっていた。
 俺まだ生きてるのか?
 身体の真上に梁が落ちていたが、家具が支えとなって崩れた屋根から身を守ってくれていた。
 雨で湿った枕から濡れた頭をもたげた。落ちてきたもので頭を打っていたが少し痛いだけでそれ以外に異常はない。
 身を起こし梁と家具の隙間から外に出た。
 東の空から朝日が差し込んでくる。その眩しさに目を細めた。
「おーい。あんた運がいいな」
 がれきの向こうから手を振る人たちがいる。
 こんな終末に生き残っているのは運がいいのか悪いのか。
 あのまま死ねればよかったのに。まだまだ生きていかなければならないなんて。
 そう思いながらも俺は笑って彼らに手を振り返した。

恐怖日和 第三十九話『寒行』

2020-04-20 13:03:52 | 恐怖日和


寒行

  こんなに吹雪くとは思いもよらなかった。
 ひどい積雪で道脇に停車し動けなくなったタクシー運転手の坂元は舌打ちしながら止みそうもない吹雪の空を窓から見上げた。
 積雪の情報は天気予報でもニュースでも言っておらず、チェーンの準備などしていない。
 山深いとは言ってもちゃんと整備された峠道で、雪がなければ十五分くらいで抜けられるはずだったのに。
 携帯は圏外、チェーンを巻いた他車も来ないし、歩いている地元民もいないので助けを求められない。
 今のところ車のエンジンは順調だがいつ何時トラブルによって止まるとも限らないし、マフラーまで雪が積もってしまっては酸欠死してしまう――それに思い当って、坂元は慌てて外に出た。積雪をへこませる足首の冷たさを我慢してバンパーの下を覗く。まだ雪はマフラーの口まで到達していないものの積み上がった雪を急いで手で退けた。
 凍えた手を息で温めながら運転席に戻る。エアコンは最大にしていたがさっきよりも効きが悪く思うのは気のせいだろうか。
 こんな場所通らなければよかった。
 坂元は大きなため息を吐いたが。
 あれ? 俺なんでここを通ったんだ?
 冷暖の差が眠気を誘うのか、頭がぼんやりして思い出せない。
 なんでだったかな――
 瞼が重く塞がりかけた時、遠く真っ白い景色の中に黒いものが動いているのが見えた。
 はっと目覚めた坂元はハンドルに身を乗り出し、目を凝らした。それで黒いものが十人ほどの托鉢僧の列だったとわかった。網代傘には雪が積もり、白に映えた黒い袈裟が風になびいている。
 近くに寺でもあるのだろうか。行きか帰りかわからないが列はこちらに向かって歩いてくる。
 助かったと坂元はほっとした。
 彼らに救援を頼もう。
 坂元はクラクションを鳴らし、車を出て「おーい」と手を振った。
 だが、吹雪く音が邪魔をして僧たちには届いていないようだ。
 エンジン音に紛れ、唸るようなお経の声と時おり重なるお鈴の音が徐々に聞こえてくる。
「おーい」
 もう一度呼んでみたが、僧たちは坂元にまったく気付かず横道に反れて列が消えた。
「うそだろ」
 坂元は「おーい」ともう一度叫んで、その場から一歩踏み出そうとしたが積雪がそれを阻む。
 運転席に戻って何度か激しくクラクションを鳴らしてみたが、真っ白い雪景色の中に黒い列は戻ってこなかった。
 お経もお鈴も聞こえない。初めから何もなかった――つまり坂元の幻覚、幻聴だった――かのように白い景色と静寂がそこにあるだけだ。
「くそっ」
 もう一度力いっぱいクラクションを鳴らしてみたが、坂元の鼓膜を痛いほど響かせただけでどこへともなく消えていった――

