唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

行動の「動機」「動因」さらに「本能」

2021-06-08 | 日記

動機と動因

ここでは私たちの行動の動機について考えてみます.サルトルの『存在と無』[1]によれば,動機は通常,行動の理由と解されるものです.そして,その理由は,行動の目的と一体です.他方,なぜそのような目的をめざしたのかということは《主観的》な事柄であり,動因と呼ばれます.

歴史家は通常,動機を探究します.動因をもち出すことがあるとすれば,どうにも動機だけでは問題の行動が説明できない場合です.一方,心理学者は,歴史家とは異なり,動因の探究を常とするようです.

溺れる子供を発見して川に飛び込もうとしている人がいるとしましょう.そのときのその人の動機は,子供を救うことです.そして,動因とは,その動機の「背景的意識」のことです.あとで振り返って,「そういえばあのとき自分の子供の顔が思い浮かんだ」とか,あるいは「子供の頃に自分も救われたことがあって,それをきっかけに泳ぎを覚えた」といったことが想起されるのです.動機は同じでも,動因は人さまざまということになります.

 

本能的行動

私たちの日常の動作・行動は,背景的意識によって導かれています.そして,その背景的意識は,過去の知識や体験に関わる膨大な記憶にもとづいたものです.この記憶は自覚的なものばかりとは限りません.それどころか,自覚的な部分はごくわずかでしょう.

私たちの行動は同時に「本能」によっても導かれています.本能的行動は通常,学習された知識や体験と融合して現われます.あるいは,私たちの原初的―すなわち生まれたばかりの頃の―行動はもっぱら本能によって導かれたものでしょうから,学習された知識や体験も本能によって導かれたということができるでしょう.そして,その本能を直接に導くのは,生命の原理です.

このように,生命の原理は,私たちが学習によって自己をつくり上げるに先立ち,私たちを条件づけ,その「生」を導きます.背景的意識は,生命の原理の作用であると同時にその作用の蓄積した結果です.それは生物としての人間のあらゆる水準―分子レベル,細胞レベル,組織レベル,器官レベル,個体レベル,さらには「社会」のレベル―に作用する「生きようとする力」とひとつのものです.

人間の行動に本能が反映していることは確かです.しかしながら,純粋な本能的行動を見定めることは大変困難です.上で述べましたが,本能的行動は通常,学習された知識や体験と融合して現われるからです.性的行動や食欲を簡単に「本能」など言ってしまうことがありますが,それらには大いに文化や学習が関わっています.新生児が乳を飲むことなどは,純粋な本能的行動と言うことができるのでしょう.

 

本能の合目的性(1):ファーブルの疑問

本能の的確さには驚くべきものがあります.本能は,物質の原理にも偶然にも帰すことのできない生命の原理の発現として銘記されなければなりません.純粋な本能的行動は,人間を対象としたものではありませんが,ファーブルの偉大な書に多数の記述が見られます[2]

1854年の冬,ファーブルは昆虫学の大家レオン・デュフールの昆虫学の冊子を読みました.ファーブルは当時31歳で,フランス・アヴィニョンの中学で理科の教師をしていました.デュフールの冊子には次のような趣旨の記述がありました:

ツチスガリというハチは,その幼虫に餌としてタマムシという甲虫を与える.獲物は,形も大きさも色も著しく異なった種に及ぶが,すべてタマムシ属である.ツチスガリは,このように外見の異なった種を,同じタマムシ属といかにして認識するのだろうか.さらに不思議なのは,タマムシは確かに死んでいるのだが,色彩はあざやかなままであるし,肢も触覚も完全にしなやかである.またそれらしい外傷もない.夏だと,死後数時間もすれば,内臓は乾燥するか腐るかして,形や構造を調べることができなくなる.ところが,ツチスガリが殺したタマムシの内臓は完全に保存されている.何か特別な事情によって,一週間ひょっとしたら二週間も,乾燥や腐敗を免れている.

この「腐らないタマムシの屍」という不思議を前に,デュフールは,狩蜂ツチスガリが甲虫タマムシに防腐剤を注射したものと考えました.

