
横になっていたものを、ずっと
縦に起こすようにして、あのひと
は言った。
「また会えますよね、俺たち、きっ
とどこかで」
俺たち?
「はい」
なぜか、確信を持って、わたしは
答えを返した。
「井上・・・・といいます」
ファーストネームは、聞き取れ
なかった。なぜならその時ちょう
ど、店内放送が流れ始めていた
から。
「井上さん」
わたしは壊れ物を扱うようにし
て、あのひとの名を呼んだ。
あなたは、誰?
どこから来たの?
わたしは大学を卒業したばかりで、
就職先も決まっていて、あさって、
京都から東京に引越してしまいま
す。きょうは最後のアルバイトの
日で、わたしの誕生日。
あなたは?
この街に住んでいるの?
どこで、どんな仕事をしているの?
訊きたいことも、伝えたいことも、
あり過ぎるほどあるのに、何
ひとつ、言えない。
手のひらにまだくっきり残って
いる、あのひとの大きな手の
ひらの、温かな感触。躰中に、
さざ波のように広がっている、
優しい余韻。鍵のように、し
っかりとそれを握りしめて、
でもどの部屋の扉をあけたら
いいのか、皆目わからない。
「失礼します。もう行かなく
ては。ありがとうございました」
それだけを言うと、踵(きびす)を
返して、わたしは五番カウンター
へ向かった。連絡先を伝え合う
こともなく、別れた。
風と木の葉のように。
異国の街角ですれ違った、旅人
同士のように。
それがわたしたちの、最初の出会いと、
最初の別れだった。
縦に起こすようにして、あのひと
は言った。
「また会えますよね、俺たち、きっ
とどこかで」
俺たち?
「はい」
なぜか、確信を持って、わたしは
答えを返した。
「井上・・・・といいます」
ファーストネームは、聞き取れ
なかった。なぜならその時ちょう
ど、店内放送が流れ始めていた
から。
「井上さん」
わたしは壊れ物を扱うようにし
て、あのひとの名を呼んだ。
あなたは、誰?
どこから来たの?
わたしは大学を卒業したばかりで、
就職先も決まっていて、あさって、
京都から東京に引越してしまいま
す。きょうは最後のアルバイトの
日で、わたしの誕生日。
あなたは?
この街に住んでいるの?
どこで、どんな仕事をしているの?
訊きたいことも、伝えたいことも、
あり過ぎるほどあるのに、何
ひとつ、言えない。
手のひらにまだくっきり残って
いる、あのひとの大きな手の
ひらの、温かな感触。躰中に、
さざ波のように広がっている、
優しい余韻。鍵のように、し
っかりとそれを握りしめて、
でもどの部屋の扉をあけたら
いいのか、皆目わからない。
「失礼します。もう行かなく
ては。ありがとうございました」
それだけを言うと、踵(きびす)を
返して、わたしは五番カウンター
へ向かった。連絡先を伝え合う
こともなく、別れた。
風と木の葉のように。
異国の街角ですれ違った、旅人
同士のように。
それがわたしたちの、最初の出会いと、
最初の別れだった。