玉田神社
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『玉田神社
祭神
武甕槌神 たけみかづちのかみ
誉田天皇(応神天皇) ほむらのすめらみこと
天児屋根命 あめのこやねのみこと
武内宿弥命 たけのうちのすくねのみこと
社記によれば和銅三年(七一〇)元明天皇の勅願により創建と伝えられ、往古は美豆野神社(みづののかみやしろ)、または丹波津宮(たにはのつのみや)と称されていた。
その後の変遷はつまびらかでないが、当社に保存されている棟札によれば、天正十四年(一五八六)五月御牧城主御牧勘兵衛尉尚秀が願主となり社殿を再建した。その後寛永元年
五月(一六二四)淀城主板倉伊賀守高勝ならびに御牧八郷氏子惣中によって造営が行われている。玉田神社境内には、姫大神社(ひめのおおかみ)・稲荷神社・市杵神社・金比羅の四社があり、本社の祭神とあわせて八神を祀ることから玉田八社大明神と称し、方除け・鬼門除け祈願の神社として知られている。また玉田神社には、本当座(東一口(ひがしいもあらい))・御幣座(東一口)・御箸座(東一ロ)・明主座(中島)・森当座(森)・相島北当座(相島)・相島中当座(相島)・玉弓講(坊之池)の宮座があり、秋祭りには各宮座の神宝を奉じて社参する伝統の神事が続けられている。
平成二十八年九月
久御山町郷土史会』
(境内掲示板より)
『玉田大明神火難除け 御霊験名馬火鎮由来
聖武天皇の御代 (七二四~七四九)、天皇から橘諸兄公に詔勅があって、御牧の馬を召しださせ給うた。橘諸兄公は勅を奉じて、この御牧の地より一頭の名馬を求めて、天臭に献上した。天皇は馬を叡覧されて、「誠に希代の名馬である。」と感激され、橘諸兄公の忠誠を讃えて、左大臣橘諸兄として最高の貴族に列せられた。
ある時、この馬が三日間いななき続けた。人々は不審に思い、何か不吉なことが起こるのではないかと心配した。案の定、三日後に御所の内裏の外で火災があった。馬は炎の上がるのを見て、猛ること甚だしかったが、やがて火は鎮まり馬もおとなしくなった。
しかるに幾日も経たない内に、全く前と同じように、馬が三日間いななき続けた。そして三日後再び内裏の外で火災が起きた。すると馬は、くつわを強く繋いであったにも関わらず、くつわを抜いて御厩舎を飛び出してしまった。人々はあわてて止めようとしたが、手の付けられない勢いで紅蓮の炎の中に飛び込んでいった。すると不思議なことに、火はことごとく鎮まっていった。人々は何としたことかと感心して騒いでいると、しばらくして、馬は煙の中より現れると、静かに御厩舎の中に入っていった。
このことが聖武天皇に奉上されると、天皇は「誠に希代の名馬である。」として、詔勅により『火鎮』と名付けられた。そしてこの馬は、天皇が深く信仰されている玉田大明神が召させ給うた神馬であろうとして、橘諸兄公に勅されて、元の御牧の地に返された。御牧郷の人々は、この話を伝え聞き、奇特な名馬であると讃えて、火難除けの神馬として大切に扱った。そして、やがて年を詮て名馬『火鎮』は死んでしまった。
御牧郷の人々は、名馬にふさわしい立派な塚を造り、馬見塚と名付けて、『火鎮』の亡骸を丁重に葬ったと伝えられている。(当社現存の版木「御霊験名馬火鎮由来」より)
当社では、玉田神社に由来するこの故事にちなみ、名馬『火鎮』の御守りを授与しております。』
(貼り出し説明書きより)
『玉田神社
祭神 武甕槌神 誉田天皇(応神天皇)
天児屋根命 武内宿弥命
本殿 四間社流造、檜皮葺、向拝二間付
末社 姫大神社 祭神 天照大神
稲荷神社 祭神 倉稲魂命
市杵神社 祭神 市杵嶋姫命
金刀比羅神社 祭神 大物主命
大己貴命
由緒
玉田の森に鎮座する玉田神社は、古来より美豆野神社または丹波津宮と称され、御牧郷八カ村、すなわち東一口村・西一口村・釘貫村・相島村・中島村・坊之池村・森村・江ノ口村の郷氏神として朝野の崇敬を集めていた。