「しまった」
 坂元はハンドルにもたれうつむいたまま、はっと目を覚ました。
 定期的にマフラーの点検をしようと思っていたのにうっかり眠ってしまった。慌てて顔を上げる。
「!」
 托鉢僧たちが車を取り囲み、窓を覗き込んでいた。
 つるんとした顔には口に似た切込みがあるだけで目鼻はない。なのに全員が自分を見ていると感じた。
 爪も皺もない手に持ったお鈴を鳴らし、切込みがぱくぱくと動き始める。
 お経とお鈴の音が車内に反響した。
「うぎゃぁぁっ」

               *

 坂元は自分の叫び声で目が覚め、倒した背もたれから勢いよく身を起こした。慌てて窓を確認したが誰もおらず――どころか、周囲は雪に埋もれた峠道ではなく、花期の過ぎた桜に囲まれる児童公園の脇だった。
 全部夢か。
 運転に疲れ、仮眠するためタクシーを止めたことを思い出し、ネクタイを緩め深呼吸する。
 窓から葉桜を見上げると、まだちらほら残っている淡いピンクの花が夕焼けの空の下で微かな風に揺れていた。
 やけにリアルで薄気味悪い夢だったな。
 雪の峠道なんかニュースでしか見たことないのに――
 額に流れる汗を拭う。
 こんなところでいつまでもぐずぐずしている場合じゃない。さっさと目的地へ行かないと。
 坂元は喧嘩のあげく絞め殺してしまった妻を捨てるため、ある山へと向かっている途中だった。トランクには死体を積んでいる。
 ここで職質なんて受けたらえらいことだ。
 首や肩を軽く回して身体をほぐすとリクライニングをもとに戻し、キーに手を伸ばした。
 りんと耳元で音がして目を上げる。
 托鉢僧たちがタクシーの周囲をぐるぐると回っていた。唸るような読経がすぐ耳元で聞こえる。
 背筋にぞぞっと怖気が走り、思わずクラクションを鳴らした。
 僧たちが足を止めて窓を覗く。つるんとした目も鼻もない顔――ではなく、全員が妻の顔をしていた。

               *

 えっ? タクシー運転手なら怖い体験の一つ二つはあるだろうって? 聞きたいんですか? お客さんも酔狂ですねぇ。実は私もその手の話は好物でして――
 で、自身の体験じゃないんですが、不思議な話をひとつ――あ、怖くはないですけど――いいですか?
 ではでは。
 殺人を犯した同僚がいましてね、タクシーのトランクに死体を積んで逃げてたらしいんですが、某児童公園の脇で死んでいるのが見つかりまして。
 いえいえ、自殺じゃありません。仮眠をとってるようにただ横になってただけみたいなんですが、もうすぐ夏がくるっていうのに車内でカチコチに凍死していたそうです。



