「目的論」の問題
前の記事では,「生命には目的が関わる」ことを述べました.読者の中には,なぜこんな当然のことを長々と述べる必要があるのかと感じたかたも少なくないことでしょう.これには事情があります.
《自然現象》を何らかの目的と関係づけて観察する思考は,一般に非科学的とされています.この宇宙がひとつの目的によって支配されているという考え方は,古代から近世初頭まで影響力をもっていました.このような思考は「目的論」と呼ばれ,生物学を含む現代の科学においては排除されています.西欧近代科学誕生のプロセスは,素朴な目的論的思考の克服にあったとすら見ることができます.
このような事情で,生命に関しても,(科学者社会の大勢においては)「目的」をもち出すことはいまだ《タブー》に近いのです.そこでここでは,私が生命の「目的」とするものの内容をさらに明らかにしておきます.
生物と目的
私たちは生物の本質がその合目的性にあることを認めています.合目的性こそが生物と無生物とを分けるものです.そして,生物は現に厳として存在します.ということは,物質に関する物理や化学の法則―まとめて「物質の原理」と呼ぶことにしています―がこの宇宙における基本原理として認められるのと同様,生物における合目的性も基本原理として認められなければならないでしょう.
私たちがさまざまな水準において生物を理解できるのは,その目的に着目することによってです.現代の生物学者たちが暗黙の前提としているように,生物を機械に見立てることが可能なのは,密かに目的的見方を導入しているためです.
「生命の原理」
機械の本質はその作動原理にあり,作動原理そのものは物理や化学の法則に帰すことができません.作動原理とは物理や化学の法則―物質の原理―を活用する仕方のことです(「生命の非還元性」の項).
これと全く同様にして,生物の本質は物質の原理に帰すことはできません.すなわち,生物を理解するには,物理や化学の法則以外の原理が必要です.これを「生命の原理」と名づけることにします.すぐあとで説明しますが,「生命の原理」と生物における「目的」とはひとつのものです.
機械においては,人間によって考案された「作動原理」が「物質の原理」(すなわち,物理や化学の法則)を活用します.生物においては,「生命の原理」が「物質の原理」を活用しています.生物とは,「生命の原理」が「物質の原理」を活用する有様のことです.
生物は物質からできており,それを徹底的に探索しても,物質以外の何ものも見出すことはできません.また,そこにおける物質は物理や化学の法則(「物質の原理」)にしたがっており,それと矛盾する現象が見出されることもありません.ただし,「物質の原理」だけでは,私たちは生物と無生物とを区別できません.また,生きている生物と死んだ生物とを区別することもできません.
生物の根源的目的
生き,そして生き続けることが生物の根源的な目的です.「生きる」ということは,それ以上基本的な原理にさかのぼることができないという意味で,「生命の原理」という用語で表現されているのです.
生物は,生きるというこの根源的目的のために,自己および自己の環境におけるさまざまな要素を統合します.この諸要素の統合された様子が,生物において見出される合目的システム・装置であり,生物の行動に見られる合目的性です.それらは生命の原理に由来します.
上のパラグラフでは「環境」という表現が出ましたが,環境とは自己が生きる場のことです.そこには自己以外の諸生物およびいわゆる無機的自然が存在します.たとえば,食物を得ようとする動物は,その食物の位置,そこへのルートと障害物,競争相手の存在,自己を狙う他の動物の動向,などの諸要素を統合して行動します.
生命の原理はさまざまな要素を能動的に首尾一貫して統合することをめざします.この統合体は秩序と呼ばれることがあります.それはまた「論理回路」に比されることもあります(柴谷篤弘『構造主義生物学』).
なお,無機的自然においても秩序ある存在物は見出すことができます.たとえば,整然とした結晶体などがそれにあたります.ただし,その秩序はすべて物質の原理によって決定されます.物質の原理を越えたいかなる目的も示唆することはありません.
生物における秩序と環境
生物における秩序について,ひとつ重要なことに触れておきます.熱力学という学問があります.自然科学の基礎をなす分野のひとつです.そこでは,エネルギー保存則(熱力学第一法則)およびエントロピー増大則(熱力学第二法則)という二つの基本法則が知られています.ここで着目するのはエントロピー増大則のほうです.
エントロピーは物理的に明確に定義された概念ですが,簡単には物質やエネルギーの拡散の尺度と理解することができます.すなわち,自然界ではエネルギーも物質も拡散の傾向にあることを述べたのが熱力学第二法則です.この法則の観点からすると,生物の存在は不思議です.生物は環境に広く存在するものを集め,自分の身に集中することによって成長し,さらに自己における秩序を動的に維持しています.これからすると,生物はエントロピー増大則に反しているように見えます.そこで,かつて科学者の間では,「生物は熱力学第二法則を越えた特別な存在様式なのではないか」といった議論がなされました.
