Über den Bergen

山のあなたの空遠く
「幸さいはひ」住むと人のいふ。

郡上おどり(古調かわさき)

2014年07月31日 | 

 郡上の八幡出ていく時は
 三度見かえす枡形を

 天のお月様 かか盗まれて
 雲のあいから カカカカと

 今宵一夜は 浦島太郎
 明けて悔しや 玉手箱

 お前二十一 わたしは十九
 四十仲良く 暮らしたい

 

郡上おどり(古調かわさき)

 

曲の解説によると…φ(..)メモメモ

「かわさき」と名のつく盆踊りは口説きとして、北陸路にも多く分布しています、越中や、加賀の農村で踊られたところからなかには、加賀崎などと呼ぶところもあったようです。「古調かわさき」は、その手つきや足の踏み方などを見ても、昔の農耕の所作が取り入れられて、歌詞も飾り気のない庶民生活に根ざしたものや、作業唄が残されていかにも奥美濃の純朴な人情、風俗に似つかわしい踊りなのだとか。


郡上おどり「やっちく」

2014年07月30日 | 

 これは過ぎにしその物語 
 聞くも哀れな義民の話

 時は宝暦五年の春よ
 所は濃州郡上の藩に

 領地三万八千石の  
 その名金森出雲の守は

 時の幕府のお奏者役で
 派手な勤めにその身を忘れ


郡上おどり「やっちく」Gujo Odori - Yachiku

この曲の解説によるとφ(..)メモメモ

骨休め

四万八千石の城下町として栄えた郡上八幡の町には幕末から明治にかけて、色々の旅芸人が入りました。中でも両の手に八枚の竹を打ちならし唄ったかどづけが「八百屋お七」「鈴木主人」のようなくどき唄を哀調をこめて唄い廻ったのが、民衆の共感を呼んで踊り化したといわれ、吉田川の瀬音が四囲の山にひびく夜が更けてしずんでから踊られる。


郡上おどり『春駒』

2014年07月29日 | 

郡上は馬どこ あの磨墨の 
 名馬出したも気良の里

 私ゃ郡上の 山奥育ち
 主と馬曳く糸も引く

 金の弩標は 馬術のほまれ  
 江戸じゃ赤鞘郡上藩

 駒は売られて いななき交わす
 土用七日の毛附け市

郡上おどり『春駒』

春駒

曲の解説によると…φ(..)メモメモ

動きは激しく本運動。

1952年  踊り種目「さば」が「春駒」と改称。

幕末から明治にかけて、春先になると越前の油坂峠を越えてやって来た鯖売の呼声が、はやしとなり踊化されたという一説もあるそうだ。

日本的マンボの旋律を有する威勢のよいおどりは、逸馬(はやり馬)を制するそり身の姿勢から両手綱をさばきながら横とびに廻転し、磨墨の名馬以来、馬にゆかりの深い郡上にふさわしいおどりだということだそうだ…。


郡上おどり「三百」

2014年07月28日 | 

 今年はじめて三百踊り
 おかしからずよ 他所の衆が

 越前歩荷(ぼっか)の荷なら
 そこに下すな 鯖くさい

 音頭取りめが 取りくだぶれて
 さいた刀を 杖につく

 禿げた頭を やかんじゃと思て
 番茶つまんで 叱られた

郡上おどり『三百』

郡上おどり「三百」


wikipediaによれば…。

昭和6年5月21日東久邇宮稔彦王が来町し、愛宕公園において郡上踊りの実演を観覧した。

この時保存会員十数名は「三百」「かわさき」を踊り、特に三百踊りは所望により二度踊った。

と書かれている。

何故?『三百』を所望したのか?

YouTubeの処に、この踊りの謂れが書かれている…。

宝暦9年、郡上藩主として転封した青山氏は疲弊しきった藩民に身分の隔てなく300文­ずつ与えました。その感激と驚きに里人が地踊りを披露したのが起源です。稲束を投げる­所作や田げたで湿田を歩く動きなど素朴な農作業のフリが曲の歌詞とともに取り入れられ­ています。

それ故?心に沁みるものがあったのか????

 


郡上おどり「かわさき」

2014年07月27日 | 

 郡上の八幡 出ていく時は 
 雨も降らぬに 袖しぼる

 天のお月様 ツン丸こて丸て
 丸て角のて そいよかろ

 郡上の殿様 自慢なものは  
 金の弩標に 七家老

 心中したげな 宗門橋で
 小駄良才平と 酒樽と


「かわさき」は、郡上踊りの基本となる踊り…で、簡単だと云われるけれど

それは踊ったことが何度もある方の言葉で…

覚えの悪い私には足が~ぁ・手が~ぁ・・・・

と、難しいのであった(-"-)

郡上おどり「かわさき」Gujo Odori - Kawasaki

かわさき

享保年間勢洲(伊勢)古市の里で唄われた川崎音頭が参宮道者によって郡上の地に伝承され、山紫水明の環境の中にさまざまの変遷をたどり、現在のおどりになっているのだそう。φ(..)メモメモ