恐怖日和 第三十八話『トンネル』

2019-09-26 10:42:00 | 恐怖日和

トンネル

 地元の心霊スポットを知り、休日の午後、愛犬を乗せてその山奥の旧道にあるトンネルに向かった。
 二十数年前にバイパスが出来てから全く使用されておらず、荒れ放題の道だったが、ぎりぎり車の通れる幅員をトンネルの前まで来た。
 そのまま進入しようかどうか迷ったが、地図上では出口から先の道路表示がなく、徒歩で進むことに決めた。
 草いきれの中、車を降りてビデオカメラを手にする。
 愛犬のシェパードも後をついて来た。名前はボギー、頼もしい相棒だ。
 カメラを回しながらトンネルに入る。ひんやりした空気が身体を包み込み、気持ち良さと少しの怖気を感じつつ先を進んだが、腰の高さまで積もった土砂にすぐ阻まれた。
 苔むした壁面を映し、ずっと奥に見える出口もズームアップしたが逆光が眩しくて、その先がどんなふうになっているのかは見えない。
「やっぱ夜に来ないと雰囲気も味わえないな」
 そう独り言ちていると、急にボギーが激しく吠え出し、トンネル内に声が反響する。
「こらっうるさい」
 叱っても鳴き止まず、首輪を引っ張って外に出た。
 狸か猪かまさか熊ではないと思うが、そんなものを追いかけて迷子にでもなったら大変だ。
 俺は吠え続けるボギーを無理やり後部座席に引っ張り上げ、回しっぱなしにしていたカメラをオフにした後、車に乗り込み来た道を引き返した。
 街に出る頃にはボギーも大人しくなり、何事もなかったかのように後ろで長々と寝そべっている。
 途中カフェに寄りアイスコーヒーを頼んでから、ただの無駄撮りだと思いつつもカメラをチェックした。
 自分の足音が聞こえる中、トンネル入り口、苔むした壁面、高く積もる湿った土砂、ズームアップした出口の映像が流れる。
 その白く光る半円の中で黒い人影が手を振っていた。
 なんだろうと確かめる間もなく、ボギーの吠える声、それを叱る自分の声が入り乱れ画面がぶれた。もう一度確認するため巻き戻しをする。
 やはり手を振る人影があった。
 逆光で見えなかっただけで誰かいたのかな?
 そう思いながら、ぶれたままの映像の続きを見ているとその人影がだんだん近づいて来ることに気付いた。
 スイッチを切る瞬間には俺の真横に立っていた。なのにただただ黒いままだった。
 うわぁ、あの時ヤバかったんだ。だからボギーは吠えていたのか。
 よっしゃ、この動画、あとでネットに投稿しよう。
 ほくほくしながらスイッチをオフにする。同時にアイスコーヒーが運ばれて来た。
「すみません。ハムサンドのテイクアウトできますか? パンにハム挟むだけでいいんだけど」
「え?」
「犬に食わせたいんで」
 俺は窓から見える駐車場の自分の車を指さした。
 ボギーが窓から物欲しげな顔でじっとこっちを見ている。
「かしこまりました。かわいいワンちゃんですね」
 店員はくすくす笑って端末に注文を打ち込む。
 君もかわいいよ。
 俺もそう言いたかったが、いつものように照れて言葉にできない。
 ボギーの激しく吠える声が聞こえた。
 あーわかった、わかった。浮気はしないよ。
 心の中で苦笑いする。
「あ、お客様、あの方お友達じゃないですか?
 先ほどからずっと手を振ってらっしゃいますけど」
 店員が指し示す俺の車の横には黒い人影がいた。
 グラスに浮かぶ水滴がすうっと流れ落ちた。


