曇り後晴れ、森末さんの事もあり、今一つスッキリしないものを抱えながら、1987年工芸高校印刷科卒組のクラス会が、11月4日夕刻に上野駅前居酒屋“京の利休”で開かれました。森末さんを乗り越え、更に結束を固めていこうの趣旨もあったクラス会であった。参加は、男子8名、女子6名の計14名で、今回もなかなかの参加であった。話しを聞くと、経済不況やコロナ災禍など厳しい状況を乗り越え、皆懸命に生きてる様であった。会社経営してる者、雇われサラリーマンの者、家庭を切り盛りの者等々、その他それぞれが厳しい世情の中で、自分の持ち味を生かし生きてきたわけで、誰もが順風万歩でなかった。
1987年卒業と記したが、丁度我が国も高度成長が終わり、好景気と好調経済も終わりの頃で、下る一方の経済苦境の30数年であった。K君なども、1日数万食の弁当製造会社勤務だが、コロナ禍の直撃受け、会社の形態や雇用状況なども直撃だったが、乗り越えてきたという。会社経営のS君も、コロナ直撃されたが、会社を大幅に整理して、絵本製造印刷会社として進んでるという。その他、皆それぞれが、厳しい時代を生きてる状況が表明された。最後に私の方から、下記の臨時のクラス通信を配布した。“らいらっく”通信とする名のクラス通信は、入学式日から卒業まで、基本は日刊体制で配布したが、卒業近い1987年2月19日の第305号で終っていた。今回、36年ぶりに306号を出した。
らいらっく №306
2023.11.3
工芸高印刷科クラス通信
追悼 森末千晶君
森末君は、工芸高で全力で学業に取り組み、部活に取り組み、社会人としても成功を収め、良き家庭に恵まれ、良きパートナーにも恵まれ、子供を愛し、地域を愛し、思い残すことない人生だったと思う。打ち込むことがある、愛すべき対象がある、人生の幸せはそこにあるだろう。数年前のクラス会で会い、話を交わし、握手して別れたのが最後であったが、最後の笑顔が焼き付いてる。森末君は、周囲の人々を愛し、また愛され、おおらかな人柄は周囲を和ませ、 森末君の居るところはいつも温かい春風が吹くようだったと思う。1984年入学工芸高印刷科では担任の私がクラス通信を発行したが、これとは別に生徒が週に一回自主的にクラス通信を発行た。
“Friday らいらっく”と名付けていたが、1984年11月30日号を、今回紹介する。森末君の人柄が分る。

当日のクラス会のスナップ2葉載せる。一枚目は、左から常本さん、岡野さん、藤波君。二枚目は、左から福島君、私、渡辺さん、宮沢さん(旧姓麻岡)である。


1987年卒業と記したが、丁度我が国も高度成長が終わり、好景気と好調経済も終わりの頃で、下る一方の経済苦境の30数年であった。K君なども、1日数万食の弁当製造会社勤務だが、コロナ禍の直撃受け、会社の形態や雇用状況なども直撃だったが、乗り越えてきたという。会社経営のS君も、コロナ直撃されたが、会社を大幅に整理して、絵本製造印刷会社として進んでるという。その他、皆それぞれが、厳しい時代を生きてる状況が表明された。最後に私の方から、下記の臨時のクラス通信を配布した。“らいらっく”通信とする名のクラス通信は、入学式日から卒業まで、基本は日刊体制で配布したが、卒業近い1987年2月19日の第305号で終っていた。今回、36年ぶりに306号を出した。
らいらっく №306
2023.11.3
工芸高印刷科クラス通信
追悼 森末千晶君
森末君は、工芸高で全力で学業に取り組み、部活に取り組み、社会人としても成功を収め、良き家庭に恵まれ、良きパートナーにも恵まれ、子供を愛し、地域を愛し、思い残すことない人生だったと思う。打ち込むことがある、愛すべき対象がある、人生の幸せはそこにあるだろう。数年前のクラス会で会い、話を交わし、握手して別れたのが最後であったが、最後の笑顔が焼き付いてる。森末君は、周囲の人々を愛し、また愛され、おおらかな人柄は周囲を和ませ、 森末君の居るところはいつも温かい春風が吹くようだったと思う。1984年入学工芸高印刷科では担任の私がクラス通信を発行したが、これとは別に生徒が週に一回自主的にクラス通信を発行た。
“Friday らいらっく”と名付けていたが、1984年11月30日号を、今回紹介する。森末君の人柄が分る。

当日のクラス会のスナップ2葉載せる。一枚目は、左から常本さん、岡野さん、藤波君。二枚目は、左から福島君、私、渡辺さん、宮沢さん(旧姓麻岡)である。

