切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

京都府久世郡久御山町の神社 ① 若宮八幡宮~荒見神社

2019-05-14 23:01:47 | 撮影

若宮八幡宮



『京都府登録有形文化財
若宮八幡宮本殿 一棟

 三間社流造 銅板葺
 室町時代後期
 平成七年三月十四日登録

 現在の本殿は、三間社流造、銅板葺で向拝を付し、江戸時代中期に建てられた覆屋内にある。向拝の打越垂木などは面取りでかなりの反りをもち、三斗の組物も大面取りの伸びやかな姿をしている。また、向拝中央間にのみ竜と笹を意匠する蟇股を置いている。
 本殿の建立年代については、永正六年(一五〇九)の「若宮八幡宮ト葺置文」及び天文十九年(一五五〇)の棟札に屋根葺替が行われたとあり、向拝の組物、桁、垂木等の形式手法からみて、室町時代後期に遡るものと思われる。
 本殿は、山城地方の神社の中でも室町時代後期の用材を多く残した本殿として貴重であり、中近世における修理の経過も棟札から判明でき、当時の村落における鎮守の存在形態を知ることができるものとして注目される。
 平成七年三月
 久御山町教育委員会
 (駒札より)

 
 久御山町の若宮八幡宮については、2年前の6月8日付の当ブログにおいて紹介している。 今回は久御山町内の主要な神社を順番に訪ねる一環として、まずここを訪れた。
 若宮八幡宮についての情報は実は非常に少なく、手持ちの乏しい書物やネット上で調べてもほとんどないに等しい。地図上でも隣接する公民館が記名されているだけで、若宮八幡宮の名前は出てこない。
 したがって一般的にはなかなか知られていないし、地元の人たち以外には完全に見過ごされている神社でもある。
 上記の駒札の記述にあるように本殿は、京都府登録有形文化財に指定されており、本来ならばもっと知られて、神社やお寺ファンが訪れてもよさそうなものだ。
 加えて残念なことに、この神社そのものが境内も非常に狭く、さらに住宅密集地の内部にあって、すぐ近くを幹線道路が走っているが、そちらからは全くわからない。つまり地理的にも極めてわかりにくい条件が揃ってしまって、結局のところかなり詳しい人でないと、この神社の存在そのものを知ることはないだろう。もちろん地元の人達にとってみればごくごく当たり前のようにずっと存在し続け、地域の氏神さんとして祭事なども行われている。この日も予想通り境内には誰もいなかった。
 写真は2年前のものとほとんど同じような内容のものだが、異なるのは一眼レフの機種の違い。それと昨年の台風21号による被害が少しあったようだ。
    
 今回使用したカメラは数千円で入手した1000万画素の10年余も前の機種。色彩などの設定をしていざ撮影してみると、予想以上の写りに少々驚いた。ブログへの掲載ということであれば最新鋭機種と比較しても、階調表現や一部の写りを除いてはさほど遜色がないようにも見える。ちなみにオリンパス機だ。
 なお神社にまつわる話などについてはもう少しあるので、2年前の記事を参考にしてもらえればと思う。
  


荒見神社



『荒見神社
祭神 武甕槌命(たけいかづちのみこと)・別雷大神(わけいかづちのおおかみ)・倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
仲哀天皇・応神天皇
本殿 流れ造り、檜皮葺四坪
向拝所 唐破風造り、瓦葺三坪
拝殿 入母屋造り、瓦葺六坪
末社 天満宮(祭神、菅原道真)
   厳島神社(祭神、市杵島姫命)
社務所 入母屋造り、瓦葺一二坪
境内地 五二五坪

由緒
 田井の氏神である荒見神社は、「久世郡神社明細帳」によれば、「明治六年村社ニ被列、同年延喜式内ニ荒見神社記ト決定ノ旨府庁ヨリ達セラル」とあって、明治六年に式内社に確定された。延喜式内社とは、延喜五年(九〇五) 、藤原時平・忠平らが醍醐天皇の命により編さんに着手し、延長五年(九二七)に完成した『延喜式』巻九・巻一〇の神名帳に登載された神社であるが、荒見神社については、『延喜式神名帳』に久世郡荒見神社と記載されているもので、鎮座地については、城陽市富野荒見田にも荒見神社があり、現在論社となっている。
 いずれの社が式内社であるかということについては、両社が荒見・荒見田という類似する小字に鎮座し、また同郡に所在するうえ、共に五神を祭神として五社明神と通称していることなどから、どちらが式内社であるかの結論は下せない。
 荒見神社の由来は、近世の地誌類である『山城志』によれば、「今佐山村の西、大字田井に荒見の字あり、寛永七年洪水のため社地を失い、今の地に移す」と記されている。旧鎮座地は明らかでないが、伝えるところによれば当社の東南、下津屋に接する小字西荒見とする説がある。
 久御山は江戸時代、三年に一度平年作であればよいといわれるほど、洪水の多発地帯であった。田井を襲った寛永七年(一六三〇) の洪水は、特に被害が大きかったらしく、社寺をはじめ、民家のほとんどが流失したという。土地はその後現在地に移され、寛文四年(一六六四) の棟札(荒見神社所蔵)に「因正一位五社大明神社皆造宮、寛文四中辰歳大施主当村氏子中」とあって、水害後の造営であることがわかり、そのことは現在の社殿の建築様式からもうかがえる。

