背景的意識
生命の原理は生物(したがって私たち)における生きようとする力のことです.したがってそれは,私たちにとって,最も身近なものなのです.私たちにおけるその現われは,私が「背景的意識」と呼ぶものです.
「背景的意識」とは「自覚的意識」の対(つい)となるものです.私たちの「自覚的意識」は,その都度特定の対象に向けられています.たとえば,パソコンのディスプレイであり,本のページであり,ヘッドフォンからの音楽です.そのとき,私たちの「背景的意識」は,本人の意図とは独立に,環境全体に向けられています.
いまこのブログを読んで下さっている貴方! 貴方の足に感覚の注意を向けてみて下さい.貴方は,靴下を通しての履物の感覚,あるいは素足での敷物や床の感触を得ることでしょう.それらは,私からの注意喚起がある前は,とくには意識していなかったはずのものです.しかし,貴方はそれを感じていなかったわけではない.それは背景的に,漠然と意識されていたのです.私の注意喚起とともに,それは背景的意識から自覚的な意識の対象に移行したのです.
たとえば,電車の中で読書に夢中になり,アナウンスを聞き逃すということがあります.このとき,そのアナウンスは,間違いなく耳には届いていたのです.だから,駅を乗り過ごしたあとで,「そういえば何かアナウンスがあったなあ」と想起することができます.アナウンスがあったときの自覚的な意識の対象は本であったのであり,アナウンスは背景的に漠然と意識していたのです.
背景的意識は「無意識」と呼ばれることのあるものです.しかし,それは意識が無いのではありません.それは,漠然と,背景的に意識しているのです.
自分の自覚的意識は記憶の対象となります.あのとき,どんな本を読んだとか,何のCDを聴いたということはあとで思い出すことができます(ということは,忘れてしまうこともあります).これと同様に,私たちの自覚しない―背景的な漠然とした―意識も,私たちは非自覚的に記憶しています.
「背景的意識」は生命の基盤である
いま考察した「背景的意識」は,私たちの生命(=生活,life)の基盤となっているものです.それは,私たちにおける生命の原理の現われであり,漠然とではありますが,《実感》できるものです.
私たちは常には何ものかを自覚的意識の対象としています.背景的意識は自覚的意識の背景としてしか意識することができません.すなわち,背景的意識を直接に意識の対象とすることはできません.背景的意識は,「振り返る」という仕方―哲学的意味での「反省」―によって対象として把握できるように思われます.しかし,この場合は記憶が媒介になっており,直接的な把握ではありません.記憶が媒介になっているという意味は,「反省」は(直近とはいえ)過去に向かうものだからです.すなわち,反省の対象となった意識は,すでに背景的意識とは異なるものです.
ここで私が「背景的意識」と名づけたものは,かつてサルトルが「非定立的意識」あるいは「非反省的意識」と呼んだものに相当します.他方,対象に向けられた意識(「自覚的意識」)はサルトルにおける「定立的意識」です.したがって,「非定立的」というのは,「特定の対象には向けられていない」ことを意味します[1].また「背景的意識」は反省によってはとらえることができないので,「非反省的意識」とも呼ばれます.
記憶
私たちの日常の動作・行動は,過去の知識や体験に関わる膨大な記憶にもとづいています.ただし私たちは,通常の場合,記憶を手繰りながら生きているのではありません.記憶は,背景的意識として,ほとんど自覚されることのないまま活用されているのです.
たとえば,《スマホ》を手にとったとき,人はその各部分の意味,その機能および使用法,あるいはその料金体系などのきわめて多くの知識を背景としています.《スマホ》の操作というのは,決して単純な作業ではありません.しかし人は日常,この作業をほとんど《無意識》におこなっています.すなわち,記憶を参照しながらの行為ではありません.ただ,《無意識》とはいえ,人は自分が何をしているのかはわかっているし,それは文字通りの機械的作業や《条件反射》とは異なるものです.
もちろん,《スマホ》の操作に関して記憶を手繰るということはあります.たとえば,ある設定を解除したい場合などです.そのとき,記憶した知識は,背景的意識から,自覚的意識の対象へと移行して,想起されるのです.
しかしながら,私たちは背景的意識におけるすべての記憶を自覚的意識の対象へと移行することができるわけではありません.それどころか,自覚的意識の対象へと移行できるものは,おそらく背景的意識のうちの微少部分です.
背景的意識の根源性
最近は《トラウマ》(心的外傷)などという概念が日常的に用いられるようになってしまいましたが,ある対象を見たとき《わけもなく》不安におそわれるということがあります.それは,その対象が過去の恐ろしい―心に傷を与えるような―出来事と結びついているときに起こります.
☆私は学生時代,ジープを見ると不安になることを自覚した.あるとき,実験装置の運搬で自分自身がジープに乗らなければならなくなって,急に子供の頃のある場面を思い出した.占領軍のジープが突然来て近くに停まったときの周囲の大人たちの緊張した姿である.また当時,私はジープに乗っている「アメリカ人たち」(としか考えなかった)を恐ろしい人たちと思っていた.
ただし注意して下さい.ここでは,その問題の対象が過去の出来事を想起させ,その結果として不安になるというのではありません.不安のほうが先なのです.そして,その不安をもとに自覚的に過去を振り返ったとき,ある出来事が想起されてくることがあるのです.あるいは,過去の出来事が想起されることもなく,《わけもない》「不安のまま終る」ということもめずらしくありません.
ここにおける不安とは,私にとってその対象の背景的意識をなすものです.「不安のほうが先」(あるいは「不安のまま終ることもある」)というのは,背景的意識―私における「生命の原理」の発現―の根源性を示すものです.すなわち,問題の対象を自覚的に(たとえば)危険なものととらえる以前に,《わけもない》不安という背景的意識によって,その対象の意味を私に対して暗示しているのです.
背景的意識の能動性
ある課題を解決しようとして徹底的に努力したがダメで,いったんあきらめ放置しておいたところ,あるとき突然解決した気がして確かめてみると,実際解けているということがあります.私の個人的体験では,たとえば次のようなものがあります.
小学生のとき,放課後の校庭で,初めて自転車に乗ることに挑戦しました.何時間も頑張りましたが,全くダメでした.翌日の授業中,教室からぼんやりと校庭を眺めていたら,突然「できる」という感じがしました.放課後実際にやってみたら,試行錯誤を全くすることなしに,すでに乗れるようになっていました.同様なことは,たとえばピアノの指使いの場合などにもあります.つまずいてしまいどうしてもうまくいかなかったものが,あるとき突然「できる」と感じ,そして実際に可能となっているのです.
理論的課題については,同様なことはしばしば経験することです.私がとくに上のような例に関心をもったのは,それが実技に関わることであったからです.ここには背景的意識の能動性が現われています.
〔以上は,唐木田健一『生命論』の4の一部にもとづく〕
[1] J. P. Sartre, L'être et Le Néant (1943)/松浪信三郎訳『存在と無』人文書院,第一分冊1956年,第二分冊1958年,第三分冊1960年.