第859話. 唯物論か 唯心論(唯神論)か、考えを定めて生きる=カジュアルスピリチュアリズムの勧め

2023-01-01 22:20:18 | ★カジュアルスピリチャリズム(カジスピ),多分あっていると思われる事,人生観
湖畔人です。

新しい方のブログ(ameblo https://ameblo.jp/kohanbito-2016/entry-12782124771.html) の方の為に書いた記事がまずまずの出来だったので、此方にも転載します。唯物論か 唯心論(唯神論)か、考えを定めて生きた方が良いよ、と言う記事です。以前も似たようなタイトルで記事を書いたことがありますが、まぁ時間も経ってるし、イイかな?と言う感じです。下記がそれです。では、どうぞ。

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一年の始まりですので、大事な話をしてみたいと思います。ここのブログのコンセプトである、霊的な人生観を持つ事の重要性について、ここでちょっとお浚いをしてみたいと思います。

(1)この世限りかあの世もあるか?

今回は、まずは、生き方を考えるにあたり、まず最初に、この世の意味、人間の定義に関する究極の問いから始めたいと思うのです。

それは、
我々人間は、死んだら終わりで、死後の世界は存在せず、この世限りの物質的存在、唯物論的存在なのか?

はたまた、 

人間は霊的な存在で、死後の世界は存在し、神様もいて、人間には期待された生き方があり、この世での生き方に応じて天国や地獄など行き先が変わるのか?

そうした究極の二択がまずあるかと思いますが、その選択次第で、我々の生き方と言うのは大分変って来るかと思うのです。

(2)あの世があるのであれば

もし、人間が霊的な存在で、死後の世界も、神様もいるのであれば、この世において、人間が期待される生き方、というものがあるはずなのです。そして、その期待にどの位応えられたかで、死後の行き先が変わるはずですね。

と言う事は、その期待された生き方を知って、それに沿うような生き方をする必要がありますね。こちらが真実であるとすれば、期待される生き方を知らず、勝手気ままに生きて来たとすれば、死後の行き先が不安ですね。

知らずに好き放題生きて、地獄行きでは困りますね。死後になって初めて地獄の世界を知って、人間に期待された生き方があった事実を知ったとしても手遅れだし、聞いてないよー、って困りますよね?

(3)あの世のある確率は50%

あの世のある確率は、あるかないか、その二択ですので50%です。半分の確率です。なので、どっちに転んでも同率ですね。

4)50%なら、ではどう選択する?

あの世のある確率も、無い確率も、両方50%なのであれば、仮に、死後何もなかったら、その場合、考える事すらできないはずなので、そうした想定は必要は無いですね。むしろ困るのは、あの世が無いと思ったら、本当はあって、人間に期待された生き方があったと後で知った場合ですね。そんな事死後に知っても困りますね。

だから、生きてる内から、
人間は霊的な存在であって、死後の世界も存在し、神様もいて、人間には期待された生き方があると思って生きた方が良い、と言う事になりますね。

(5)唯物論の根拠、進化論って当てになるの?

唯物論の根拠の一つに進化論があるけど、進化論って言っても、環境に合わせて爪が伸びたり、毛が伸びたり、部位が変化したり、そうした小さな進化はあるでしょうけど、でも、ダーウインの進化論は、"種"を超える進化が前提になってて、突然変異が何度も起きて、アメーバから種の壁を何度も超えて、爬虫類から、哺乳類になり、猿から人間になった事になってるけど、言っとくけど、種の壁を超えるって簡単じゃないよ?それって大変な事なんだよ。羊が人間になる、犬が人間になる、って、そんなん出来ないでしょう?種の変化の瞬間を見たことある人いるの?え?人類の歴史において、それがどんな動物であれ、種の壁を超えた進化の瞬間を目撃した人類はいるのか?って言う話です。結論としては、たったの一人もいませんね。ただの一人もね。

