切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

源光寺・・・六地蔵巡り   京都市右京区     2024.8.23 訪問

2024-08-30 23:01:33 | 撮影


 源光寺は京福電鉄北野線 常磐駅から、南の方に少し歩けば到着できる。周囲は細い道が複雑に入り込んでおり、車で行く場合には少し離れたところにコインパークを利用することになる。
 源光寺についてみるととにかく車を止めるところがない。一旦通り過ごし細い道を曲がって逆の方向からお寺に近づくと、目の前に源光寺の臨時駐車場という張り紙があった。そこに止めて源光寺に参拝する。

 しかしお寺の周りにはずいぶん人が多く、小さなお寺の境内にも次々に参拝にやってくる。今日は何かあるのかと思いながら寺の正面に回り、撮影を始める。門には横断幕が張られやはり何らかの催事があるようだ。住宅密集地に囲まれた小さなお寺にこれだけの人がやってくるのは、そうとしか考えられない。私自身も境内に入ると、お寺の関係者がお守りやご朱印を用意して待っている。参拝した人たちも女性を中心にご朱印を頂いている人が多い。



 源光寺そのものの由緒書きはなかったが、下記にあるように常盤御前の由緒書きがあった。しかしそれを読んでも何らかの催事が行われるような内容の記述はなかった。寺の関係者に聞けば早かったんだろうが、何か人が次々にやってきて、撮影ではなるべく人が写らないように心がけたが、撮影すること自体が憚られるような雰囲気があって、お寺の人に聞くことはできなかった。

  帰宅してから寺のことを調べると、なんと 8月22日と23日は「六地蔵巡りの日」となっているのだった。ここでようやく納得。六地蔵巡りのお寺についてはもうすでに何箇所か回っている。大きなお地蔵様がよく眺められて撮影もできたところもあれば、見えにくくてあまり撮影がうまくいかなかったところもある。現在六地蔵巡りは昔と違って順番が少し変わっている。
 第1番札所は大善寺。これは伏見区の六地蔵にある。この名前の通り、六地蔵発祥の地としての位置づけ なんだろう。源光寺は第4番札所となっている。

  

 寺の創建、また六地蔵巡りの始まりについては詳細は不明だが、平安時代にまで遡ると言われている。源光寺の元になった山荘は仁和寺の末寺であったが、後に源光寺となり臨済宗天龍寺派の末寺となった。この地では源義経の母である常盤御前が暮らし、また晩年にこの地に戻り没したという。常盤御前の墓がある。
 平安時代初期に小野篁が冥土に行き、地蔵尊を拝むことによってよみがえり、それに報いるために1本の木から六体の地蔵菩薩を彫ったという伝説がある。後にこれが平安京の鬼門である 6箇所に配置され六地蔵となった。ここにお参りすると色々な思いや願いが叶うということで、六地蔵巡りが始まったのではないかとされている。

  後年一時、衰退した時期もあったが江戸期には再興され、または近代においては昭和初期に六地蔵会が結成され、六地蔵巡りも盛んになり現在に至っている。寺そのものは比較的小さい方となるが、歴史的には大いなる由緒を持ち多くの人々に今現在も親しまれているお寺といえる。

  

『常盤御前の由緒書き

「常盤と申すは日本一の美女なり」と義経記に記さ れる程の傾城の美人でありました。
 初め近衛天皇の皇后九条院に仕へ後、源義朝の 側室となりました、平治の乱(一一五九)の時、源義朝 が失命落首。子達と共に大和の里に身を隠します が、母を人質に取られ六波羅に自首します。時の 相国、清盛公はその美貌に心打れ母と子をゆるす 変りに常盤御前を側に置いた。その後、藤原長成 に嫁し、晩年祈王女御建礼門院の例の如く世の無 常を感じ生れ故郷の此の常盤の里に隠棲したと伝 へられる。(寂年治承二年五月十八日)又、平家物語 巻の一の一に鳥羽天皇の皇女八条院の宮瞳子の住まう 常盤殿の下りが出ていますが藤原定家は明日記 〈建永元年七月十六日)。此で八条院を忍び歌を詠ん でいます。「後深草天皇が一時隠れ住んだとも伝えられます」
歌人の藤原為業(一ニ五四〜―三三ニ)が寂念と称して 隠棲したとも伝へられます。
 常盤なる松の願の色見えて 
   梢の月を拝むうれしさ
常盤山源光寺』  (寺内駒札より)

 
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