なんとなくなんとなく
ある人との会話が
どっちがお釈迦様の手のひら
で転がされたのか
みたいな
転がせようとしたのに
転がされてしまった
なんかそんな感じも
たまに
それはお互い様であり
とらえ方次第であり
例えばこの人の話を
引き出そうとして
ある人のことを聞く
きっとそれはあなたのことが
他の人と話をしてるのが
嫌なんじゃないですか
すると彼はソッカーとなって
そのもう1人の彼女に
そのそれをわかった上で
対応して
そして同時にそれは私のための
鏡であり
私自身もそうなんだっていうこと
を認めざる、をえなくなり
この話はその彼のよく
アンジャッシュ芸人さん
のように
よくできた会話
のように
確かにそれもある
相手の心を探る。
互いの心を探り
自分にあることを確認したいとか
それで嬉しいとか
あるいはそれでお互いが
より良くなっていくとか
いろいろいみなく
ながれ、たまたまとか
いろいろあるかもだけれども
とにかくより良くなっていく
ことでしかだが
でそれはその彼自身にも当てはまる全てが反映し合っていくわけだからその彼にも当てはまり周りの人にも当てはめて全てが自分反映みたいな?、
それを全てを
あーそういうこと何なのかもなぁと
いろんな考えたバージョン表示していく
ことで
あれもし彼がほんとは
ためし、しりたい
感覚にあった時だとすると
逆にはめた本人がはめられて
その彼の意図があった場合は
相手の転がし手のひらで
転がしたつもりが逆に
全てを認め許してしまえば
そんな相手には逆に転がされていく
彼もそんな感覚なんだかと
しらされ
誰の手のひらだったのが
わからなくなる
それは逆の立場にもなったり
転がし転がされ
導き導かれ
きづき気づかされみたいな、
お互い様の中で
そしてあるいじめとか
それにしても
全ては自分の中にあるものを
認めないと
あの人が悪いこのいじめは
ひどいだけに終わるが
自分の中にもそんな感覚があったりして
角度を変えれば
それを誇張してみせてくれて
どっちも自分であり
それも自分の誇張した
表現としてみせてくれている
かのような
そのすべてをあるよね
そんな時あるよ
人間だしと、、
そしていつしか
目の前のそのいじめでさえ
相互理解により
沈静化していく
ものなのかも
それを芯からそう思ってないと
そうならないけど
多分そんな感じそんな気もする
彼もそんなこと言っていた
かのように