切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

(北花山)六所神社~(上花山)六所神社 京都市山科区・・・両社の関係は?

2019-03-21 21:42:52 | 撮影

 山科区の北方、花山地区に二カ所の「六所神社」があるということに興味を持って訪れた。
 国道1号線を挟んで、北側の六所神社は区別するために通称、北花山六所神社と呼ばれ、南側にある六所神社は通称、 上花山六所神社と呼ばれている。この両者には何らかの関係があるのかどうか、その点に最大の興味があった。

(北花山)六所神社



『六所神社の起源と北花山

 六所神社は、第五十八代光孝天皇の仁和三年に創立され、伊勢の天照皇大神、尾張の熱田大神、 山城の賀茂大神、 山城の八幡大神、大和の春日大神、近江の日吉大神の六神を奉祀している。 依って、六所神社と稱した。
 当所、元慶寺の開基、遍昭僧正の勸請によって元慶寺の鎮守であったが、 現今は北花山の産土神(氏神)として約千百年の歴史を有している
 北花山は、山科七郷にひとつで、第三十八代天智天皇の時代に、郷名が華頂、第五十代 桓武天皇の京都遷都から花山に変り、天正十七年に、上花山、下花山、北花山に 分割されたが、寛保の時代に、下花山を合併して、今日の北花山となったと言われている。
 なお、明治二十二年二月町村制施行で、宇治郡山科村、大正十五年十月宇治郡山科町、昭和六年 四月に京都市東山区に編入、昭和五十一年十月京都市山科区となった。
 由緒ある六所神社と、古い歴史に彩られた郷土北花山を、後世につたえるため、六所神社大鳥居 の建設に際しこれをしるす。
 平成二年八月吉日 (境内石板説明書きより)

  
 境内に上記のように詳しい説明書きが設置されており、これで基本的なことはほぼ分かる。仁和三年は西暦887年にあたり、平安時代となる。神社としてはそこそこ古い方になるだろう。元慶寺の鎮守であったというが、当初、元慶寺はかなり広大な境内を有する寺院であったものの、その後衰退する。今現在はやや小さめのお寺として、六所神社の東方約数百m のところに位置する。
 六所神社の第一鳥居前に車を置き、コンクリートで固められた参道を上がって 境内に入る。少し広めの境内には拝殿、その奥に本殿が控える。山麓より少し高い所にあり、周囲を樹木で覆われ、いかにも神社らしい渋い雰囲気が漂う。全体的によく整備されており、地域の氏神として慕われているということがわかる。
 本殿の建物はもちろん再建されたものであり、さほど古さを感じさせなかった。建築様式は分からないが、一般的な神社建築の様相を見せている。
 境内の下は東海道本線のトンネルの出入口になっており、頻繁に列車が走り抜けていく。駐車場から見ると山科区中心部が展望でき、列車が走っていく様子が 模型のように見える。鉄道ファンであれば撮影の絶好のポイントになるだろう。
 それはさておき、神社の境内の説明書きにも、あるいはネットなどの情報でも、上花山六所神社との関係は全く情報が無く不明だった。
 続いて1号線を渡ってもう一つの六所神社へ向かう。
       


(上花山)六所神社



『上花山六所神社

本殿御祭神 熊野大神 稲荷大神
      松尾大神 日吉大神
      八幡大神 客人大神
末社御祭神 愛宕大神
例祭日 十月十六日

 天文十二年(一五四三年)、当時の有力者であった比留田氏によリ地域の守り神として創建され爾来、上花山佳民の安寧の拠リ所として尊崇される。
 昭和四十七年には上花山水利組合をはじめ氏子や篤志家の浄財により本殿を再建、併せて祝詞舎及び社務所を新築。
 昭和五十五年には氏子崇敬者の尽力により、末社新築、社務所増築、境内整備を成し遂げる。
 (境内石板説明書きより)

 
 上花山六所神社は国道1号線に面している。参道への入り口は1号線から少し入ったところで、そこからまっすぐ参道が続いている。ここにも説明書きの石碑があって上記の通り。
 これを見ると創建が天文12年ということで、もうこれだけで先ほどの北花山六所神社との関係はないだろうと見当がつく。名前の「六所」というのは、祭神として六神を祀る意味があり、その点では北花山六所神社とも同様だが、祭神自体も異なっているし、たまたま近くに同名神社として存在することになったんだろう。
 こちらも再建され再整備されており、非常に新しい神社に見える。境内は狭くその中に拝殿と本殿があり、神社としても体裁はきちんと整えられている。すぐ横が国道1号線となっていて結構騒音は入ってくる。
 創建に携わった比留田氏というのは、元々は近江国(滋賀県)の有力一族で、後の室町期に山科の地に移り住んだと考えられている。山科のこの近辺にはかつて朝廷の直轄地が多く、 比留田氏はその管理を任されていて、朝廷や公家との信頼関係が築かれて一定の強い勢力を保っていた。「山科郷士」と 呼ばれ、苗字帯刀が許可されており後年、幕末期の様々な戦いなどに戦隊を送り出すことになる。結果的に比留田氏は、山科全域に大きな影響を及ぼすことになるが、ここではその事については触れない。
 なお現在の滋賀県野洲市に、比留田と言う地名が今も残されている。

     

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