切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

通院の帰りに 萬寿寺・即成院(東山区)~真宗院・嘉祥寺(伏見区)・・・お寺は落ち着きます

2018-07-07 23:25:26 | 撮影


 6月下旬、がん治療の通院診察が午前中に終わったので、病院で昼食をとり、すぐ近くのお寺を回る。
 病院の向かい側にあるのが萬寿寺
 東福寺の塔頭寺院となる。ここは何回か訪れているが、門を兼ねた鐘楼の前に「拝観謝絶」と書いてある。いつか空いてる時がないのかと思いつつ、この日も訪れてみると、謝絶の貼り紙はあるものの、門扉が開いていた。
 少し中に入り写真を撮る。本堂や庫裏の前までは残念ながら行けない。とりあえず境内や伽藍の様子を撮影した。門を兼ねた「鐘楼」というのが重要文化財に指定されている。これは門ということで外側から自由に撮影できるが、鐘楼の部分がよく見えないような構造になっているのが残念。
 萬寿寺には多くの重要文化財の仏像などがあるが、基本的にほとんどが非公開。一部、京都国立博物館に寄託されているものがあるので、何かの機会にそれを見ることができるかもしれないが、ほとんど期待薄。できれば本尊の阿弥陀如来を見たいとは思うものの、何かの特別公開がない限り無理だろう。

    

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(泉涌寺総門)

 続いて病院の裏側にある泉涌寺の方へ向かう。総門に到着するとそのすぐ横に即成院がある。
 以前から何度もこの前を通りながらもパスしていたお寺だ。境内に駐車できることが分かって乗り入れる。この日は誰も来ていなかった。
 泉涌寺の塔頭寺院。平安時代の創建。別名「那須与一さん」と呼ばれていてゆかりのお寺として有名だが、元々那須与一というのが実在人物なのかどうかよく分かっていない。一応境内の奥の方にお墓がある。そちらの方にはあまり興味がなかったので、本堂へ直行。
 ここには素晴らしい仏像群がある。本堂の扉を開けて中に入ると受付があって、拝観料を支払ってその仏像群を見る。若いお坊さんが案内しつつ説明をしてくれた。これが「阿弥陀如来及び二十五菩薩像」であり、全26体が国の重要文化財となっている。文字通り壮観。見事としか言いようがない。大半が平安時代後期の作とをされているが、一部は江戸時代に彫られて追加されたものだと言われている。これを見るだけでも十二分に値打ちがある。

            (WEBより)

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 次に帰る途中に伏見区の二つのお寺に立ち寄る。

『真宗院
 根本山、浄土宗西山深草派の寺院。宝治年間(一二四七~一二四九年)後深草天皇の帰依を受けて、現在地より少し西南に「真宗院」(浄土の真宗)の寺号を賜り、円空上人が建立した。
 円空上人は、法然(浄土宗の開祖)の直弟子証空(西山派の祖)に教えを師事し、遠望される西山の夕日が、日想観に至高の場としてこの土地を選んだ。ここを根本道場に、のち誓願寺の住持となって宗義を弘めた。
 北朝で持明院統の祖である後深草天皇は、ここの法華堂に遺骨を安置(十二帝陵の最初)されたと伝わる。しかし、応仁の乱で衰微、江戸期に再興される。
 本堂は大正期に焼失のち再建。真宗院山に創建者の円空上人廟がある。その参道西側の墓地に、「日観亭跡」の石碑がある。また、山脇東洋一族の墓がある。東洋は宝暦四年(一七五四年)京都所司代の許可を得て死刑囚の腑分けに立会い、観察記録を行った。そして宝暦九年(一七五九年)に解剖図録「蔵志」に著した。
 その横に墓のある父、法眼玄心(はるなか)は、後水尾天皇の主治医で相談相手でもあった。また、天明の義民一揆、伏見の住人文殊九助らが、江戸幕府への直訴をこの寺で会合し、決定したところでもある。
 京都市 (駒札より)

 まず真宗院。比較的大きな規模だが、全体的に新しい感じがする。それもそのはず。本堂は100年ほど前に焼け落ちて、その後に再建されたと言う。全体的な印象としては特に華やかさもなく、ごく一般的なお寺という感じだが、かなり長い歴史を持ち、様々な経緯がある。
 山脇東洋の墓があるとは全く知らなかった。それよりもちょっと気になったのは、駒札にある「天明の義民一揆。」
 これは当時、庶民が飢饉などで苦しんでいる最中、伏見の奉行が賄賂などで私腹を肥やし、好き勝手な生活をしていることに憤った庶民の人々が集まり、直訴しようとこのお寺で相談をした。当然直訴は、場合によっては命がけとなる。彼らはそのことを承知の上で直訴をした。しかし逆に彼らは拘束され、牢獄へ入れられる。ただ伏見奉行は解任され、その後、田沼意次が伏見奉行に就任したと言う。投獄された義民に対して赦免の動きがあったが、それが叶わぬまま全員が牢獄内で病気などで死亡してしまった。権力者はこのようにして庶民を苦しめた結果、それが遠因の一つとなって、幕府滅亡につながっていくことになる。

          

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『嘉祥寺
 嘉祥四年(八五一)二月、文徳天皇は先帝、仁明天皇の菩提を弔うために、その陵の傍らに清涼殿の建物を移して寺とし、年号をとって嘉祥寺とした。開山は真雅。元慶二年(八七八)には定額寺となって官寺の扱いを得、寺域も広大な大寺であったが、平安時代の後期には衰微して仁和寺別院となり、更に室町時代の応仁、文明の大乱により焼亡した。
 しかし、寛文年間(一六六一~一六七三)に、かつて深草十二帝陵の管理に当たっていた安楽行院を空心律師が再興し、その際、同院境内に聖天尊を祀って嘉祥寺も再興され、更に元禄十二年(一六九九)、勅許を得て本堂が上棟された。
 ただし、再興された嘉祥寺は位置も旧寺域とは離れているため,、その名を継ぐだけとなっている。なお、堂内には十一面観音や不動明王像が安置されている。
 俗に深草聖天と呼ばれ、開運招福祈願の信仰がある。
 京都市 (駒札より)

 最後に真宗院すぐ近くにある嘉祥寺へ行く。入り口が鉄製の門扉で拍子抜けしたが、正式な山門はわからなかった。ここも古い歴史があり、平安時代の創建となる。境内は比較的狭く、本堂などもそっけない感じがするが、歴史的には皇室ゆかりの寺ということもあり、一時は広大な境内を有する大きな寺であり、多くの人々の信仰を集めたと言う。今では何かひっそりとこの位置に静かに佇んでいるような感じだ。

       

 ということで、昼から4か所回ってきたが、お寺の有名無名、大小、格式などの違いはあるだろうが、どこのお寺を訪ねても境内はきれいに整備されており、その様な歴史を持ちながら今に至り、地域の信仰を集めているという点では同じだと言える。
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