食いしん坊ケアマネ の おたすけ長屋!

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夢を叫べ!…我が佳き友よ

2009-08-02 | 友人・仲間
たっちゃんもコータも、何も変わってなかった。
もちろん三十四年間の歳月が、二人に社会人として、父親としての貫禄をまとわせている。
でも、喋り始めれば、心は三十四年前のままだ。
昭和五十年三月に中学を卒業したときのまま…。



七月からブログを始めて何日かたって、私は友人たちに「ブログを始めましたよ」というメールを送った。
もちろん、たっちゃんとコータにも連絡をした。
するとたっちゃんから、
「久しぶりに、飲まないか?」という返信があった。
私は「いいよ」と返事をしてから、
「そうだ、コータも誘おう!」と考えたのだ。
私は中学卒業後、たっちゃんとコータには、個別には何回かあっている。
でも、三人であうのは、正真正銘、三十四年ぶりだった。



たっちゃんもコータも二児の父親である。いや、年賀状でもらった写真の記憶では「二児」なのだけれど、いつの間にかチラホラ大学生にもなっているというのだから、もう「児」とは言えないだろう。
そうやって子供を育て上げただけでなく、企業戦士としても良く戦ってきた。たっちゃんは食品、コータは自動車と業種は違うが、一流メーカーの社員として日本を支えて来たのだ。
そういう彼らは私の誇りでもある。

二人とも中学時代のことを良く覚えていて、次々と語ってくれた。言われると私は思いだすのだが、私のポンコツ頭からは「記憶」は出てこないのだ。ただ二人の話を聞き、懐かしさと温かさで、胸がいっぱいになった。


二人が思い出させてくれたのは、昔のエピソードばかりではない。
「ブンシチと出会ったおかげで、自分の世界が広がったんだ。感謝してるよ」
コータはそう言ってくれた。私が中学生にしてはマセた音楽や映画や小説を趣味にしていたからだ。でも、彼の言葉は「過褒」である。私のそういった知識は、ほとんど五歳上の兄の「お下がり」だったから。

でも私は、確かに一風変わった子供だったかもしれない。



とにかく「争いごと」がイヤでたまらなかった。クラスメートの悲しんだりツラそうだったりする顔を見るのも大嫌いだった
当時の子供の世界にも「いじめ」はあった。私は「いじめる根拠がない」と思っていたので、決してそれには加わらなかった。でも、積極的に反対するほどの根性もなかった。
「人ってコワイな。自分を正当化するためにはどんなウソでもつく」
私はそう思った。そして、自分がいじめられないための方法論として、「演じる」ことを始めた。毎月の学芸会で自分で台本を書いて芝居をしたり、作文で褒められて注目されるように頑張ったのだ。
その効果は確かにあり、私は何となく「一目おかれる」存在になった。でも、
「このコワイ人の世で、どうやったら自分は生きていけるのだろう?」
という根源的な不安は一向に解決しなかった。

私がそんな考えに苦しんでいる子供だったこと、それが青年時代から現在に至るまでずっと続いてきたことを、たっちゃんとコータが改めて思い出させてくれたのだ。

それを考えれば、今はまず、ケアマネジャーという比較的安定した職種に就いていることを感謝すべきなのだ。あれが足りない、これを持っていない…と嘆いても仕方がない。そもそも、「どうしたらこの世で生きられるんだろう?」と怯えていた私には、失うものは何もないのだから。



コータは「自分もカトリックなんだ」と教えてくれた。
「赤ん坊の頃に洗礼を受けたから、全然教会にはいかなかったけどね」
洗礼名はヨゼフだと言う。イエスの父、ヨゼフ。
たっちゃんも、自分は洗礼を受けてないけれど、クリスチャンのお母さんに影響されてボーイスカウトに参加していた…という。

それを聞いて、見えない糸が「あのころ」から三人を繋ぎとめていたように思った。



このところ、毎晩のように聴いている歌がある。
遠藤賢治の『夢を叫べ』だ。


ぶっきらぼうに見栄はって どんなにつよがっていても
本当はね 誰でも哀しくて 泣きたい夜だってあるよ
それでも見なよほら 可愛いじゃないか 涙も知らぬげに
そうさそんな夜に 負けるな友よ 夢を叫べ


色々と与えてくれて、ありがとう、友よ!
そして、私たちは、もっともっと与え合うべきではないか!





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