事典的紹介
サルトル(Jean=Paul Sartre, 1905-1980).フランスの哲学者,批評家,小説家,劇作家.高等師範学校出身.母方の姓はシュヴァイツェルで,《アフリカの聖者》といわれノーベル平和賞を受けたアルベール(いわゆるシュヴァイツァー博士)は母親のいとこである.父親のサルトル氏は医師で彼が2歳のとき死亡し,母の再婚まで約10年間,祖父のシュヴァイツェル家で育てられた.1929年教授資格試験に合格.またこの年ボーヴォワールと知り合い,2年間の《契約》を結ぶ.以降,1945年に「無期限休暇」に入るまで,基本的には高等中学校の哲学教授として過ごす.この間に小説『嘔吐』(1938年)でデビュー.1945年からは雑誌『レ・タン・モデルヌ(現代)』を主宰.人間の基本的な問題,すなわち一個の人間のかけがえのなさとその人間を条件づける歴史との関係(加藤周一)を一生かけて追究した.1964年ノーベル賞を拒否.哲学的主著に『存在と無』(1943年)および『弁証法的理性批判』(1960年)とその序論の『方法の問題』(1960年)がある.晩年にはフローベール論に執着し,人は一個の人間をいかに理解できるかを示そうとした.
サルトルの時代
私は学生時代よりずっと,サルトルをひいきにしています.私は,存在論,倫理,そして科学的探究の基礎づけに関し,彼から非常に多くのことを学びました.その一部は,桂愛景というペンネームを用いて,『サルトルの饗宴』という著作にまとめました.
私が学生時代を過ごした1960年代の後半において,サルトルは,西欧およびその影響を受けた日本の知的社会において,最も影響力のある思想家でした.彼はまさに一世を風靡したのです.そのありさまは,たとえばボスケッティ/石崎晴己訳『知識人の覇権─20世紀フランス文化界とサルトル』新評論(1987)に描かれています.
☆ A. Boschetti, Sartre et <les Temps Modernes>(1985).
彼がいま,彼の名を知る多くの人々にとって,単に古臭い人物に過ぎなくなってしまったのは,大流行が去ったからです.この傾向は日本において特異的に顕著です.中味のない人物がたまたま流行児となり,騒ぎが去って見捨てられるというのはよくあることですし,別に大勢に影響ありませんが,サルトルからはいまだ学ぶことが多いと私は思っておりますので,この事態は大変残念です.
彼の政治的発言は極めて旗幟鮮明─すなわち,わかりやすかったのですが,彼の哲学的思想は,その本質を理解するのに,多くの知的努力と忍耐を必要とします.つまり,そう簡単には理解できないのです.彼が誤解されて売れっ子になり,誤解されて見捨てられているのは多分そんなところに理由があるのでしょう.日本の知的社会の厚みと密度はまぁその程度なのです.他方,欧州においては,「ドグマなき社会主義者」としての彼の一貫した姿勢が評価され,継続して関心と尊敬の念がもたれているようです.
〔以上は,唐木田健一『理論の創造と創造の理論』の3.7節にもとづく〕
サルトル&ボーヴォワールの日本訪問
『嘔吐』の作者・サルトルが来日中の面白いエピソードを彼の生涯の伴侶ボーヴォワールが記述しています〔朝吹三吉・二宮フサ訳『決算のとき 下』紀伊國屋書店(1974)〕.彼らが日本に着いたのは1966年9月18日の夜のことです.その翌日の夕方,慶応義塾大学の塾長が彼らのために「東京一有名な料亭」で晩餐会を計画していました.その次の日に,慶応でサルトル-ボーヴォワールの講演会が予定されていたのです.
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塾長は教授,作家,演出家などを招待し,芸者を呼んでいた.私たちは,みんな,長い低い食卓に向かって,床にじかに坐った.キモノを着ている女性たち―塾長夫人と芸者―は,日本式に足を折りまげて踵の上に坐ったが,あれはひどく疲れるのだ,と洋服を着ていた〔朝吹〕登水子は私に言った.人びとは彼女と私の膝を布で覆った.どの会食者も,最も教養ある芸者の中から選ばれたという,美しくも若くもない芸者に左右からはさまれていた.何人かの芸者は音楽を奏で,歌を歌ったが,彼女たちの主な役目は,隣にいる客の盃に酒を注ぎ,彼に話しかけることで,そのために,共通の会話はほとんど不可能になっていた.私の隣の女性は,かしこまったフランス語で,古美術と現代美術とどちらが好きか,と私にたずねた.別の女性は,夫の蔵書を山ほど持ってきて,サルトルに献辞を書かせた.いっぽう,卓上には,正体を見きわめることの難しい料理が次々と運ばれていた.揚げた魚はおいしかった.しかし,血のように赤い生の鮪をのみこまねばならない破目に陥った時はつらかったし,また,たしか生の鯛だと思うが,白いねばねばした薄片が,自分ののどを滑り落ちるのを感じた時はそれ以上につらかった.サルトルは―彼だって,私と同様,およそ生の貝類は大嫌いなのに―出されるものは全部口に合うといったふうだった.彼はにこにこして,とてもくつろいだ様子で笑ったりしていた.
食事は三時間続いた.私たちは,愚にもつかぬ話を聞いたり喋ったりしながら,あんなに沢山の食物を食べたので,へとへとに疲れてホテルに戻った.私たちは日本製のウイスキーを一本取寄せた.これはとてもおいしい.サルトルはグラスに手を触れなかった.突然彼はまっ青になった.自分で脈をはかると,百二十.ふだんの倍の速さだ.どうしたのだろう? 彼はいまだかつて,これほど気分が悪くなったことはなかった.とんでもないことになってしまった.何しろ翌日は講演をするはずだったから.いきなり彼は浴室にとびこんだ.パラドックスめいた話だが,嘔吐なるものを生まれてこのかた一度も催したことのない彼は,その兆候がわからなかったのである.
〔この項は,唐木田健一『1968年には何があったのか』の十一章にもとづく〕
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