そう、進化論も、実は単なる仮設、そうかもねーと言うレベルの話に過ぎないのです。妄想の類です。

確かに、人間が胎内で大きくなる過程が、種の変化の過程を辿っているように見えなくもないけど、

一般的に科学的真理って言うと、実験室で何度も再現できる事実のみが科学的真理、と言われる事が多いかと思うけど、であれば、その進化の過程をラボで再現しなさい、出来たら信じてやろう、って話なのです。

ラボにおいて、
高熱でたんぱく質が存在しない原始地球と同じ環境を再現し、そこで、無機から有機物を出現させてみなさい、せめて、単純なミジンコの類で良いから、無から自力で動く有機物、生命を生み出して見なさい。出来たら、信じてやってもいい。

そして、遺伝子操作抜きで、気温や、雷による放電や、磁場の変化などでもって、種の変化を起こして見なさい。どうせできないから、やってみなさい。それが出来ずして、進化論を科学的真理として扱うべきではないよね?

この地球に多種の種が存在するのは、遺伝子工学による種の創造が嘗てあったから、と考える方が自然では?

それが神による霊力によるワンショットな創造か、
神による単調な生物に複数回の遺伝子操作を重ねた結果か?、
それとも、嘗て地球に存在した、高度に進化した科学文明を持った先祖達による遺伝子工学の成果か?
はたまた、より進化した他の惑星の人類型生物による遺伝子工学の結果か?

そうした遺伝子工学的理由で説明をされた方が、まだ、よぽど納得がいくのです。

それを偶然と自然環境で種の壁を超える?突然変異で?って冗談だろ?って思うのは自分だけでしょうか?

突然変異が一匹生まれても、新しい種は出来ないよね。同じように突然変異をした奇形生物が複数同時多発で発生し、彼らの間で子孫を残さないと、新しい種にはならないのよ。でもそんな事起きないでしょう?見たことある人いるの?いないよね?じゃあ、何を根拠にこの進化論を科学的真理として受け入れているんだ?騙されているだけじゃないか?X鹿か?って話なのです。なので、進化論は論拠として弱いのです。当てにならない。と言う事です。

進化論より遺伝子操作による種の創造の方がよっぽど納得がいきます。

(6)唯物論と唯心論(唯神論)、どちらが流行った方が世の中が良くなるか?

これは、前話でもシミュレーションしたけど、
極端な話をすると、
唯物論だと、特に唯物論を国是とする共産主義国では、国単位で見た時に、人間が単なる国を構成する部品となり、国家に逆らうと簡単に殺されるようになるよね。要は粛清です。共産主義国における粛清の犠牲者は1.5億を超えるといわれています。中国みたいに、国のメンツの為に、人々の自由や人権が制限され、人命が軽視される世界は、やはり大問題だよね。

個人においても、
あの世を意識せず、神仏や故人の霊たちに、心根まで見られていると言う認識が無いと、心で何を思おうが、それは他人に知られる事もないと思うので、人を貶める事も、悪意を持って生きる事も、嘘を付く事も、盗みや他人を傷つける事も、全く気にも留めなくなり、人としての良心が枯れていく事になるでしょう。何を思おうが、何をしようが、他人にそれがバレて、法に触れて刑務所に入るような面倒な事になりさえしなければ、何をしても良い、この世が全て、生きているうちに出来るだけ楽しみ、バレさえしなければ、詐欺も、浮気も、窃盗も、イジメも、麻薬も何でもあれ、自分の欲の追及だけを最優先するようになるでしょう。

そうした人達で街が溢れかえれば、街は治安が悪化し、学校はイジメと破壊で荒廃し、犯罪率も高くなり、窃盗や、ゴミのポイ捨て、詐欺や殺人や麻薬や売春が溢れるこの世の地獄が出現する事になるだろうと思われるのです。

それは、まるで、バイデン政権下で悪化したペンシルバニアのフィラデルフィアに溢れかえる麻薬中毒者の群れのようなものだろうし、
ロスに溢れかえるホームレスの群れのようなものであり、そうした生き地獄がいたるところに出現する事になるでしょう。
人、一人一人の思想の持ち方で、世界はどこまでも荒んでしまうです。

