唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

事実と価値

2021-06-12 | 日記

事実とは「これこれである」と表現されるものです.他方,「これこれであるべき」ということは価値と呼ばれます.事実だけから価値を導くことはできません.「これこれである」という表現だけをいかに組み合わせて論理展開しても,「これこれであるべき」という表現を導き出すことはできません.

アインシュタインは「科学と宗教」という講演(1939,およびのちに論文)の中で次のように述べています[1]

・・・・・このような客観的知識を求める熱望は人間として望みうる最高の望みに属しており,みなさんもこの分野で人間のあげた成果やその英雄的努力を私が軽く見たいと思っているのではないかと疑われるようなことはおそらくないでしょう.それにしてもやはり,これこれであるということは,これこれであるべきだということへ直通する入口を開くものではないということも同様に明らかなことです.人はこれこれであるということについての最も明快かつ最も完全な知識をもつことはできても,何がわれわれ人間の願望の目標であるべきかということをそれから導き出してくることはできないのです.客観的な知識はある種の目的を達成するための強力な道具をわれわれに供給してくれますが,究極的な目標自体およびそれに到達しようとする憧れは他の源泉から生まれてこなければなりません.〔中略〕

しかし,目標や倫理的判断の形成の際に知的な思考がなんらの役割も果たしえないものと仮定してはなりません.ある目的を達成するのにある種の手段が有効であると誰かが悟れば,その手段そのものが一つの目的になります.(下線は原文における強調)

ここでアインシュタインは,客観的知識―これは科学的知識のことで,上で述べた「事実」に属します―の分野は非常に成果があがっているけれども,そこから何をなすべきか―これは上で述べた「価値」に属します―を導き出すことはできないということを主張しています.価値は「他の源泉から生まれてこなければなりません」.

まとめれば,「物質の原理」(物理や化学の法則―アインシュタインのいう「客観的知識」)はもっぱら事実に関わります.他方,価値は目的と一体であって,それは「他の源泉」,すなわち「生命の原理」に由来します.

目的をもつのは人間独特のことだと考えられていることが多いのですが,目的は全生物に共通―生物はそのさまざまな水準において合目的―なのです.人間は,進化の結果として,それを独特な仕方で担っているのです.

事実と価値は断絶しています.しかし,上のアインシュタインの言葉には留意が必要です.すなわち,ある目的(価値)が共有されるなら,その手段としての事実は目的に代わるものとなります.たとえば,「裏切者は仲間から排除されるべきである」という価値の命題が当然のこととして共有されているとき,「彼は裏切者である」という事実の命題は,明らかに価値的含意を有します.すなわち,そこからは「彼は仲間から排除されるべきである」という命題が引き出されます.

〔以上は,唐木田健一『生命論』の5の一部にもとづく〕


[1] 湯川秀樹監修/中村誠太郎・井上健訳編『アインシュタイン選集 3』共立出版(1972).