宇治市の大久保にある。
すぐ近くを近鉄京都線の大久保駅の高架線が通っており、電車がひっきりなしに往来している。周辺は飲食店や様々な店舗があり、一歩入ると住宅街やマンションが建ち並ぶところ。
その一角にかなり広い境内を有する旦椋神社がある。第一鳥居からかなり長い参道が続き、拝殿から本殿へ至る。本殿はかつて塗装が大きく剥がれ、かなりひどい状態だったらしいが、近年助成を得て見事な極彩色に塗り直され、見事な姿に蘇った。
神社の縁起については、境内に掲げられていた立て札に、以下のような説明があった。
日本書紀にも登場すると言うから、相当な歴史を持つ神社だ。栗隈県というのは、今の大久保町の地域で、かつては現在の西の方に位置していたと言う。今もその地域は旦椋という地名が残っている。
この地区では穀物が栽培されいて、それが無事に収穫できるようにとの願いから、このことを祀るために創建されたらしい。その穀物を保存するのが校倉、つまり穀物倉庫であり、この言葉が後に変遷して、旦椋になったと考えられている。
説明書きにもある通り、平安時代の延喜式神名帳にも記載されており、非常に由緒のある神社と言える。本殿は江戸時代初期に改築されたが、京都府の登録有形文化財に指定されている。
なお当神社の元の位置については、発掘調査など行われたが、詳しいことはわかっていない。しかしそれらしき遺構が見つかっており、今現在の大久保町旦椋地区に当たると言う。
『式内旦椋神社
[祭神]
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
神皇産霊神(かみむすびのかみ)
菅原道真公 (すがはらみちざねこう)
[縁起]
当旦椋神社は、養老四年(七二〇)の日本書紀に栗隈県の大溝(栗隈大溝)の東側(地名旦椋)に、古社としてあったと伝えられていますが、この社は天文一九年(一五五〇)に焼失しました。
現在の社は、大久保町旦椋の地より永禄九年(一五六六)にこの地に移転再興されたことが、吉田兼右の「兼右卿記」に見えます。また、延喜年間(九〇一~九二三)に編さんされた「延喜式」に記載されている神社を延喜式内社とよび、旦椋神社もその中のひとつです。
本殿は延宝二年(一六七四)に改築されたもので、京都府登録有形文化財(昭和六〇年五月)に指定されました。
(境内立て札より)』
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