九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

承久の乱 宮方 朝日判官代頼清・関左衛門尉・土岐次郎判官代光行・開田太郎重国・富来次郎判官代

2019-10-14 | 清和源氏



朝日判官代頼清・関左衛門尉・土岐次郎判官代光行・開田太郎重国・富来次郎判官代のグループの中に入っている、富来氏。
一人ずつ見ていくと、

この中の「朝日判官代」とは?

中世の武家。(1)尾張国知多郡大野荘を本領とする清和源氏大野氏の一族。八条院判官代頼清が〈朝日判官代〉と称したのにはじまる。頼清とその子頼重は,承久の乱で京方として木曾川の渡しを防衛していたが討たれ,尾張国の本領数ヵ所を没収された。しかし頼重の弟頼時の系統が御家人としての地位を維持したとみえ,1303年(嘉元1)には頼時の孫親頼が同国安食(あじき)荘の相論に関して六波羅探題より現地調査を命ぜられている。

関左衛門尉とは、政綱のこと。

土岐次郎判官代光行とは、光定の父。鎌倉時代前期の武将・御家人。土岐氏2代当主。

開田太郎重国とは、木田三郎重長の子重国かとも云われている。

富来次郎判官代は、抜かされている本が多い
吾妻鑑にもこの承久の乱では書かれていなかった。
なぜだろう…土岐判官代と富来判官代とが書かれており、同一人物とみたのかもしれない。
可哀想すぎる…


武家名目抄: 職名部上, 第 1 巻










能登の方は、
富来院の地頭職も、富来を名字とする三善氏の一族に相伝されたことは、前掲の正和三年五月の富来.豊田両御厨領主藤原氏女雑掌 ...

これは、蓮忍のはじめの妻が三善氏であり、その息か甥だと思う。

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現代に蘇る藤原定家の源氏物語写本 若紫

2019-10-09 | 清和源氏


素敵なニュースですね。↓

【藤原定家が校訂、源氏物語「若紫」の写本を発見】

https://www.yomiuri.co.jp/culture/20191008-OYT1T50313/

https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/29641

https://www.asahi.com/articles/ASMB74GM0MB7PLZB00B.html

https://www.sankei.com/life/news/191008/lif1910080036-n1.html

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50743070Y9A001C1CR8000/

この文字で「わかむらさき」と…私には読めないです。でも高貴な雰囲気の漂っている本です!

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紀氏・中原(大中臣)氏・板垣氏・乾氏・池田氏

2019-09-19 | 清和源氏

知り合いの方から、紀氏と土佐国の関係について教えていただいたことから、広がったことを書こうと思う。

「紀貫之が土佐日記で赴任した現在の高知県南国市比江は、その後長宗我部氏が治めておりますが、更にその後、山内一豊家老の乾氏の治める所となっております。」

さらに前だが、「香宗我部氏」の系に中原秋家がいる。比江にほど近いところに土佐山田城がある。



(紀氏→)
→香宗我部 …中原(大中臣)秋家→戦国時代以降長曾我部となる→乾氏が治める

wikipediaより↓
1193年、一条忠頼家臣の中原姓中原秋家が土佐国香美郡宗我・深淵郷の地頭職となり、主君・忠頼の暗殺後にその子・秋通を養子としたのに始まる。秋通が香宗我部氏を称して初代となった[6]。なお養父の秋家は土佐山田城に移り山田氏の祖となっている
(頼朝に暗殺された一条忠頼)


此の忠頼の弟に「板垣兼信」がいる。
遡ると源義光となるので、義光の娘の嫁ぎ先である近江国の佐々木季定(佐々木秀義の父)とつながる。季定の弟が「紀氏」の母を持つ「木村氏」となる。(沙々貴神社の宮司家)

そして、板垣と言えば、乾正信 我が九里家と同じ榧之内十文字の家紋である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE%E6%AD%A3%E4%BF%A1