恐怖日和 第三十七話『赤いボール・後編』

2019-09-16 10:36:29 | 恐怖日和

赤いボール・後編


              *

「あら、いらっしゃい」
 再び多永子の不在中に曜子が来宅し、花恵はまた離婚の勧めだろうと思ったが、きょうは少し様子がおかしかった。
「どうしたの? 大丈夫? なんだかやつれたように見えるんだけど?」
「お義姉さん――わたし怖い」
「いったいどうしたっていうの?」
 寒くもないのに震えている曜子をソファに座らせると花恵は温かいミルクを目の前に置いた。
「捨てても捨てても家の中にあるの」
 一口飲んだ後で話し始めたが、花恵には何のことなのかさっぱりわからない。
 マタニティーブルーかしら?
 そう思いながら隣に腰かけて曜子の背中を優しく擦った。
「お義姉さんっ――」
 瞬きもせず顔を見つめる曜子の目から大粒の涙が零れ落ちた。
「どうしたの? 赤ちゃんのことなら心配いらないわよ。お義母さんもわたしもついてるんだから。
 それとも浩一さんに何かあったの?」
 その問いに、目を見開いたまま首を横に振る。
「じゃ、何か言われたの? 
 浩一さんはまだ情緒不安定なのよ。だから気にしなくていいわ」
 それにも首を振りながら、花恵の手を強く握る。
「赤いボールが家の中にあるの」
「赤い、ボール?」
 ふと記憶の端に引っかかりを感じたが、それが何なのかまだわからない。
「初めは外にあったの。門の前をころころ転がってきて――でも誰もいなくて、近所の子の忘れ物が風で転がってきたのかなって、門の端っこに置いておいたの」
 それで花恵はこの前見た――ような気がした――赤いボールを思い出した。
「だけど、それが門の中にあったの。
 まだ浩一さんは仕事から帰ってなかったから、前を通りがかった人がうちのだと思って中に入れたのかなって思ったの。ほら、由姫ちゃんがいたから――もう亡くなってるの知らないで――」
 花恵の手をつかんで離さない曜子がまたぶるぶる震えだす。
「由姫ちゃんのじゃないの? どこかに忘れていたのを誰かが持ってきてくれたとか?」
 曜子が首を強く横に振る。
「全部捨てたから。わたし全部捨てたから――」
「わ、わかったわ。それでその赤いボールをどうしたの?」
「うちのじゃないからまた外に戻したわ。
 だけど数日経ってから、今度は玄関先に置いてあるのに気付いたの。わたし腹が立って外に投げ捨ててやった――
 でもねお義姉さん――またあったの。今度は家の中――廊下の片隅に――わたし怖くなって、外のゴミバケツに放り込んで翌日のゴミの日に出したの。でもまた家の中に――今度はリビングの隅に――確かに、確かにゴミに出したのよ。袋の中の赤いボールをこの目で見たんだから」
「わ、わかったわ。家の中のはやっぱり由姫ちゃんのボールよ。浩一さんが形見にしてて、時々出しては由姫ちゃんを偲んでるってわけ。それを片づけ忘れただけよ。
 あなたに捨てられて慌ててゴミ袋から回収したんじゃない?
 で、外のボールは別のもの。ただの偶然。
 それをあなたが気味悪がってるだけ。
 にしても浩一さんも罪な人ね。曜子ちゃんの目に触れないよう注意してくれればいいのに。ただでさえ妊娠中は情緒不安定なんだから」
 曜子は再び大きく首を振った。
「違うっ――浩一さんは何も知らない。だってわたしもそう思って訊いたもの。あの赤いボール何なの? って。
 そしたら浩一さんは赤いボールなんてないって言うの。彼には見えてないのよ。
 わたしそれからも何度も何度も捨てたのっ。遠くのよそのゴミ置き場まで捨てに行ったのに必ず戻ってきて家の中に転がってるのよっ。
 お義姉さんっ、わたし怖いっ」
 ほぼ悲鳴のような叫びを上げ、曜子が花恵に抱きつく。
「大丈夫よ、大丈夫。
 きっと曜子ちゃん、マタニティーブルーよ。なんでもないことをそんなふうに妄想しちゃってるだけ。大丈夫。わたしがついてるから」
 背中をゆっくり擦り曜子を落ち着かせながら、もしそれが本当の話なら、これはきっと浩一の仕業に違いないと花恵は思った。
 娘を失くした浩一の心はまだ癒えてないのだ。どういうつもりなのかわからないが、娘に罪悪感を覚え、曜子とそして自分にも苦痛を与えようとしているのではないか、そう思えた。
 花恵の胸で泣く曜子の嗚咽が止まった。
「お義姉さん――妄想なんかじゃないの――わたし、由姫ちゃんを殺した――浩一さんが目を離した隙に、池に突き落とした――」
「え――」
「あの日――浩一さんとあの子が公園に散歩に行った日、内緒で後をつけたの。本当にわたしと結婚する気があるのか確かめたかったから。
 二人はとても仲良くて――親子だから当たり前なんだけど、わたしの入る余地なんてないって思った――だから由姫ちゃんさえいなければって。
 でないとこの子が不憫だもの」
 そう言って自分の腹を抱え大声で泣いた。
「曜子ちゃん。だめよ、もう言わないで。あれは事故なの。それでいいのよ」
「違う。わたしよ。わたしが殺したの。突き落とした瞬間にあの子わたしを見たの。だから復讐しに戻って来たのよ。あれはあの子のボールだわ。だってわたしがプレゼントしたものだものっ」
 泣き喚く曜子を花恵はただ見ているだけしかなかった。