神仏習合
 明治維新までの荒見神社は、石清水八幡宮の影響を受けて、神仏習合の顕著な神社であった。安政四年(一八五七)に作られた「田井村寺社明細帳」には、氏神正一位五社大明神(荒見
神社)の項に、「真言宗 無本寺薬師堂 氏神境内にこれ有り候」とあり、また、「氏神御旅所 真言宗地蔵堂」と記されている。
 境内の薬師堂は、梁間二間・桁行五間瓦葺の建物で、神仏分離後は移設・改築されて社務所等になっている。
 また御旅所となっていた地蔵堂は、一間半四方の小さな堂宇であったが、境内は二五〇坪と広く、古老の伝承によると、集落の北辺にあったとされる。神仏分離後に地蔵堂は廃されたが、本尊地蔵菩薩像は円福寺に移安され、地蔵盆等で供養が続けられている。
 なお、荒見神社境内には弘法大師石像が安置されていて、神社に祈願して病気が治った信者が寄進したものと伝えている。

本殿
 寛文四年(一六六四)に再建された本殿は、獅子の彫刻や、柱・木組に残る極彩色の絵模様は、色彩が僅かに褪せているものの、江戸時代前期の建築様式を今に伝え、唐破風造りの重厚な向拝所と共にすぐれた建造物である。

社標と万葉歌碑
 参道入口の右手に、四メートルに及ぶ社標が建立されている。「式内荒見神社」と大書した文字は、明治三十三年十二月、正二位勲一等伯爵東久世通禧が揮豪したものである。東久世通禧は三条実美と共に明治維新の元勲で、侍従長をはじめ、元老院・貴族院・枢密院の副議長を歴任し、明治四十五年一月に没している。また、参道入口の右手脇に平成三年六月に建設された万葉歌碑がある。磨き御影石に「巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田井に雁渡るらし」と、「万葉集」巻九に記載される歌詩が刻まれている。歌詩の「田井」にちなんで建立されたもので、久御山町唯一の歌碑である。

宮主と宮座
 戦前まで荒見神社には、宮主・宮座制度があった。宮主の起源は、昔、田井氏の本家が五社大明神社を創建したと伝え、後になって本家が三社を守り、二社の祭祀権を黒川氏と田井氏分家に委任したという。
 秋祭りの宵宮(十月八日)には、本家から栗・柿・鏡餅・玄米を合計二〇貫匁(七五キロ)と鯛・鯉を神饌として供えた。九日の本祭は二基の神輿が出て賑わっていたが、洪水で神輿を失ってからは、参道の人口に大提灯と、村の入口に高張提灯を掲げる程度の祭りに変っている。戦後、荒見神社の祭礼は、宮主・宮座から総代に替わり、祭祀運営を司どっている。
  (パンフレットより)

   
 続いて国道1号線沿いにある荒見神社へ行く。
 こちらについても、2年前の8月17日付の当ブログにおいて紹介しているので、詳細はそちらを参考にして欲しい。また久御山町そのものについても少しだが、その場で紹介している。
 約2年ぶりに訪ねたが、全体の雰囲気はあまり変わっていないものの、やはり台風21号の影響で何本もの巨木が倒れ、根元が切り取られていた。境内は本来ならもっと鬱蒼とした森という感じだ。前回撮影して境内のどこにも由緒書きがないので、困ったなと思っていたら、ビニール袋に入ったパンフレットが1部だけ残っていた。それをありがたく頂いた。おかげでかなり詳しい由緒書き等が分かり上記にも掲載している。
  掲載写真を見てわかるとおり、神社入り口の石柱には「式内」という文字が見える。もちろんこれは平安時代の「延喜式神名帳」に記載されている神社のことを示しているのだが、となりの城陽市にも同名の荒見神社があり、実際のところどちらが式内神社なのか、決定的な証拠がないまま、明治時代に久御山町のこちらの方が式内神社として認められた。
 2年前のブログでも述べたように、実のところ本当にそれで正しいのかどうかというのは、その後の様々な研究から色々な疑問も出されており、未だに両者を論社扱いとして考える研究者もいるようだ。
 城陽市の荒見神社の本殿は、国の重要文化財に指定されている。対してこちらは特に文化財指定は何もない。しかし本殿は江戸の比較的初期に再建されたもので、歴史的に見ても何らかの文化財指定になってもいいのではないかとも思える。
     
 様々な古文書の記録から、久御山町の荒見神社が少なくとも奈良時代頃には存在していたと考えられている。もう1000年以上経っているということだ。そういった意味では 城陽の荒見神社とともに、悠久の歴史を歩んできた由緒ある神社と言える。再訪してみて改めてその雄大な歴史を感じることができた。

  
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