切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

朋あり近場より集まりて、しばし飲み熱く語り合いたり、亦楽しからず哉! 2022.6.15

2022-06-16 23:02:03 | 日記


 学生時代のいつもの3人が集まった。
 O君は枚方市から、T君は八幡市から、そして私は宇治市から利用する鉄道がほぼ同じ場所にある桃山駅前。そこに大手筋商店街がある。曜日を問わず時間を問わずいつも賑やかで人の多い商店街だ。
 この日私は午前中、通院があったので少し遅れて合流する。先の二人がどの店にいるのかわからないので電話するも、まったく出ず、たぶん熱中してコールが聞こえないんだろう。しかしおそらくいつもの飲み屋だと思って、そこを覗くと果たして予想的中。加わる。

 もうすでに話の中身が盛り上がっているようで、例によって小難しい中身の話に花を咲かせている。やはりT君が中国の大学の教員をしてるということがあって、中国の若者の現状は国の状況、隣接するロシアとの問題、ウクライナ情勢などと言ったことについて、どのようにとらえているんだろうかという話も聞くことができた。
 一方のO君は修士論文の方は少し横に置いて、全く別の依頼原稿を書いたりしていた。依頼者の共同自費出版になるようだ。いずれにしろ二人とも相変わらず忙しく、またそれを楽しんで大活躍といったところだ。

 O君は間もなく孫が生まれて爺さんになる予定。T君は既に数人の孫をご婦人と一緒に交互に面倒見に行ってるということのようだ。娘さんが高校教員で共働き。3人も小さな子がいるのでなかなか手が回らず、親の援助が必須らしい。T君本人にとってみれば大学のリモート授業の他に、八幡市から車で銀閣寺近くの娘さんの家まで往復しながら、かなりハードな日々といったところだろう。



 ウクライナを侵略しているロシアという国の個人独裁体制、あるいはT君が教えている中国の大学に関わって、習近平独裁体制、そういったものの在り方にどのように接すればいいのか。あるいはそれをどう評価すればいいのか。それらは西側の民主主義諸国との関係で当然語られることになる。実態としては世界約190カ国ある中で、ロシアや中国といった大国の独裁体制というのは別にして、各地の小国でも1個人独裁体制というのが実態としては増えている状況にある。そんな中、民主主義を標榜する国というのは半分もあるのかないのかというのが現状だと思われる。

 ロシアや中国というのは本来ならば広大な面積を有する先進大国、と言うべき存在ではあるものの、政治体制においては一党あるいは個人独裁体制を続けており、ある意味特異な存在となっている。そんな中で暮らす国民の意識というのはどのようなところに行っているんだろうか。ソ連邦が崩壊してロシアになった時に、西側資本主義システムが導入され、一時はロシア国民たちが熱狂的にそれを出迎えたことがあった。しかし政治体制の交代等を通してプーチンが大統領に就任して以降、形式的に資本主義でありながらも、実質的には個人独裁体制の帝国主義国家へと変貌していく。
 中国ではかつては旧ソ連にならって5カ年計画を立てながら社会主義建設を行ってきたものの、圧倒的な数の国民をどのように生活保障をしていくのか、という点から理想的な社会主義のあり方が困難となり、いわゆる改革開放政策の中での資本主義的要素を取り入れる修正社会主義の方向を取り、経済的な側面においては大きな発展を遂げることになる。

 このようなことというのは何も今に始まったことではなく、以前から歴史的に旧ソ連やかつての中国が置かれていた歴史的な立場とも関連する内容であり、そこには大国としての必然的な方向性を目指すに至る要因があったのではないかと考えられる。そのような点に対して今のロシアにしろ中国にしろ、表面的に評価するのではなく、本質的な問題がどこから生じているのかを、歴史的な事実に基づいて分析的に話していくことが大事だと言える。
 メディアによく登場する、ロシア問題の専門家や中国問題、あるいは朝鮮問題の専門家たちの話というのがやはり浅いのではないかとの疑問から、十分な理解が得にくいという問題が出てくる。そういった意味ではただ単に大学に所属する専門家だけではなく、他の様々な人々が、鋭い視点を持ちながら論じているケースが結構あるのではないかと言う。

 そんな話の内容から、作家の浅田次郎氏や司馬遼太郎氏の名前が出てきた。直接上記のような国の問題に関わりがあるないということは置いておいて、やはり鋭い視点から我々が普段見ていないような視点を提示し、様々なものを教えてくれるのではないかと評価する。
 私などあいにく浅田次郎、司馬遼太郎氏、その名前は知っていても作品は読んだことがない。中国近代史を知るには「蒼穹の昴」がおすすめだと進言された。翌日早速スーパーに併設されている書店で探してみると、なんと第4巻まであった。司馬遼太郎では「街道を行く」を勧められた。現在は NHK BS で再放送されているらしい。調べると書籍化されて出版されているのがあるので、そちらの方を見てみたいとも思っている。

 O君はなんとか修士論文の目処がつき、指導教授の評価がつけば無事修士課程修了となる。本人はさらにその先を目指すのかどうか、話しているとどうやらその気もあるようだ。コロナで丸2年程大事な時間を逸してしまったようだが。
 T君の方もあと1年で区切りをつけるようだ。私と同じように基礎疾患があり、タバコもとんでもない数を連続で吸いまくっている。アルコール量もなかなかすごいもんだ。果たして男性の平均寿命まで行けるのかどうか。やや怪しいと思われるのだが。

 私はこの二人のように極めてポジティブな活動や生き方をしているわけではない。せいぜい仏教のことやお寺のことなどを、あるいは神社のことなどを調べたり写真に撮ったりして、ブログにアップし、ときには社会的な問題を考えたりしている程度のことだ。生活パターンも根本的に改善する必要がある状態にある。今更何かの資格なり免許といったものを取得しようと思っているわけでもない。自分に合ったペースで自分の好きなことを中心に、そしてそれが同時に何らかの形で世間に発信できれば十分かな、といった程度だ。

 やはり癌というものを経験してしまうと、頭の片隅には常に「死」というものを感じざるを得ない。友人達に会う時には、ひょっとしてこれが最後の機会になるかもしれないと常に思っている。別に思いたくもないが、どうしてもそういう心境になってしまうのだ。食道癌が今年の秋に寛解となったとしても、次にどこかに再発あるいは転移して、新たな癌が発覚するなんて世間にざらにある。そういった意味ではこれがひょっとして見納めなのか、との意識が常に頭の片隅にへばりついているといったところだ。
 それにしても三人でこのように話をしていると、いろんな意味で大きな刺激を受けるのは確かだ。その刺激が新しいものへの挑戦とまでは言わずとも、ちょっとかじってみようかとの前向きな気持ちにさせる。



 この日は食べる量をだいぶ抑えたので、飲み屋を出て喫茶店で話しした後も特に苦しいことはなかった。帰宅してから自分は自分ですることを、やはり頑張らなければならないと改めて思う。ブログのための資料をあれこれ集めて読んで、どのように文書化するのかを考えてアップする。書きたい内容はかなり溜まっている。お寺関係以外のことがかなり多く、挙げればきりがないほどだ。ブログ一本の文字数を大幅に減らせばもっと楽になるんだが、なかなかそうはいかず、ついつい人から見れば読みづらい長い文章になってしまうのは昔からちっとも変わらない。
 
 次にこの3人で会うのは、T君が中国に渡る前になるだろう。おそらく夏頃か。

コメント
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