てかこの町山氏のようにしっかりと説明せず、プレスも無く、こそこそと日本以外で公開するということは、ターゲットは日本人以外って事だと思うんだけどね。公開しないことを日本国内のせいにされても。
桑田氏もヘイトスピーチについてのクロ現もそうなんだけど、どうも偏っているというか、一方の言い分を全面に打ち出して「どうしてここまでの事態になったのか」という掘り下げがない。だから軽いし、「おまえは何を言っているんだ」という感想しか出てこないんだよ。
アンジェリーナの映画は、本当に日本人にも見て欲しいと思うならば、町山氏のように監督やプレスがしっかりと説明すればいいと思うんだよ。それをしないまま、修正もせず、こそこそと公開するから、余計に反感を抱くということに思い至らないのかと思う。
安倍ちゃんは仏国始め欧州の移民政策の行き詰まりと今回の事件をよくよく鑑みて移民受け入れに慎重になって欲しいぬ。絶対反対とはいわんけど、ただでさえこらえ性のない国民にとってかなりストレスになりかねない事案
日本で出てくるリアクションは、
1)怖いからムスリム移民は反対(信仰する宗教による選別を行え)
2)移民そのものに反対(外国人排斥)
3)移民に反対するのは差別だから、(1)(2)に反対する俺カッケー
4)日本人は和の民族だから日本なら失敗しない
5)日本には敵が必要
これ twitter.com/azukiglg/statu… における、(1)(2)は右派、(3)(4)は理想主義的教条的リベ左派、(5)はある意味確信的はアナーキスト、或いは「溜飲下げ」派の思考として想像されうるものの一例。
んで、(5)の「敵が必要」は、【問題を起こさないために移民を入れるな】という(1)(2)のトラブル忌避でなく、自己の正当性・正義感を満足させるために、大義妙分の元にぶん殴っていい、サンドバッグを、【積極的に欲する】というグループ。
「日本人は気の毒な被害者であるから、正義を背景にして思う存分ぶん殴る側に回っても許される」という溜飲下げ思考は、09年には自民に向けて、11年には原発に向けて、12年と14年には民主に向けて、それぞれ「正義」として発揮されてる。
手に負えない状況に対して、「絶対正義の俺が溜飲を下げる」ための敵てのが、その都度設定され、皆それに「正義感」から乗っかってた。
フランスのケースなんかを見て、「俺も絶対に批判を受けない正義として溜飲下げてえ」っていうグループは一定数出てくると思う。
むしろ、【弱者としてフリーハンドを得たフランス】を羨ましくさえ思ってるかもしれない。「日本もフランスにあやかって歩調を揃えろ」って評論家やジャーナリストや報道が出てきたり、皆がそれにしたり顔で追従したりするのを見てると、そういう気にもなってくる。案外(5)は隠れ多数派かもしんない
ついで。 twitter.com/azukiglg/statu… (4)は、「日本人全てがそう信じていた」としても、移民してくる外国人が同じ考えとは限らない時点で破綻してる。「和を尊ぶ」ことで和が維持されるのは、和の参加者全員が同じ価値観の場合だけだと思うので。
移民というのは、「異なる価値観を、価値観を曲げさせずに受け容れる」か、「移民の価値観を矯正し、治らないものは受け容れない」かという文化修正(強制)を行う必要性があって、「その価値観のままだとうちでは受け容れられない」というのを宗教に対して向けると「信教の自由」と矛盾してくる。
でも、「信教の自由を保障することによって、今度は相手の信教によってそれを受け容れる側の社会が束縛を受け、移民の価値観によって日本側の法・社会制度の変更が余儀なくされる(窮屈になる)」という変化だったら、「受け容れ容認派」は案外簡単に排斥派に転向する気がする。
また、 twitter.com/azukiglg/statu… (3)は教条的理想主義として、声のでかい正義漢が掲げ続けるとは思う。例えば、きっことか、OG弁護士とか、民主党とか、共産党とか、公明党とか。彼ら自身に被害が及ばない間は恐らくそうした人々は理想を叫ぶだろう。(藁人形的憶測ですw
でも、日本もまた例外なく、「ひとたび事が起これば、安全・異質な価値観の強制や排除のための一億総排斥」が起こるとは思う。それは、「もはや排斥など不可能なほどの融合」が進んでから起きるので、一層深刻だろう、とそのように悲観的な未来を予想するなど。
観光地は、「もてなしで財を得るので観光客に優しいが、もてなす相手が気に入って郷の一員になろうとすると、全力で忌避する」という傾向が、割とどこでも強い。「【お客様】へのおもてなしの精神」と「【身内】として受け容れる」は大いに違うよね。 twitter.com/toronei/status…
「風刺画は最低だが、テロは許されない」は「どっちもどっち論」ではない。「テロは許されない」と言う立場を表明するためには風刺画を全肯定しなければならないというなら、それこそ「表現(批判)の自由」を否定する考え方ではないか。低劣な表現に痛烈な批判を加えることは「テロ肯定」ではない。
伊豆VS長崎VS埼玉VS那須は、Facebook ページ『カピバラの露天風呂』のPR合戦をしておりましたが、2015年1月5日(日)に終了し、「いいね」対決の結果は、埼玉の勝利となりました。 #shaboten pic.twitter.com/mVIsWfSlsJ
ああ、怖かったんだな。 QT @afpbbcom:仏紙のムハンマド風刺画、作者が会見 描き終え「涙を流した」 ift.tt/1AYHgFz 世界の最新ニュースはこちらから→ ift.tt/1yk8O3X pic.twitter.com/D82MAwITdf
まあ、宗教の「戒律」てのは、その土地でうまくやっていく(人間関係も気候風土も食供給事情も)ための方便を、「神様がそうしろと言った」という超存在に仮借して守らせるためのものだから、人間関係や気候風土や食供給事情が異なるところでは、郷に入って土地の神様に従うのは理に適ってる(・ω・)
イスラムの戒律にある、「顔や身体を清潔に保つために使っていい水の量まできっちり決まってる」とかのアレなんかは、「水が貴重な気候風土」だから発達したものだ、っていうのを例に取れば分かりやすいと思う。砂漠の民がTシャツ短パンでなく長袖長い裾を引きずるのも理に適ってる。
これは、「日本人」じゃなくて「東京の人」だと思う。地方の人はおもてなしで「家」に呼ぶよ。東京の人のおもてなしは「自分の知ってる一番いい店に連れて行く」であって、おもてなしの哲学が地方と東京だと違うんだよ。 twitter.com/pannacottaso/s…
周囲に「もてなすのに適した店がいっぱいある都会」と「家の料理が自慢のもてなしになる地方」とでは違うし、「外食、中食」が発達した東京のスタンダードを【日本では】と言ってしまうのには無理あると思うなあ。
日本は均質化された一つの文化習俗だと、日本人自身も錯覚しがちなので気を付けたい(´Д`)ノ
僕はイルカ食いだけど大多数の日本人はイルカ食わないし、長野県人は虫を食うけど大多数の日本人は虫を食わないし。「自分」を日本のスタンダードを思ってはいかんという自戒。
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