どこかで、中原氏と乾氏が繋がっている…と思う。








~~~*~~~

九里氏が滅亡と言われた後に、水茎岡山城には乾氏が入り、浅小井荘には池田氏は入っているので、ただ偶然に宛がわれただけなのか、生き残っている中では一番近い関係の者であったのか。

乾氏は山内氏・永原氏・深尾氏とつながっている。


さらに
池田景雄・秀氏の出てくる前時代が九里氏と重なっているので、そこも調べてみようと思う。






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二人の光俊…土岐国房の息(源光俊)と土岐光行の息(饗庭光俊)

2019-09-16 | 清和源氏

土岐関係に「光俊」が二人いる。

土岐国房の二男 光俊
土岐光定の兄 饗庭二郎光俊 (土岐光行の二男)


関係があるかどうかは?であるが、↓

【如漢 三才 阖會】 に 赛月能 囀 如 肯 比 志 利 古木 利と も あり 山から にも 似た る こと あり 光俊が 歌
「山からのまはすくるみのとにかくに もてあつかふは 心なりけり」

【新撰 六帖】 に 源 光俊
何として いかに やけばか いづみなる 横 山ず みの 白くなるらん
今は此 處河內 なる にや 光ノ瀧より 出づ


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姓氏家系大辞典【岡田】佐竹氏の中の岡田氏 他

2019-08-20 | 清和源氏

「姓氏家系大辞典(太田亮著)」

 和名抄山城国紀伊郡に岡田郷、乎加多と註す。また下総国に岡田郡あり、延喜四年豊田郡と改む、また豊田郡内に岡田郷あり。また常陸国那珂郡に岡田郷、久慈郡にも同名郷あり。また紀伊国牟婁郡に岡田郷、伊予国伊予郡に崗田郷、これも乎加多と註す。その他信濃、遠江、丹後等に岡田庄、また村名としては諸国頗る多し。


9.清和源氏義光流 信濃国筑摩郡岡田邑より起る。尊卑分脈に、
   義光― 昌義(佐竹)-親義(岡田冠者)-重義
    |― 義清(武田冠者)
    |― 親義(岡田冠者)-重義(同太郎)
と載せて重義の父子重出す。(以下略)


10.清和源氏佐竹氏流 前述岡田親義の外、佐竹系図に「昌義-隆義(佐竹四郎)-秀義(別当)-義重-義隆(岡田四郎)」と、(以下略)
 新編国志には「岡田、久慈郡岡田郷より起る。義光五子親義、五郎岡田冠者と称す。久慈郡岡田郷に居り、後信濃に徒る。(以下略)」と云うと。


25.清和源氏足利氏流 鈴鹿郡に岡田堡あり、三国地誌に「俗に岡田殿城屋敷と云う」と見ゆ。伊勢岡田氏は一志郡岡田より起りしにて、足利氏の族と云う。家紋、丸に八本矢車。

上記の「鈴鹿」というのも非常に気になる。
なぜならば、近江では戦国時代に橘姓の山中氏と親しかったようである。
その山中氏も鈴鹿と縁があるのである。


http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/31-40/okada.html
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源朝臣済政(中原)。紀氏系の済政が、なぜ中原となっているのかを知りたい!

2019-05-21 | 清和源氏

源朝臣済政(中原)信濃守 という、情報を見つけた。

紀氏のルーツ
松本市 旧:東筑摩郡

①国府
    ・870 滋野朝臣善根 信濃守 従5位下

    ・871 紀朝臣有常 信濃権守 従5位上

    ・907-1-13 源朝臣清蔭(親王)信濃権守 母:紀氏の娘    

    ・913 紀朝臣淑望 信濃権介

    ・944 紀朝臣文幹 信濃守 従5位上

    ・1002-1 源朝臣済政(中原)信濃守 ←ココである。
     
 

wikipedia「源済政」妻は源頼光の娘 である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B8%88%E6%94%BF

何故(中原)となっているのだろう。

三条天皇 1011-1016年 67代目

         
               ┌敦貞親王(三条天皇の養子)     
         小一条院  │ ‖
  三条天皇  ┌敦明親王──│藤原済政の娘  
   ‖────│       │       
   ‖    │      └源基平─7代目行済 法眼
  藤原媙子皇后├敦儀親王        仁和寺                       
        │     
        ├敦平親王 
        │                  
        ├師明親王(性信)  
        │
      ├当子内親王 伊勢斎宮
        │
        └禔子内親王 
          ‖───藤原信家  
         藤原教通            
                   

1011年 源朝臣済政 従5位下 美濃守
1016年 源朝臣済政 大膳亮
1017-8-2 源朝臣済政 讃岐守

・1018 源朝臣済政の娘
     ‖―――藤原朝臣経家 
     ‖        
    藤原朝臣定頼       

  ※藤原朝臣定頼:藤原北家 小野宮流