一方、神を信じ、神や故人が我々の心根まで見ており、恥ずかしくない生き方をすべきと考える人々が多い世界では、自分も他人も神の子として見、互いに尊敬しあい、この世を修行の場と捉えるので、仕事や学業を通じ、各個人のベストを捧げ合い差し出し合う、理想的な世界であり、イジメもなく、そこにあるのは、尊重、尊敬、信頼、相互補助の精神、となり、まるで天国の様な世界が出現するはずです。

なので、唯物論を信じる人達が多い世界より、唯心論(唯神論)を信じる人達が多い世界の方が、より安心だし、安全だし、子供達を預けられる世界だよね。(もちろん、狂信的な、一部の人達だけに都合の良いような偏った思想はNGだけどね。あくまで普遍的な思想、誰にでもフェアな思想を前提にしています)

なので、神を信じ、あの世を信じる人達が多い方が良い、と言うのが私の結論です。

(7)唯心論が良いとして、より具体的にどう言った思想を持つべきなの?

私には尊敬する宗教家もいれば、かくあるべしと言う理想の宗教的世界観がありますが、ただ、ここでそれを押し付ける事を目的とはしていません。

あくまで、神を信じ、死後の世界もあり、神の子として期待された生き方もあり、そうした世界観を意識しながら生きた方が良いよね、と言う思考の整理のお手伝いのつもりで、ここでやっています。

ただ、やはり普遍性は追求したいのです。誰にでも当てはまる真理、どの時代にも、男女や国に拘わらず、全員に対しフェアであるべき、と思っているからです。

何故なら、私の信ずる究極の神は、人類を一人残さず愛している存在で、失敗も転生の中の償いを通して許す存在で、全員が互いに影響し合いながら成長していく事を望んでおり、人類全体の成長が、神としての進化にもなると思われている存在、と信じているからです。

なので、外せないポイントとしては、

外せないポイント① すべての人間が神の子達であると言う視点です。

全ての人々が神と繋がっており、神と言う名の巨木の葉の一枚一枚が我々人間である、と言う見方です。神の子であり、神の一部でもある、と言う見方ですね。

別の言い方をすれば、神と言う名の巨大な人間の、その巨体を構成する細胞の一つ一つが我々であり、ある人は神の右手の掌の甲の皮膚の一細胞であり、ある人は、神の背中の皮膚の細胞の一つであり、ある人は背骨の細胞の一つである。それぞれ役割も姿も目的も違えど、皆、神の一部であり、神と同じDNAをその内に宿している。でも、各自小さな存在なので、神の全貌がどうなっているか理解できる立場になく、神が一体いつ生まれて、一体どこから現れ、一体どこに向かっているか、それすら知らないのが我々です。我々は神そのものではありません。神ではないのです。だって宇宙の始まりも知らなければ、生命の創造もできないでしょう?そう、神ではないのです。でも、間違いなく、皆、神のほんの僅かな一部であり、神の子達であるのです。そして、我々全員が、皆、神の一部として兄弟なのです。故に、全人類はその目的や姿形は違えど、互いに尊重すべき仲間である、と考えるべきなのです。

なので、自信を無くしそうな時には、自分が神の子の一人でもあり、全能の神と繋がっているのですから、その事実を思い出し、自信を取り戻すべきだ、と考えるべきですね。我々は最強の神の一部であり、既に全てを持ち合わせた完璧な存在の一部でもあるはずで、目の前の現象に捕われすぎて、自信を失うべきではない。時々、神と繋がっていると言う、その本質論を思い出して、自信を取り戻すべきだ、と言う事です。

外せないポイント② 修行の為に、この世に何度も生まれ変る、カルマの解消とユートピア建設

神の子である我々ですが、その得手不得手もバラバラだし、各人の成長過程はまちまちで、人の数だけ個性も存在するし、転生の中で獲得した実力差もとっても大きくて、転生で作るカルマ(いい事も悪い事も過去世で成した全ての行為に伴う責任と反作用)の解消のテーマも各人バラバラなのです。