生物が例外的存在のように見えるのは,その環境を見落としているためです.生物は環境にエントロピーを廃棄します.この廃棄量が生物におけるエントロピーの減少量を上回るので,全体としてエントロピーは増大しているのです.生物の廃棄するエントロピーとして最も重要なのは熱です.
☆勝木渥『物理学に基づく環境の基礎理論』海鳴社(1999)参照.
生物と環境を考察する場合,環境からの摂取は常に強調されることですが,環境への排出もそれと全く同様に重要なのです.
目的が生物を特徴づける
生きるという目的に向かって自己および自己の環境におけるさまざまな要素を統合する―秩序立てる―行動が生物を特徴づけるものであり,それによって私たちは生物を特別な存在として(すなわち無生物とは異なるものとして)直観的に認識できます.また,私たちが生物を合目的存在として認識できるのは,私たち自身が生物であり,合目的存在であるからです.
生物を機械に見立てるというのは倒錯なのです.機械は,生物である人間が目的意識的に作製したものであり,機械が生物的なのです.生物が機械的なのではありません.
機械論と目的論
思想の領域には,古くから「機械論」と「目的論」という対立する《世界観》が存在します.機械論とは,(いろいろなバージョンがあるのでひとつに決めつけてしまうのは危険なのですが)機械の動きのような一連の因果関係によって現象を説明する仕方です.他方,目的論は,(いろいろなバージョンがあるのでひとつに決めつけてしまうのは危険なのですが)あらかじめ定められたある最終目的から現象を理解しようと企てます.
私たちのこれまでの考察によれば,生物機械論は否定されます.生物機械論は,目的を排除しつつ,密かに目的を導入しています.生物を機械として観察することはできます.しかし,生物を機械としたのでは,「生物は生きている」という本質が抜け落ちてしまいます.
他方,私は,生物の合目的性を基本原理―「生命の原理」―として認めています.その意味では,私の考え方は,旧来の科学者や《哲学者》によって,強引に目的論に分類されてしまうのかも知れません.しかしながら,次のことに注意が必要です.
「目的」とはその内容が先天的に与えられているものではない
私のいう「目的」とは,単に「生きる」ということであって,「・・・・・のために生きる」あるいは「・・・・・をめざして生きる」として先天的に―ということは,あらかじめ頭ごなしに―与えられているものではありませんし,またいかなる意味においても最終のものではありません.ここでいう目的とは,現実がその都度要求するものであり,現実(既存の秩序)がその都度明らかにするものであり,またそれによって現実の意味が理解されるものです.
たとえば,地面を掘り返しているツチバチの目的が家族のための糧である櫛角類の幼虫を探し出すことにあるということは,ツチバチの現実の振る舞いとその周辺(環境)の様子を目的意識的に観察することによって明らかになります.ファーブルは「辛抱に辛抱を重ね,暇をかけて」それを発見したのです.また,逆に,その目的を知ることによって,ツチバチの振る舞い―身ぎれいさには骨身を惜しまず,ちょっとでも暇があれば塵を払ったり,みがきあげたりせずにはいられないツチバチがなぜそんな労働をしているのか―の意味について理解することができます.すなわち,目的の幼虫は地面の下におり,そのためツチバチは地面を縦横に掘り返しているのです.さらに,家族のための糧を探すということは,ツチバチにとっての現実の必要にもとづくものです.
あるいは,循環系における弁―これはひとつの現実(既存の秩序)です―は,血液の逆流を阻止するという必要に応じたものですし,また逆流を阻止するというその目的から,弁の形状や働きの意味が理解できます.
生き物に接したとき,私たちは日常の多くの場合,ほとんど十分に自覚することもなく,その都度現実から目的を読み取り,同時に目的から現実を理解しています.
生命の原理は後押ししかしない
生命の原理はその目的に沿って生物を駆動します.ただし目的とは,その都度の現実と密接に関わるものであって,何かあらかじめ定められているものではありません.これが従来の目的論と私の考え方との決定的な違いです.これを私は「計画のない目的」と呼んでいます.
生命の原理は,現実をベースに,いわば生物の後押しをします.後押しの結果として生じた秩序(あるいは無秩序)は,現実をベースに生物自身が生み出したものです.それは,生命の原理があらかじめ設定したものではありません.
☆ベルクソンは,「目的論は未来の引力で過去の推力に置きかえる」と書いている.これは,旧来の目的論が,過去による後押しを未来が引っ張ったかのように扱っていると批判したものである.H. L. Bergson, L'Évolution Créatrice (1907)/真方敬道訳『創造的進化』岩波書店(1979).この表現は訳書の64頁にある.
〔以上は,唐木田健一『生命論』の2の一部にもとづく〕
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