     ・正2位 権中納言
     ・歌人
     ・妻:源朝臣済政の娘
     ・男子:藤原朝臣経家
     ・父:藤原朝臣公任 正2位 大納言

  ※藤原朝臣経家:
     ・1018 正2位 中納言
     ・和歌・琵琶に堪能
     ・1068-5-5-25 51歳逝去(1018-1068)
     ・父:藤原朝臣定頼
     ・母:源朝臣済政の娘

  ※源朝臣済政:宇多源氏 従3位 大納言
     ・父:源朝臣時中(父:源雅信)
     ・母:藤原朝臣安親の娘
     ・娘:藤原朝臣信家の室
     ・娘:藤原朝臣定頼の室
     ・1041 66才逝去(975-1041)

1018-1-1 源朝臣済政 修理権太夫は一条内裏にて
      御元服の天皇に能冠す
1019-1-23 源朝臣済政 讃岐守 任国に下向す
1021 源朝臣済政 右衛門少尉
1022 源朝臣済政 従5位下 式部少丞
1025-9-7 源朝臣済政 近江守 
      ・後、入道前の太政大臣藤原道長が勘当す

1025-10-2 源朝臣済政 近江守を勘当される
       ・是日 源朝臣済政之を陳謝する
1026-2-29 源朝臣済政
       ・私物を以って近江勢多橋を作るの功に依りて
       同国守に重任官符
1027-12-4 源朝臣済政 蔵人
1028-6-24 源朝臣済政 近江守 
       ・済政の郎党王為行と肥後守高階成章の郎党は
        藤原朝臣時遠との闘争
1029-8-2 源朝臣済政 鴨川堤の修築を申請す
1031  敦貞親王
       ‖――――済子女王
     源朝臣済政の娘    ‖――――藤原宗家
               敦貞親王

1031-1-19  敦貞親王(母:藤原顕光の娘)小一條院 三条帝養子
        ‖――――藤原宗家 播磨守
       源済政の娘          
       修理大夫    

            白河天皇
・1032 源朝臣済政の娘   ‖
     ‖――――藤原道子 女御
    藤原朝臣能長

1036-11-16 源朝臣済政 前丹波守に昇殿を聴し

・1037 源朝臣済政の娘 
       ‖――――隆禅 僧
    藤原朝臣正兼の室

1041-12-30 源朝臣済政 近江守 従4位下 光孝源氏
・66歳 逝去(975-1041)
       ・贈る従3位 

     1019-1082
・1054頃 藤原俊家 持明院家 
      ‖─────済観 園城寺 内供奉
     源済政の娘  

   ※藤原朝臣俊家:中御門流→持明院家
      ・1031-10-17 従5位上 侍従
      ・1080-8-14 正2位 右大臣
      ・1082-12-23 63歳逝去(1019-1082)
      ・父:藤原朝臣能長
      ・妻:源朝臣済政の娘
      ・男子:済観 園城寺 僧都 
       
~~*~~

・1019-2-19 紀朝臣義孝、紀伊国造
・1019-1035 国造社務16年辞退
       ・移住 美濃国 仍号:美濃国造

1301頃 土岐国済(頼明)兵庫介 従5位

~~*~~

素人の私には、以上からは「中原」とのつながりが見えなかった。           
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近江八幡 津田庄

2018-01-31 | 清和源氏
随分と前に書いた記事だが、出し忘れていたので出しておこうと思う。

清和天皇の十男にあたるのだろうか。【貞頼親王】が近江八幡と関係があったのでご紹介したい。
貞頼親王(母木工允藤原直宗女。貞観18(876)年生。
延喜22年2月8日(ユリウス暦:922年3月9日)薨)


近江
【郡名】
蒲生
【荘園名】
津田庄
【フリガナ】
ツダ
【参考市町村】
近江八幡市
【明治村字名】
南津田・北津田
【領家・本家】
皇室領・延暦寺領(西塔領)・山門領
【初見年和暦】
延喜十二年
【初見年西暦】
0912
【出典】
長命寺文書・大島奥津島神社文書・叡岳要記・織田系図・山門堂舎記
【遺文番号】
ヘ1103・ヘ5047・カ14469・カ14637・カ17233・カ21614
【記録類】
『叡岳要記』延喜12,6,5
【関係文献】

【地名辞典】
 角川地名=延暦12清和皇子貞頼親王、山門西塔院四王像燈分料として施入=のち北庄、中庄、南庄に分立=現近江八幡市北津田町、中之庄町、南津田町付近
【備考】
 津田氏、中庄氏などの土豪が存在(『大島奥津島神社文書』)・隣接する奥島庄村民と大島、奥津島両社の宮座を形成

そして、【八王子神社】
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=290





紀氏との関係もありそうであるが、陽成天皇かもしれず…陽成天皇は宮人:紀君(紀氏) 源清蔭(884-950) - 大納言 となっている。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_ki2.html


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