でも、各人が、各人の人生のおいて各人の課題に向き合い、その課題を克服すべく、皆チャレンジをして人生を過ごしている訳です。各人が克服すべきテーマはまちまちだし、そこに良し悪しはありません。各自、それぞれの課題に真剣に向き合い、克服する事が期待されているのです。

ある時は、日本人として、ある時は男子として、ある時は中国人として、ある時はフランス人として、ある時は女性として、別の時は、今の妻の母親として、ある時は彼女の息子として、と、近しい人間関係の中で、様々な役割を演じ、群として生まれてきているようです。

各人の課題、弱点を修正しつつ、魂の凸凹を磨き、玉の如き丸みを得、同時に強みを伸ばし、魂自体をより大きく、よりバランスの良いものにし、その強みを仕事や教育を通して各自、自らのベストを提供して、この世をユートピア化していく事が期待されている訳です。

キリスト教においては肯定されていない転生の思想ですが、553年にコンスタンチノープルで開催された第二回宗教会議において否定されるまでは、キリスト教の教義にも輪廻の思想はあったようです。人生が一度きりで、その成功、失敗で、死後、"永遠"の地獄の業火に焼かれる、なんて言う考え方は余りに不公平で、狭い考えに見えますね。なので、輪廻の思想は外せませんね。

転生の中、あの世では天国的な場所もあれば、地獄的な場所もあるようですが、その地獄と言う世界も、他を害する人達が波長導通で集まっているだけなので、似た者同士が集まり、互いに足を引っ張り合う世界なので、ある意味、自分自身の鏡のような世界であり、こんな性格の悪い人達とは一緒にいたくない!、もっと他人を信じたいし、愛したいし、寛容でありたい、これらの人達はまるで自分自身の様で、なんかとても恥ずかしいし、一緒にされたくない、と思えば、段々と波長導通をしなくなって、その世界を卒業できる訳です。それが地獄を出る瞬間です。天国も地獄も自分の心の傾向次第、と言う事で、地獄はリハビリ施設、魂の矯正施設みたいなもんで、永遠にとどまる場所ではないので、その点は知っておいた方がイイですね。

と言う事で、人類皆神の子、という思想と、輪廻の思想、その二点は絶対抑えておきたいですね。

(8) 具体的にどうするか?

では、日々の生活で、具体的にどうするか?ですが、何となく生きていては段々と忘れて行くので、最低一日一回は究極の神に祈る場を設けたら良い思います。自分が繋がっている究極神に、今日も神の子として、他の神の子達と仲良くし、自分の精一杯を仕事を通して発揮して、この世に生きる使命を果たさせてください、と祈り、日々しっかり働けるといいですね。

で、出来れば、一日の終わりに、それらがチャントできたかどうか、振り返りが出来るといいですね。段々精度が上がれば、神の子に相応しい素晴らしい現実が周りに出現してくるはずなのでね。段々と、神の子に相応しい現実が現れて来るのです。

現代日本には、相当高次な宗教的真理を説けるご存在がおられるので、できれば、そうした偉大な方の著作に目を通して、霊的世界の世界観を学ぶ機会を得る事をお勧めします。毎年ベストセラーを出されているので簡単に見つけられる筈です。お薦めします。

(9) 結論

と言う事で、結論としては、
あの世がある確率は50%なんだから、あると思って生きるべきだし、あるのであれば、神の子としての自覚、霊的人生観を持って、生きるべきで、毎日、神に祈り、神の子として仕事や学業を頑張り、一日が終われば振り返りをして、その出来具合を点検する、できれば、本屋で、偉大な宗教家の教えも時々学んでみる、そんな感じでしょうか?

と言う事で、これが一番言いたい事です。

で、世界には、こうした霊的な真相を人類から隠し、人々を唯物論と恐怖の中に拘束させ、隷属させんとする悪しき陰謀者達がいるので、陰謀論でもって、そうした悪しき輩に気を付けるよう、警告を発して行きたいと思います。

では。今年も一年、宜しくお願い致します。

湖畔人


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