加藤氏の本姓は片岡氏。近江国他、様々な片岡氏。 2019-08-07 | 片岡氏 加藤可重 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/28 18:05 UTC 版) 加藤 可重(かとう よししげ、? - 慶長9年(1604年)8月28日)は、戦国武将・熊本藩主加藤清正の重臣。近江出身。本姓は片岡。通称は初め清左衛門、のち右馬丞。父は片岡庄右衛門国秀。 この近江片岡氏のルーツは、三河足助氏の一族で暦応年間(1338年 - 1341年)に足助範秀が足利将軍より近江国栗太郡片岡村(現滋賀県草津市片岡町)の地を拝領したことを機に、姓を片岡と改めたという。この範秀の8代孫が可重の父国秀とされるが、詳細は不明である。 ===*=== 近江国の片岡村 片岡郷☆ 栗太 永徳2.8.10 1382 〔大般若経識語〕于時永徳弐年〈壬戌〉八月十日近江栗太片岡郷/於相沢薬師寺書写畢。 大般若経調査報告2p.390 葛川明王院蔵 伊香郡 郷(里) 柏原、安曇、遂佐、楊野、余領、片岡、伊香、大社 ===*=== 北伊勢 片岡家 桑名郡上深谷城主。片岡掃部郎が当主。 ===*=== 片岡氏。近江国は、中臣氏の後、清和源氏足助氏流、秀郷流蒲生氏支族の三流。 常陸国は佐竹氏流。 北陸中国は桓武平氏葛西氏支族。 備前国は平氏姓。 土佐国は醍期源氏 を名乗る。 尾張国は斯波氏流。 南朝の臣,片岡八郎は藤原氏の末。肥後国も藤原氏 ... ===*==== 岡部家は贺茂氏の後裔て、京都上賀茂神社末社の祝片岡師重を 始祖とする。先祖には『後拾遺和欤粜」以下の勅撰集の作者賀茂成助をはじめ、勅撰集 に和歌を残した人物が幾人もあり、師重の女、筑前局は後深草院のころ宮中に奉仕し ... 岡部郷に移った片岡氏は岡部氏を称し、この家筋の末流に真淵が生れた。 岡部郷の地頭職は、文永十一年(一二七四)六月以前に京都賀茂神社の片岡社の社領であり、祝(はふり)片岡師重の女筑前局が知行していた。 筑前局は、後堀河天皇に仕えていて(賀茂社の神主の女は、江戸時代でも宮廷に仕えていた人がある)これの代官職を知行していたのだろう。 https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100010/ht006480 ↑ 賀茂真淵が登場する。 いろいろな時代の様々な片岡氏である。
片岡氏を調べていると、野長瀬氏につながった。 2019-08-07 | 片岡氏 経俊卿記 平資氏〈同功〉丹治清時〈同功〉掃部允平経久〈金銅大仏功〉藤実家〈同功 〉平行時・・・ 正嘉1年9月22日 1257年二月二八日に没している経久…関係があるだろうか? ===*=== その経久の孫か曾孫にあたる「片岡八郎利一」 http://www.town.oji.nara.jp/kankobunkasuports/rekishi_shiryoshitsu/densetsu/761.html この逃げた場所が「大塔宮宇井」で、野長瀬氏が初めにいた場所が「大塔宮辻」(奈良県五條市)である。 上記の文章の最後の方に「野長瀬氏」の名前も出てくる。 その野長瀬氏に仕えていた者の中に「九乗氏」がいたのかもしれない。 とすると、片岡氏と共に行動していた可能性も大である。
片岡氏と伊香郡、片岡氏と佐々木氏、片岡氏と楠氏 2019-08-06 | 片岡氏 片岡経久という名を見つけ、その片岡氏が海上氏であり、千葉氏の常胤の父常重の弟の系であることがわかった。 さらに調べてみると、自分の記事で恐縮だが、伊香郡にも居たではないか! https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/c/429e050ef55f4e5a7d49ab2224a39263 佐々木哲氏のメルマガの中に【近江国伊香郡の片岡氏】の記述があったのが、上記の記事であるが、他にも 佐々木盛綱の息盛季からの系と片岡氏の系図とが繋がっていた。 さらに昨日の片岡氏の系図 柏原進三郎(片岡)昌高の部分に、母は楠氏とあった。 片岡…柏原…楠のライン ~~~*~~~ こんな偶然、と今までに何度も言って空振りであったが、やはり偶然に伊香郡・佐々木氏・楠氏・紀伊国と九里氏と関係が深そうなものが集まり、更に千葉氏の海上氏の中にも片岡が見え、その後海上氏が衰退し、その所領は千葉東氏のものとなった…とあれば、その東氏の中に「片岡氏」が紛れ込んでいたかもしれない可能性も感じるのだ。 いや、でも、今まで右往左往してきているので、慎重に。 しかも前々回の記事で書いた『平・太良(平子郷)氏の経久』もいる。 ついでではあるが、佐々木氏の中の『立花氏』の系図も近い。