 曜子は落ち着きを取り戻すと、送っていくという花恵を断り一人で帰った。
 この先の身の振りをよく考えると言う曜子に、あれは事故だと何度も言い聞かせた。
 浩一や多永子のことを考えてとは言ったものの、曜子の告白が妄想でなく真実ならこのまま許されることでないのはわかっていた。
 だからその後、天罰が下されたのだ。
 曜子が救急車で運ばれたと連絡を受け、多永子や圭司と病院に駆け付けた時は、母子ともに死亡が確認された後だった。
 仕事から帰宅した浩一が、二階から転げ落ち階段下で倒れていた曜子を発見したという。
 娘の亡骸にすがる多永子の絶叫を聞きながら花恵は病室を出た。
 廊下の暗がりで赤いボールが行ったり来たりを繰り返している。まるで小さな子供が両手を使って楽しそうに遊んでいるかのようだ。
 ボールが急に廊下を走り出し、花恵は後をつけた。
 行きついたのは暗い待合室で、浩一がひとり項垂れ泣いている。
 あっ――
 花恵は目を大きく見開いた。
 浩一の傍らに幼女が佇んでいる。
 会ったことはないが、きっとあの子が由姫ちゃんなのだろう。
 父親の顔を覗き込んでいた幼女が花恵を振り返った。

              *

「あらあら花恵さんったら気を付けて、もうあなた一人の身体じゃないんだから。洗濯物はわたしが干してくるわ」
「お義母さんったら大げさですよ。これくらいは運動のうちなんですから大丈夫です」
 洗濯カゴを持った花恵は慌ててそばに来る多永子に笑った。
「だめよ、両手がふさがったまま二階に上がっちゃ。どんなことが原因で落ちるか転ぶかわからないんですからね。
 あなたはそこでゆっくりお茶でも飲んでなさい」
 そう言ってカゴを花恵から受け取ると二階の干場へと向かう。
「じゃ、お言葉に甘えます」
 そう言いながらソファに深く腰掛け、多永子が入れてくれた妊婦用のハーブティーを飲む。
 あれからすべてが好転し、花恵は今とても幸せだった。
 曜子が亡くなってから多永子は美土里にマンションを買い与え、無事赤ん坊を出産させるため何不自由ない暮らしをさせた。
 だが、美土里は部屋で何かにつまずき激しく転んで結局流産してしまった。
 多永子の失望と憤りはいかほどのものだったのか。
 もともと品性も教養もなかった美土里を多永子は好ましく思っていなかった。マンションを手切れ金代わりにすぐ息子と別れさせ、弁護士を立てて不平不満を吐く美土里を黙らせた。
 圭司も毒気を抜かれ、何事もなかったように花恵のもとに戻って来た。
 その後、夫婦生活は順調で花恵は待望の妊娠をする。
「ありがとうございます、お義母さん」
 二階から下りてきた多永子に頭を下げる。
「いいの、いいの。お安い御用よ。花恵さんには元気な赤ちゃんを産んでもらわなきゃいけないもの」
 洗濯カゴを傍らに置いた多永子が隣に腰かけて、大きくなった花恵のお腹を擦る。
「大丈夫。立派に産んでみせます。
 だって、この子とってもいい子なんですから」
「まあ花恵さんったら、生まれる前から親バカね。
 さあさあ、お茶のお代わり入れましょう。おいしいお菓子もあるのよ」
 キッチンへ向かう多永子に微笑みながら、花恵はお腹に手を当ててささやいた。
「それに約束したもの。願いを叶えてくれたら、わたしがもう一度この世に産んであげるって」