恋しい黒日売を尋ねて難波の都から吉備にk行幸された天皇ですが、古事記お記述には吉備での生活を黒日売と摘んだ菘菜の事を「大変楽しかった」としか書かれて、他の事は一切ありません。何日ぐらい山方に滞在したのか、また、誰がどう饗応したのかなど、聊かも、書かれてはおりません。日本書紀に出ている「兄媛」とは随分と違います。
天皇の御歌“多怒斯久母阿流家迦”で、次は、すぐ、天皇が吉備を去る時の黒日売の歌になっております。
さて、その歌です。
”夜麻登幣邇<ヤマトヘニ> 爾斯布岐阿宣弖<ニシフキアゲテ> 玖毛婆那禮<クモバナレ> 曾岐袁理登母<ソギオリトモ> 和禮和須禮米夜<ワレワスレメヤ>”
現代語訳は「大和へに 西風吹き上げて 雲離れ 退き居りとも 我忘れめや」となります。
余り小難し歌ではありません。黒日売の嬢子らしい思いが込められています。