ご近所の奥様から5月に頂きました「サギソウ」の清楚な美しさが顔を覗かせました。なんだかんだと小喧しい世間をあざ笑うかのように、思いやりの心に似た純白な、誠に、ういういしい花の姿を夏風にそよろと靡びかせておりました。
その写真をどうぞ。真夏の暑さが吹っ飛びます。
ご近所の奥様から5月に頂きました「サギソウ」の清楚な美しさが顔を覗かせました。なんだかんだと小喧しい世間をあざ笑うかのように、思いやりの心に似た純白な、誠に、ういういしい花の姿を夏風にそよろと靡びかせておりました。
その写真をどうぞ。真夏の暑さが吹っ飛びます。
黒日売が天皇の為に菘菜を摘むために出かけた“夜麻賀多<やまがた>”ですが、これについても、又、余分なことですが脱線のついでに書いておきます。興味のあるお方はお読み下さい。
黒日売が住んでいた所は、再度、書いてみますが、「令大坐其国之山方地」、吉備の国の「山方<やまがた>」です。この山方と黒日売が菘菜を摘んでいた”夜麻賀多<やまがた>”とは同じ発音ですが違うのです。古事記伝によると「夜麻賀多」は地名ではなく、「山縣」で「山なる畠」を云うのだそうです。山方にある山の畠です。「やまがた」という同音の言葉を持ってきた云い表し方も古事記の特徴の一つであるとされております。
更に、その“夜麻賀多”で菘菜を摘んでいた黒日売を、
“嬢子<オトメ>”
と書いてありますが、これにも深い意味があるのです。
嬢子、即ち、黒日売は、まだ、此の時、処女であったのです。年齢は特定はできないのですが、たぶん17,8歳の純真な乙女であったと思われます。“夜麻賀多”で、一心に若菜を摘む乙女の姿を見られた天皇は、それが愛しい「黒日売」ではなく、天女か何かの如くにその姿が、とても、新鮮でまぶしく感じられ「嬢子」という文字になって言い表わされたのです。「やまがた」と同様に、これもなかなか面白いと思うのですが。
吉備の山手の「山縣」で「黒日売」が、春の野に出て若菜を摘んだことは、日本には古来から続けられてきた、七草の行事でも知られる通り、何か越し方のさきくまさきくと祈りを捧げる為の大切な行事だったのです。仁徳天皇の吉備への行幸を黒日売初めその関係の多くの人達の幸福を願っての行事だったと思われます。
この若菜摘みの行事は、又脱線しますが、万葉集の最初に出ている雄略天皇の歌として見ることができます。
これも又大変読みにくいのですが万葉言葉で書いてみます。よろしかったら目を通して見てください。めったに読む機会もないと思われますので。
“籠毛與美籠母乳{籠(こ)もよみ籠持ち} 布久思毛{ふくしも} 與美夫君志持{よみふぐし持ち} 此岳爾{この岡に} 菜採須児{菜摘ます児} 家吉閑名{家聞かな} 告沙根{告(つけ)さね} 虚見津{そらみつ} 山跡乃国者{やまとのくには} 押奈戸手{おそなへて} 吾許曾居師{吾こそおらし} 告名倍手{つげなへて} 吾己曾座{吾こそ座(おら)し} 我許者[吾こそは} 背歯告目背(せに)は告げめ} 家乎毛名雄母{家をも名おも}”
これは契沖の「万葉代匠記」を参考にしたものですから、現代の訳とは幾分違っている部分もあります。我々が学んだところは
“籠もよ、み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に・・・”
だったように覚えているのですが、それをどうしてかは分からないのですが、僧契沖は、上のように読むのがよいと言っております。
難波の都から、遠路、はるばると吉備の山方に尋ねてくださった仁徳天皇を、今流行りの「おもてなし」をする“献大御飯<オホミケタテマツル>”ために、黒日売はその“大御羹<オホミアツモノ>”(副食)にと、山の畑に生えている吉備特産の“菘菜”を摘みに出かけます。それを聞いた天皇も、早速、
「黒日売の行ったところへ私も行ってみる」
と、案内を乞うて出かけます。そこは、かって難波で聞いた噂の吉備の山縣(山にある畑)です。高からず低からずの小高い山際が、霞の向こうまで何処までも続いております。春のまだ始じまったばかりです。、梅もその芳香を辺り一面に漂わせ始め、辺り一面の木々は萌葱色を輝やかせております。一枚の絵を見ているように、しばらく、天皇はその美しい風景を背景にして、何もかも忘れてしまうかの如く、そこに佇んでおられます。そんな吉備路の春のおぼろの中に、一心に「菘菜」(若菜)を摘む大変美しい乙女(嬢子<オトメ>)の姿を見つけます。この女性こそ、あの恋焦がれていた黒日売の、夢ではない、本当の生の美しい姿だったのです。
それを目にした天皇は、何もかも忘れたように自然と御歌が口を突いて出て来ます。
天皇が黒日売のいる「山手」までお越しになられて、その膳<カシワ>に奉ったものが古事記には、黒日売が摘んで来た菘菜<アヲナ>を羹<アツモノ>にして出したと書いております。
この「羹」とは、あの「羮に懲りて膾を吹く」の羮です。この場合の「羮」とは、煮立つったばかりのものすごく熱い食物を云うのです。しかし、黒日売が天皇に差し上げた羹は、宣長はその古事記伝で
「阿豆毛乃<アツモノ>で、意味は、“ぬるからず熱きを好しとして”(熱からず冷たからずの食べ物)と説明しています。その例として、蒸<ムシモノ>、茹<ユデモノ>、炙<アブリモノ>、韲<アヘモノ>等がそれであり、吸い物香ノ物など、食事のつける軽い食べ物だそうです。魚とか肉などの副食に添えるごく簡単な物だそうです。
その材料を黒日売が住んでいる近くに取りに行ったのです。