今日も、朝8時から夜8時まで働いて、チャリンコ漕いで帰って参りました。
いつもの通りおサケと肴を買って部屋に入るなり、パソコンのスイッチをプチン!
次にフランクフルト・ソーセージとハムカツを45秒間電子レンジで温め、電子ポットに入っている「湯冷まし」ミネラルウォーターを、再度温める。
そしてプロ野球ドラフト会議の結果と解説、インタビュー画像などを見ながら、お湯割り焼酎で、ソーセージとハムカツ、ポテトサラダを味わう。
いやあ、極楽、極楽。
ずいぶん安上がりな極楽だけれど、なんでも食べられなんでもおいしい私には、これでけっこう極楽なのです。
さて、今日もいろいろありましたが、その中に、ご入居者の「異食」という事故も発生しました。
90歳近い女性ですが、多目的ホールで十名ほどの皆さんと午後のひとときを過ごされておられました。
と、手の届くところにあった朝刊の第一面を、タテ2センチヨコ5センチほどの面積で電光石化にちぎり、お口にいれてしまったのです。
気付いたスタッフが口内を指でまさぐり、可能な限り吐き出して頂きました。
でも、もしかすると、ほんのわずかの紙とインクが胃に入ってしまったかもしれません。
これは、まごうかたなく「事故」ですから、事故報告書を書き起こし、私はご家族に報告と謝罪をしました。
ところで、こういう事故を「異食」と言います。一般的に食べないものを口に含んだり飲み込んだりすることを、私たちの業界ではこう呼んでいるのです。
異食について検索したら、こんなことが書いてありました。
…老化によって目が見えにくく、耳が聞こえにくくなってしまった高齢者が、視野に入る物を口に含んで確かめることで、自分と世界とのつながりを確認する行為。
異食をされる方は、しばしば自分の便を口中に入れるものです。
自分の排泄物を食べる。
このイメージはまことに強烈で、これぞ人格崩壊、人として行き着くところまで行き果てた証左…と捉えられていました。
しかし視覚嗅覚味覚の衰えた高齢者にとって、「大便」だろうが「新聞」だろうが「石焼イモ」だろうが、全く等価なのです。
だから、「何を食べるか」ではなく「なぜ口に入れるか」をこそ考えるべきではないか?
そういった捉え方は、確かに重要な視点だと思います。
またいっぽう、異食を、
「口に含んで確かめることで自分と世界とのつながりを確認する行為」
と評価するのも、あまりにロマンチシズムに彩られすぎ…という印象を受けます。
率直にいって、60年代に流行った実存主義心理学の末裔たちが「認知症高齢者」の増大を好機とばかり、「もうひと旗あげよう!」とムリスジを唱えている気配も感じるのですな…。
社民党的な立振る舞い、と言えばいいでしょうか。
なんだか酔っ払って、すっかり「うざい」コリクツオジサンになってしまいました。
今日の結論。
異食の方には、こういう気持ちで接するといいのではないでしょうか。
「何でも食べるのは、とても健康にいいですね。でもそれは食べるとおなかを壊すからよしましょうね!」
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いつもの通りおサケと肴を買って部屋に入るなり、パソコンのスイッチをプチン!
次にフランクフルト・ソーセージとハムカツを45秒間電子レンジで温め、電子ポットに入っている「湯冷まし」ミネラルウォーターを、再度温める。
そしてプロ野球ドラフト会議の結果と解説、インタビュー画像などを見ながら、お湯割り焼酎で、ソーセージとハムカツ、ポテトサラダを味わう。
いやあ、極楽、極楽。
ずいぶん安上がりな極楽だけれど、なんでも食べられなんでもおいしい私には、これでけっこう極楽なのです。
さて、今日もいろいろありましたが、その中に、ご入居者の「異食」という事故も発生しました。
90歳近い女性ですが、多目的ホールで十名ほどの皆さんと午後のひとときを過ごされておられました。
と、手の届くところにあった朝刊の第一面を、タテ2センチヨコ5センチほどの面積で電光石化にちぎり、お口にいれてしまったのです。
気付いたスタッフが口内を指でまさぐり、可能な限り吐き出して頂きました。
でも、もしかすると、ほんのわずかの紙とインクが胃に入ってしまったかもしれません。
これは、まごうかたなく「事故」ですから、事故報告書を書き起こし、私はご家族に報告と謝罪をしました。
ところで、こういう事故を「異食」と言います。一般的に食べないものを口に含んだり飲み込んだりすることを、私たちの業界ではこう呼んでいるのです。
異食について検索したら、こんなことが書いてありました。
…老化によって目が見えにくく、耳が聞こえにくくなってしまった高齢者が、視野に入る物を口に含んで確かめることで、自分と世界とのつながりを確認する行為。
異食をされる方は、しばしば自分の便を口中に入れるものです。
自分の排泄物を食べる。
このイメージはまことに強烈で、これぞ人格崩壊、人として行き着くところまで行き果てた証左…と捉えられていました。
しかし視覚嗅覚味覚の衰えた高齢者にとって、「大便」だろうが「新聞」だろうが「石焼イモ」だろうが、全く等価なのです。
だから、「何を食べるか」ではなく「なぜ口に入れるか」をこそ考えるべきではないか?
そういった捉え方は、確かに重要な視点だと思います。
またいっぽう、異食を、
「口に含んで確かめることで自分と世界とのつながりを確認する行為」
と評価するのも、あまりにロマンチシズムに彩られすぎ…という印象を受けます。
率直にいって、60年代に流行った実存主義心理学の末裔たちが「認知症高齢者」の増大を好機とばかり、「もうひと旗あげよう!」とムリスジを唱えている気配も感じるのですな…。
社民党的な立振る舞い、と言えばいいでしょうか。
なんだか酔っ払って、すっかり「うざい」コリクツオジサンになってしまいました。
今日の結論。
異食の方には、こういう気持ちで接するといいのではないでしょうか。
「何でも食べるのは、とても健康にいいですね。でもそれは食べるとおなかを壊すからよしましょうね!」
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