社伝(日本最初方除八社大明神略記)によれば、元明天皇の和銅三年(七一〇)、当時の祭神は、武甕槌神・経津主命・天児屋根命・市杵嶋姫命の四神であったが、藤原京から平城京への遷都に際し、皇城鬼門除けの勅願により、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・武内宿祢命の四神を勧請し、合わせて八神となり、元明·元正両天皇の御代には朝廷より奉幣を賜ったとあり、その後、桓武天皇が山城に遷都されるときも当社に鬼門除けのうかがいをたてられたと伝える。
したがって玉田神社より授与する方除けのお札は、災害方災解除、悪方を吉方に転じて、普請・造作・家の移転・婚礼・旅行・開店などに霊験あらたかな神社として信仰されている。
また当社所蔵の天正十四年(一五八六)の棟札に「丹波津宮」とあることから、寛永十四年(一六三七)淀藩主永井尚政が淀城下町整備のため、木津川付替え工事を行ったが、それ以前は、木津川旧流路沿いの丹波津に鎮座していたのであろう。丹波津の西には『延喜式』左右馬寮に「山城国美豆廐畠十一町。野地五十町余」とみえる「美豆牧」もあり、先の社伝にいう「代々の帝信仰浅からず」の伝承や、「名馬火鎮由来記」の記述にも当社と朝廷との関係の深さを知ることができる。』
(パンフレットより)
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久御山町の神社巡り。続いては玉田神社。
実はここへは既に何度も来ている。そのたびに写真も撮って、確かこのブログにもアップしたような気がするが、自分のブログ内を探しても出てこない。題名に玉田神社の名前を入れなかったからかもしれない。
久御山町には雙栗神社と言う、本殿が国の重要文化財に指定されている大きめの神社がある。この玉田神社の本殿はおそらく、それに次ぐ規模の本殿を有していると思われる。
玉田神社の由緒については上記に色々と掲載しておいた。結論から言えばこれでほぼ全部わかるといってもいいくらいだ。そういうことでここでは、色々と調べたプラスαの内容について少し記しておく。もちろん上記の由緒書きとダブルことも色々とある。
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久御山町という地名は戦後間もない頃、町村合併で元からあった「御牧(みまき)村」と「佐山村」が合併し、それぞれの文字に「久世郡」から1文字を取って組み合わせたのが「久御山」となったと言う。そういう点では久御山という地名が古代からあったわけではない。しかし御牧村というのは古代よりこの地が「御牧郷」 と呼ばれ、長い歴史を持つ。この「御牧」 というのはここに朝廷の牧場があったことからこのように呼ばれたと言う。
御牧の名前は久御山町ということでなくなってしまったが、町の保育園や小学校の名前として今現在も使われている。これであれば廃校にでもならない限りずっと歴史的な名称が存続するということだ。ちなみに佐山村の佐山の地名は今現在も住所名として残っているし、小学校や郵便局など色々な所で使われている。
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玉田神社自体は上記にある通り、西暦710年創建となる。平城京遷都の年だ。その後天皇は北方の守りや方除を、この玉田神社に位置づけるということで、元々あった四つの祭神に加えて、さらに四つの祭神が加わり、八つの祭神を有する神社となった。そういった意味では朝廷にも名前が響くかなり有力な神社だったことが分かる。
その後も遷都などにあたって、この玉田神社にお伺いを立てるということもあるほど、相当重要な地位にあったようだ。かつては広大な境内を有し、玉田の森と言われるほどの勇壮な森があったとのことだ。
