切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

長圓寺~智恵光院      京都市上京区    2022.5.31

2022-06-06 22:41:28 | 撮影
長圓寺 (上京区)



 長圓寺は烏丸今出川と堀川今出川のほぼ中間にある。今出川通りからは少し南へ下る。浄土宗本願寺派の寺院で、周辺にはいくつかの寺院が集まっている。
 ネットなどで様々なお寺を調べていく中で、京都府の指定暫定文化財という制度があり、このお寺の山門と本堂が指定されていることを知り訪れることにした。すぐ近くにはやはり暫定文化財に数多くの建物が指定されている浄福寺があるが、すでに当ブログにおいて取り上げている。



 比較的細い路地に面しているがすぐにわかる。山門の柵は閉められていた。しかしかんぬきは外されていて少し動かすと門が開き中に入る。奥の方から呼び鈴が鳴ったのが聞こえた。境内に入ってすぐに住まいとなる建物があり、境内は落ち着いた雰囲気の、緑の豊かな綺麗に整備されたもので心地よさがある。山門が暫定文化財ということで、まずそちらを撮影。正面の建物が本堂と思っていたが、それにしては小さく造りも少し違うようだ。横を見ると塀があり、そこの扉の向こうに本堂が見えた。ちょうど撮影している時に家の方が出て来られ、用件を聞かれた。事情を話し謝罪をして少し撮影させていただいた。
 本来ならば門、あるいは柵が閉まっているということは、閉門扱いということで境内には入れないものだが、いわば勝手に入ってしまったことになる。これでは注意されても仕方がない。インターホンで用件を伝えるべきだったと反省。
 といった事情で、写真の枚数としてはあまり撮ることができなかった。山門や本堂の風化具合から言って、おそらく江戸時代前期から中期にかけての建物ではないかと思われた。もちろん浄土真宗ということであるので、親鸞の時代からはずっと後になるが、念仏が民衆に広がる中で地域に根ざした形で、あちこちに浄土宗や浄土真宗のお寺が建てられ、人々の信仰を集めることになったという経緯の中でのお寺であろうと思われる。
 創建や由緒等については全くわからない。あくまでも建物や境内等を見てみた感じで判断している。

 

 なおこのお寺についてはネットも含めていろいろ調べてみたが、特にこれといった資料はなかった。しかしある人のブログの中に、京都新聞の記事が紹介されていて、このお寺のことが出ていた。
 2016年の記事で、このお寺の本堂から古い写真が見つかり調べた結果、幕末から明治にかけての新撰組の隊員であった島田魁のものだということがわかったと言う。彼は明治に入ってから西本願寺の守衛の仕事をしており、ほぼ同じころ長圓寺の当時の住職も夜間警備の仕事をしていたという。そういったところから島田魁と長圓寺との結びつきがあったのではないかと考えられるという意味のことが、そのブログに記されていた。
 なるほどそういう繋がりもあったのか、ということで、小さな出来事かもしれないが、こういったものが一つ一つ明らかになることによって、歴史の中に埋もれていることが少しずつ発掘され、様々なものが集められることによって、歴史の大きな流れというものが明らかにされるという意味では、非常に意味のあることだと改めて思えた。



智恵光院



『智恵光院
 称念山平等寺と号する浄土宗の寺で、通り名の由来となっている。
 永仁二年(一二九四)に鷹司家の祖・関白鷹司兼平が一族の菩提寺として、如空国師を開山に請じ創建したのが起こりと伝えられる。
その後、聞益上人によって塔頭が整えられ、隆盛を極めた。
 享保一五年(一七三〇)と天明八年(一七八八)の大火ですべて焼失し、漸次再興されたが、第二次世界大戦中、強制疎開で塔頭四院も廃寺とされ、現在の規模に縮小された。
 本堂には本尊阿弥陀如来像が祀られている。また、地蔵堂には、仏教で死後にいずれかに転生するとされる六つの世界、「地獄道」「餓鬼道」「畜生道」「修羅道」「人道」「天道」のすべてを救う力を一体の像に込めて、小野篁が作ったと伝えられる、六本の手を持つ六臂地蔵像が安置されている。
 そのほか、辨財天を祀った小堂などがある。
  京都市』   (駒札より)

 

 堀川通りと千本通の中間を南北に走る智恵光院通沿いにある。お寺の名前はこの名に由来するものといわれる。創建が鎌倉時代の中期頃であり、当時は現在よりも東の方にあったと考えられている。隆盛を極め広い境内と多くの塔頭寺院を有し、有力なお寺となったが、その後江戸時代には度々の災禍に見舞われ、大きな勢力は縮小されてしまう。

 門の前に着くと大きい扉があり閉門されているが、横の車の出入り口から自由に入れる。しかし注意書きが張り出してあって、関係者及び檀信徒以外の入場を禁ずる、とあった。このようなものを先に見てしまうと心理的に極めて入りづらい。
 少し境内に入る。思った以上に広々としている。しかし境内中央は舗装された部分もあったりして、植栽は少なめだ。その境内を取り囲むように本堂などの建物、また鐘楼もあり、かつては有力な寺院であったことが伝わってくるようだ。
 先ほどの注意書きの件もあって、本堂などに近寄りがたく遠目から撮影をした。従って建物の近くにあるような石造物などは一切撮影できず、大まかな撮影だけで終わってしまう。

 

 駒札には小野篁が作ったと言われる六臂地蔵像が安置されているとある。小野篁はもともと歌人であり、平安初期の人だ。小野妹子の子孫にあたると言われている。一方智恵光院は鎌倉中期の創建であり時代的にはかなり離れている。
 もともと小野篁がどこかの寺院のために、あるいは貴族のために作ったものが、何らかの人間関係を通して、こちらのお寺に安置されるようになったものなのか。あるいは六地蔵が各地に安置されると言うことで、この地蔵もその中に加えられたのか。何らかのそのような理由があるものだと思われる。


コメント
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