デュフールのツチスガリは,タマムシツチスガリでしたが,ファーブルが地元で見つけ出したのはそれと同属のひとつであるコブツチスガリ(=オオツチスガリ)でした.その獲物となる甲虫は(わずかな例外を除いて)ゾウムシ類のひとつであるハススジゾウムシモドキの一種だけでした.このゾウムシは,この地方で一番体が大きく,また最もたくさんいるものでした.

ファーブルは,彼の観察の結果,ゾウムシが死んでいて,それを防腐剤が守っているというデュフールの考えに疑問をもちました.ゾウムシの生命は確かに障害を受けて植物的となっているが,ともかくそれは密やかながらも生きているのではないか.その証拠に,ゾウムシは最初の週の間,排便します.これは腸に何もなくなったときに止みました.また,ゾウムシは,ベンジジンという薬品の刺激によって肢を動かします.さらに,ブンゼン電池を使って電流を流すと,体の部分に運動を引き起こしました.

 

本能の合目的性(2):ファーブルの観察

ファーブルは,ゾウムシは死んでいるのではなく,運動中枢を侵され麻痺しているのだと考えました.ゾウムシは生きたまま,新鮮な食糧として,ツチスガリの幼虫に与えられている.これは肉食の幼虫にとっては最大のごちそうです.

ゾウムシを麻痺させる武器は,ツチスガリの針でしょう.それでは,その針でゾウムシ(甲虫)のどこをどうやって刺すのか.ゾウムシは堅固な鎧を着込み,その継ぎ目と継ぎ目もきっちりと合わさっています.

ファーブルは忍耐と創意工夫で観察を続けました.そして,ツチスガリは,ゾウムシの第一対と第二対の肢の間の前胸の合わせ目に,すばやく二三度針を差し込むことを見出しました.それによりゾウムシは一瞬にして動かなくなってしまう.それでは,ゾウムシのこの胸の位置には,一体何があるのでしょう.

動物の運動能力を一瞬にして絶つには,その運動中枢を破壊すればよい.成虫の胸部神経節は三つあります.その場所が,第一対と第二対の肢の間,下面の正中線上です.とくにゾウムシの場合,運動中心は共通の塊になるほど接近しているので,ファーブルによれば,動物としての運動機能はより完全となるが,同時に攻撃を受けやすくなっています.

ファーブルは,次のように書いています:

ツチスガリの獲物選びは,一番博識な生理学と一番詳しい解剖学だけが教えるものと一致している.それを偶然の一致として片付けようとしても無理である.こんな調和は偶然などを持ち出しても,説明がつくものではない.(引用にあたって,昆虫名は傍点付きひらがなからカタカナに変更)

ここで,「博識な生理学」とは,運動能力を絶つには運動中枢を破壊すべきこと,また「詳しい解剖学」とはゾウムシの運動中枢の位置のことです.

先に書いたことを繰り返します.本能は,物質の原理にも偶然にも帰すことのできない生命の原理の発現なのです.

 

本能と物質的秩序

生物とは「生命の原理」が「物質の原理」を活用する有様のことです.したがって,本能的行動に関わる物質の原理が明らかにされることは,何ら不思議なことではありません.「性フェロモン」の発見はその一例です.すなわち,本能的行動に関わる物質の原理が明らかにされたとしても,それによって本能が物質の原理に還元されてしまったことを意味するわけではありません.

☆フェロモンは動物から分泌され,同じ種の他の個体の行動や生理に影響を与える物質の総称である.このうち,雌雄間に影響を及ぼすものが,性フェロモンである.

本能的振る舞いの的確さには驚くべきものがあります.しかし,これが驚くべきものであるのは,たとえば生体におけるカルビン回路の的確さが驚くべきものであるのと同じです.

〔以上は,唐木田健一『生命論』の4の一部にもとづく〕


[1] J. P. Sartre, L'être et Le Néant (1943)/松浪信三郎訳『存在と無』人文書院,第一分冊1956年,第二分冊1958年,第三分冊1960年.

[2] J. H. Fabre, Souvenirs Entomologiques (1879-1910)/山田吉彦・林達夫訳『ファーブル昆虫記(一)』(全十巻)岩波書店(1993).