ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

唐十郎「腰巻お仙」と「特権的肉体論」など

2018年02月13日 11時20分08秒 | 読書
先日のわたくしのブログで、唐十郎氏の言われた言葉に触れました。
彼の当時の著作が図書館にある事を知り、県立図書館に出掛け借りてきました。

前もって秋田県立図書館の蔵書を検索していきました。
ですが、公架してあるとされる場所には無くて、図書館の職員にその図書のありかを調べてもらいました。そしたら公架されている場所ではなく、書庫の中に所蔵されている事が解りました。

貸出禁止の図書でないとの事なので、しばらく待つとその本を書庫から持ってきていただき、借りることが出来たのです。
なぜ公架棚にはおいてなくて、書庫にしまわれてるのかは、すぐ想像がつきました。
この本を眼にした時にそれはすぐにわかります。

まず、この書籍を借りる人がほとんどいないという事なのです。貸し出しの需要が極めて少ない図書だったのです。
「腰巻お仙」は前回借りた時の貸し出し票が挟まれておりました。
それによるとその時の返済期限の貸し出し票には平成6年5月27日までお返しください、との表記がありました。
これほど需要の少ない本だったのです。

さて、ここまでの前置きが長くなりましたが、本題に入りましょう。

「腰巻お仙」の目次をみてみました。
次のようになっておりました。


そして目次の前のページに著者の写真が載せられています。
これです。


目次によるとこの写真を撮ったのは、当時の新進写真家であった森山大道(もりやまだいどう)氏でした。
そして、ポスター=横尾忠則とありました。

目次とこれ等の二名の方々の顔ぶれを眼にした時、この本のイメージがどんなものかの一端を想像できます。

特権的肉体論の「いま劇的とはなにか」の書き出しは次のように始まります。
「昔、中原中也という詩人がいた。この人の詩と行状と死にざまを調べながら、私は、こりゃ詩人じゃない、もう一つ格が上の病者(びょうしゃとルビがふってある)だ、と思ったことがある。」と。

「特権的肉体論」の書き出しからして、「もう一つ格が上の病者」を問題にしている事が想像できます。
はじめの数ページを目にした時、「こりゃあ、とんでもないものに付き合ってしまったな」と私はまずそれを感じました。

「惚れてしまった女の事をもっと深く知りたくなる事」と似ているな、と感じたのでした。
彼のこの著作文のスタイルは、最近の良く見かける本の文体とはかけ離れています。

この著作「腰巻お仙」の発行年は1968年5月となっています。
当時の社会状況やそれらに対する評論家や文学者や文学青年、そして演劇青年などに通底する文体を感じることが、出来ます。
わたしなどの年齢からすると、一種のノスタルジックな文体なのでした。

さて、図書館から借りてきたもう一冊の唐氏の著作は「特権的肉対論」というものです。
これは1997年の発行でした。
奥付には次のようになっていました。




しばらくはこの2冊の著作に付き合ってゆこうと思っています。
何せ、「惚れてしまった女をもっと深く知りたい」と思うからなのです。

これ等の著作を読んでみて、自分やこのブログを見ていただいている方々の何かの参考なる事柄を、発見したなら、その時はまた記事にするかも知れません。
自分の手に負えないならば、途中で投げ出してしまうかも知れません。

「理解」と「同調」は別物ですからね。
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