室城神社
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『延喜式内 室城神社(むろき じんじゃ)
祭神
邇邇藝命 ににぎのみこと
須佐之男命 すさのおのみこと
大雀皇子命(仁徳天皇) おおささぎのみこのみこと
迦具土之命(火の神) かぐつちのみこと
由緒
当社は、聖武天皇の神亀年間(七二四~七二九)に近国に大洪水があり、民衆が飢えていた時、勅して天神地祇をこの地に奉祀したのが始まりとされる。
また同天皇の御代、悪疫流行に際し、当社に弓矢を献奉して、その退散を祈願された。今に伝わる春祭(矢形餅神事)の起源とされ、神事では弓矢を象った特殊神饌が供献される。
また、寛永七年(一六三〇)木津川堤切により、当社の壮大な社殿が記録とともに流失した。その後再建された現在の社殿は、規模が縮小され、今なお仮殿であると言い伝えられている。
当社は境内に護国山神宮寺と称する宮寺を有していたが、明治維新に際し除かれた。』
(駒札より)
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久御山町の神社。続いては木津川沿いにある室城神社。
Google Mapの地図上にも載っていない。大きく大きく拡大して最大限にしたい時にようやくこの名前が現れる。一般の地図帳ならばどうなんだろうか。本来なら載っていても当然とも言うべき歴史的にも由緒のある神社だ。
もちろん車で行ったが、ナビにも現れないし、ナビの地図を最大限に拡大してやっと名前が出てきた。もちろん検索候補には全く入ってもいない。ナビをあてに車を走らせると途中から脇道に入り、細い道を何度も曲がって木津川の堤防沿いに出る。そこに立派な鳥居が立っていた。
早速鳥居の写真を撮って境内を進んでいく。何とも予想以上に広い境内であり、その奥には森が広がっている。拝殿・本殿もかなり立派なもので、見応えと言うか撮影のしがいもある。これだけの神社がなぜ地図上ではほとんど扱われていないのか、全く不思議だ。
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入り口に駒札があって、その文章を上に載せている。簡単な流れは由緒の通りだ。ただ由緒書きというのは公的機関以外は、その神社や地域にとって割と都合のいいように書かれている場合も結構あるようで、歴史的な考察がどのくらいなされたのかはよくわからない。室城神社の駒札も記名がなく、おそらく氏子さんたちが立てたものだろうと思われる。本来ならば久御山町教育委員会などの記名があるはずだが、何もないというのはやはり神社独自、つまり氏子さんたちが立てたんではないかと思われる。
ただし次回に出てくる玉田神社というのは神主さんが常駐する神社であり、久御山町の主要な神社のほとんどが無人であるために、玉田神社の神主さんが管理しているということだ。そういった点からは、玉田神社の方でまとめ上げたものかもしれない。
祭神は上記の如く、古事記などの神話に登場する神達だ。仁徳天皇も記載されているが、この人物自体、その実在性についてはいろいろな説がある。
大阪の仁徳天皇陵中心とする古墳群が、世界遺産に登録される可能性が高まったということで、連日ニュースで流されていた。その中で最大の仁徳天皇陵、別名大山古墳はほとんど調査が行われていない。かつて堀沿いの一部が簡単に調査されただけで、肝心の前方後円墳の中心部については、宮内庁が頑として調査することを許さない。宮内庁は、あくまでも仁徳天皇陵だと主張している。したがって様々な古文書とから類推するほかなく、勘ぐれば万世一系の天皇の立場について不都合な真実があるのかもしれない。
このように神話の登場人物が祭神となっているのは、そのぶんだけ古い歴史を持つことを表しているとも言えるが、創建の時期についてははっきりしない。駒札では奈良時代ということになりそうだ。
室城神社という名前は元々は「室樹」であったものが「室城」になったようで、この地を開拓した古代豪族である、榎室連(えむろのむらじ) の祖先を祀るために建てられたものではないかと考えられている。
またこの辺りは「下津屋」と言う地名であり、すぐ近くを流れる木津川の水運の拠点であったことがわかる。この地名はかなり古くから使われていたようで、今現在も残っているが、さらに 下津屋の後に「室ノ城」という地名が続く。このような例はあちこちの神社の周辺でもよく見られるものであり、古い時代において天災や疫病等の災難に対して人々は無力であり、ただただ神を祀って祈るということが、生活上大きな意味を持っていたんだろう。だからこそ神社の名前が地名として定着するというケースがあちこちに生じたものといえる。
平安時代の延喜式神名帳にはこの室城神社が掲載されており、これを根拠に「式内社」として認知されている。ただ木津川の少し上流の城陽市に水主神社というのがあり、この境内外末社として同名の室城神社というのがある。これは偶然の一致とは考えにくいが、昔はこちらの方が式内社ではないかと考えられたこともあったようだ。しかし明治時代になってから様々な考証を経て、こちらが式内社として比定されることになった。
掲載写真の鳥居の横に大きな石柱が立っており、そこにはっきりと「式内」と彫られている。であるからこそ、地図などにも掲載されていないのはやはりおかしいのではないかと思わざるを得ない。
ところで榎室連だが、祖先が聖徳太子が山城国へ来た時にお仕えしたことが気に入られ、室城の呼称を頂いたという話がある。今や聖徳太子の存在そのものが疑わしくなっているところでもあり、仮にそうだとしても、奈良時代以前の話となってしまう。このようなことを一つの説として昔から伝えられているということを聞くと、古代の人達やその後の人たちによって記された古文書の内容というのも、色々とお疑わしいものに思えてしまう。専門家の学者さんたちは様々な文献を調べたうえで、真実の歴史を明らかにしようとしていると思うが、千年も昔の話となるとなかなか難しいものだろうと改めて思わされた。
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このように色々な話はあるものの室城神社そのものは、すぐ近くを第二京阪国道が走っていて少し騒音が届いてくるが、大きな森もあって非常に落ち着いたいいところだと思えた。
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