唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

背景的意識と進化の歴史:生物の《意識》,フロイトの《無意識》

2021-06-09 | 日記

原初の生物とのつながり

ある個人には確実に両親が存在し,その両親のそれぞれには確実にそのまた両親が存在します.もちろんこれは生物学的両親のことであって,現に健在かどうかには関わりがありません.形式的に計算すると,一人の人物の5世代前の祖先は32人であり,10世代前は1024人であり,30世代前は約10億人となります.これは世代をnとして2nを算出しただけの数です.

他方,私たちの生命は,由来を追っていけば,確実に原初の生物に行き着きます.(マイケル・ポラニーの表現を借りると,)この系列で祖先をたどっていくと,ヒトを過ぎてさらに進化の系列をさかのぼることになります.そのうちに有性生殖を過ぎ,無性生殖の段階になると両親への枝分かれはなくなって一本の線上をたどり,ついには原初の生物にたどり着きます.

生命は生命からしか生まれない.この生命の連続性は十分に認識する必要があります.ダーウィンの偉大な業績の本質も,種の連続性の洞察に存在します.すべての生物は,遠い近いの違いはあるにせよ,互いに親戚同士なのです.

 

《無意識》

私たちは原初の生物から生命の原理を引き継いでいます.この間,生命の原理はさまざまな内的および外的な環境の変化に対応してきました.その意味で,私たちの背景的意識には,地球上での40億年の体験が反映しています.私たちは昆虫とも本能のいくばくかを共有しているのです.

人間の日常生活は主として自覚的意識によって支配されているように感じられます.しかし,自覚的意識には背景的意識が伴っており,それは個人の誕生からの体験のみならず生命の誕生以来の40億年の歴史を背負っていて,自覚的意識を条件づけ導いています.

背景的意識は非合理的なものではありません.背景的意識が十分探究されることなく自覚的意識にのみ着目するから行動が非合理に見え,それが背景的意識に転嫁されてしまうことがあるのです.

フロイトのいう「無意識」は,背景的意識として理解すべきものです.フロイトは一見非合理に見える人間の振る舞い―たとえば,ヒステリー―を,背景的意識にまでさかのぼって,合理的に把握しようとしたのです.画期的な試みです.

フロイトは「無意識」と呼びましたが,それは「意識」とは密接に関わっています.治療が進み,分析医が患者の抑圧の根源に迫ろうとすると,患者が激しい抵抗を示すのはその証拠です.すなわち患者は自己自身が自己に対しておこなった非自覚的な抑圧を《知っている》のです.

 

生物における《意識》

背景的意識の存在は,生命の原理の現われとして,すべての生物に共通するものと考えられます.

特定の対象に向けられるという意味での自覚的意識は,少なくとも動物において認めることができます.たとえば彼らは,耳をそばたて,獲物を追います.何が獲物であり,どうやって捕獲するのかは本能によって与えられるにしても,当の獲物は見つけ出さなくてはならず,見つけたら追いかけなければなりません.

自覚的意識といったとき,私たち人間は自分が考え込んだときのことを想定しがちです.私たちは内側にこもり,言語によって考えます.そこで,自覚的意識というのは,言語を有する人間に特有のように錯覚してしまいます.

しかし,私たちが真剣に生き生きと活動しているとき,意識はいわば《透明》になっています.すなわち,私のすべてが外部に向かい,内側にこもっているものがないということです.このことは,たとえば,強力なライバルを相手に運動競技をしているときや,大勢を前にプレゼンテーションをしているときのことを思い起こせば理解できるでしょう.意識が《透明》だといっても,そのとき私は何も考えていないわけではない―どころか私の背景的意識も自覚的意識もフルに活動しているのです.たとえば,獲物を追う動物の意識は,これに比すことのできるものではないかというのが私の推定です.

〔以上は,唐木田健一『生命論』の4の一部にもとづく〕