切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

正念寺・川口天満宮~隅田共同墓地・下奈良下三床地蔵尊~獅子塚跡  京都府八幡市 2024.9.24 訪問

2024-09-28 22:57:31 | 撮影

 この日は京都府八幡市の川口地区から墨田地区方面を回る。国道1号線で木津川を渡り、すぐに北の方に入る。しばらく行くと道はカーブして川口地区の住宅街がある。最初の目的地である正念寺は全く見えない。細い道を入りようやく寺の門の前に到達。車を置く場所がないので、しばらく住宅街を通り抜けて、農地の路肩に駐める。

正念寺

     

 残念ながら閉門状態で柵越しに境内を撮影。境内の奥の方は全く見えず、したがってほんの一部しか撮影できなかった。後は併越しに五輪塔の先端や本堂の屋根などが少し見えたのでそれを撮影するに終わる。浄土宗のお寺で本尊は阿弥陀如来。それ以外は何もわからないが、周辺の住宅や細い道の入り組んだ様子から、おそらく江戸時代からこのような状態になっていたものと思われる。

川口天満宮

 近くに天満宮があったので、ついでに寄ってみる。こちらの方は数年前に訪れてブログにもアップしている。少しだけ撮影してすぐ車に戻る。

   

隅田共同墓地・正念寺千日新墓地

  

 続いて車でわずか200m ほど南に走ると、田畑の真ん中に広い墓地が見えてくる。この墓地は2つの墓地が一緒になっていて、南側が八幡市営の墨田共同墓地。北側が正念寺の千日 新墓地となる。 1箇所の墓地で2箇所が運営していることになるが、おそらく八幡市営の方に駐在員が常駐しているようだ。この日も結構墓参者が訪れていた。
 ここの墓地には無論、一般の市民たちが墓を建てて祀っているが、墓地の入り口に大きな石板に彫刻が施されたものが立っている。この彫刻がなかなか見事なもので、江戸時代末期に彫られたものだと言う。いやが多いにも目立つ存在で、これを見るだけでも価値があると言える。

下奈良下三床地蔵尊

  

 墓地の横を通る道路の角っこに、多くの小さな石像物が並べられている。おそらく風化具合から江戸時代のものであろうと考えられるが、なぜここに敢えて並べられているのかはわからない。おそらく何らかの由来があるのだろうが、色々調べても結局わからなかった。

獅子塚跡

 

 さらに道路を西側へ 走らせしばらく行くと、田畑の中に1本の石柱が立っている。結構離れていても目立つので、こんなところに何かあるんだろうかと気付くはずだ。これが「獅子 塚跡」となる。「塚」と言うから本来ならちょっとした小山のような高い土地があったんだろうと思われる。しかしおそらく農地開発の過程の中で、それらは取り払われ塚の跡だけが残って、石柱が立てられたものだと考えられる。おそらく塚は小型の古墳だった可能性もあるかもしれない。しかし今となってはそうした記録もなく不明のままだ。
 ただこの塚には 伝承が残されている。八幡市の観光関係のホームページに載っていた以下のようなものだ。
 「字サガリというあたりの道の側に一堆の塚あり、小樹生たり。貞観12年(870)7月28日、山城国久世郡二階堂の池に釣り鐘に乗った獅子が降りてきたので、下奈良に住む都当之太夫が池から獅子を引き上げ、身を清めて天神社へ奉じた。その旨を清和天皇に奏上したところ、勅使がやってきて釣り鐘だけ宮中へもって帰ったので、獅子は八幡宮の神前に奉納した。」
 これはこの地域に残された「男山考古録」に掲載されていたものだ。この中にある「八幡宮」というのはほぼ間違いなく八幡市内にある「石清水八幡宮」のことだと言えるだろう。 今や本殿は国宝となった。日本有数の八幡宮社だ。
 石柱の横に小さな石仏が置かれていた。その手前にこれまた非常に小さな祭壇があって、 この塚が今もきちんと祀られているんだろうと思われる。

 

 お寺や神社などというのはほとんどが地図に載っており、そこを目指して行くこともできるし、制限はあっても写真撮影も一定できる。しかし墓地のいわれやこのような塚の存在、 あるいはその謂われなどはなかなか目につきにくい。しかしこうしたところにも歴史的な由緒があり、歴史がある。そうしたものを今もこうして祀っているというのは、ある意味代々 同じ地域に住み同じような仕事を世襲してきた、日本人の心情というものを表しているように感じた。



コメント
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