しかし社記によれば 、創建のずっと前の仁徳天皇の時代に、木津川に御神体が流れ着き、それを引き上げて祀ったと言う。仁徳天皇の時代ということで、どれだけの信憑性があるのかどうかはある意味疑わしいところだが、とにかく記録としては残っているようだ。そこでその近くに「丹波津宮(たにはつのみや)」を建てたと言う。この名称の中に「津」の文字があることから、おそらく木津川沿いの辺りに建てられたものと思われる。現在では玉田神社から木津川までは少し距離があり、その近くがいわゆる三川合流地点となっている。ずっと後に川の氾濫などで流路が変わったのかもしれない。玉田神社の社記にも、以前はこの丹波津宮という名称であったことが記されている。
建てられた場所は今現在、華台寺というお寺が建っている。それ以前には法楽寺というお寺があった。すでに廃寺となっているが、華台寺の建っている辺りが、住所では法楽寺という地名で未だに残っている。
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今回、神社を訪れて最も驚いたのは、一の鳥居、二の鳥居、そして本殿が「国の登録有形文化財」に去年指定されたということだ。重要文化財などとは性格が違うものと思われるがいずれにしろ、かなり歴史的な価値の高い建造物ということで、国が認めたというのは非常に大きいことだ。たぶん地元の新聞にも載っていたと思うが、いつも飛ばし読みをしているいい加減な私なので、それを見逃してしまっていると思う。
本殿の写真を撮っていると、すぐ横に小さな農地があり住居が立っている。この神社の神主さんのお宅だ。ちょうど神主さんの奥様が農作業をされていて、少しお話をすることにした。
あちこちの例に漏れず、ここでもお賽銭泥棒が多いようで、昼間はなるべく農作業などして本殿の近くにいるとのこと。神主さんは、久御山町内の主要神社で無人の神社を管理する役職もこなしているということで、毎日大変忙しいようだ。しかもここに登録有形文化財に指定されたということで色々と大変らしい。
本来ならばセキュリティ対策用に情報監視カメラなどを何台も設置して、という風なことも行われるが、こちらの神主さんの個人的な考えで、いかにも参拝者を見張っているような感じにはしたくないということで、最小限にとどめるようだ。それ以上に大変なことが、本殿の修復工事。屋根は茅葺きで風雨による痛みが激しく、特に昨年の台風21号では玉田神社もかなりな被害を被ったと言う。そのことも含めてちょうどこれから全面的な修復工事に入るということだった。工事費用は約1億5000万円。大変な金額だ。奥様に聞いたところ、いくら国の登録有形文化財といえども、修理工事の補助金はほとんど無きに等しい。京都府や久御山町からの補助金も雀の涙と言われていた。結局は周辺の氏子さんたちから寄付を募るという形でせざるを得ないとのことだ。観光寺院や観光神社と違って、このような質素なさほど知られていないところでは、経済面でも非常に厳しいものがあるのが現実だ。それでも地域の氏子さんたちの熱心な活動によって、目処は立ったようだ。
このようなお話を聞けるというのも、お寺や神社を訪れているととても良いものだと思える。単に駒札や説明書きだけで済んでしまうというのも何かそっけない感じで、やはり関係者とお話ができることが非常に望ましい。
この神社に関わっては後年、近くに御牧城と言う地域豪族が造った城があり、この城を巡って承久の乱や豊臣秀吉などの関係が出てくる。あるいはまた上記の住所にもあるように、この地の馬を朝廷に献上したことによって、橘諸兄が大きく出世したという話もある。そういったことも含めて書いていくときりがないので、上記の駒札や説明書きの内容に任せる。
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それにしても玉田神社がこれほどの歴史的な由緒を有し、重要な位置づけにあったことを改めて思い知った。また一ついい勉強になったと思う。
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