ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

中心と外縁(その1)

2018年08月31日 10時03分04秒 | ことば
わたしたちのモノの見方や評価の仕方には何らかの尺度(モノサシ)に基づいていることが多いのに気付きます。
何かの基準をもうけてその地点から他を見る方法です。
大抵の場合はそのようにして、ものを見ることが多いと思います。

これは芸術や学問・思想そして世間の様々な分野で普通に行われている思考の方法です。
たとえば次のことがありました。
明治初期の知識人、福沢諭吉や植木枝盛などは「西洋の進んだ知識を取り入れなければならない」と考えました。「脱亜論」と言われた考え方でした。
そして、西洋の学問や社会の制度を導入したことは、その後の日本の発展に寄与しました。
その時のわが国の思想家、知識人には次のような思考方法は無かったでしょうか。
「進んでいる西洋、それに対して遅れている日本」の図式です。

この考え方はアジアを眺めた時に次のように変化をしました。
アジアの中で「進んでいる日本とその外縁」と言う思考様式です。
これはかっての大日本帝国のアジア進出の時に顕著に現れました。
「五族共和」「八紘一宇」などのスローガンが現している「アジアに対する認識」です。
「進んでいる日本がアジア諸国を西洋列強の呪縛から解き放してやる」という考えです。
そこには日本が「東洋の盟主」にならなければならないとする「思いあがった自負」はなかったでしょうか。

いや、そうではない。日本人は東洋の人に対して、民族独立運動を助けたこともあったのだ、と指摘することはできます。実際、インド独立運動のチャンドラ・ボースや中国民族運動家の孫文の為に日本人が力を貸した事を忘れた訳ではありません。でもそれは国家や政府としてではなく民間ベースで援助をしたのでした。
日本国家が他国と他民族に対する態度は実はそのような「民間人の善意の行動」ではありませんでした。
大日本帝国がアジアの国々にたいしてとった行動は、平たく言えば「侵略」でした。美辞麗句のスローガンに装飾されていましたが、その基底にあったのは日本中心主義だったと思います。

言葉を変えれば「中心とその外縁」の考え方です。
その考え方の基底には「外縁は中心に付属する」との考え方ではなかったかと思います。
「外縁と中心を等価とする」見方ではなかったように思われるのです。

中心を決めるのはAKBのセンターの総選挙ぐらいに留めておくのが無難と言うものでしょう。






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