仁徳天皇は、故郷「吉備」に帰った、恋焦がれていた「黒日売」に逢うために、大后を欺いて吉備の国へ行幸されることになります。その時、余りの嬉しさにに宮殿の高台に上がって歌を歌ったと書きましたが、それは完全なる過ちでした。
これもどうでもいい様な事ですが、どうしてこのような単純な誤ちを私が犯したのかちょっと触れてみたいと思います。
最初、天皇が黒日売が吉備に帰国する際に密かに見送ったのが、宮殿の高台でした。それを古事記には
“瞻望<ミサゲマシテ>”
とありました。此の度も歌を歌ったのはきっと同じ場所で、その書き方も、きっと、「瞻望」だと早合点してしまっていたのです。
しかし、吉備に、いよいよ出で立つ時に立たれたのは、
“遥望<ハロバろニミサゲマシテ>”
と書かれております。「瞻」と「遥」の違いです。この二つの漢字をよくよく考えてみますと、「瞻」というのは「近くから見る」という意味です。逆に、「遥」は、そんなに近距離のものを見る時に使う漢字ではありまませ。ずっと遠方の所を見ると云う時に使う字です。すると、この場合、どうしても宮殿の高台では理屈にあいません。そんなことに気付いたのです。更に、その文章をよくむと、「那邇波能佐岐用」とあります。この中にある「用」という字です。<ヨ>と読んでおります。辞書によりますと、この<ヨ>というのは、「古代日本の「格助詞」で、動作の時間的、空間的な起点を表し「~から」という意味だ。」とありました。
すると、「遥望」は難波の崎から遠くを見据えたらという意味に成ります。
此の歌を詠んだ時、天皇は、既に、船上に人だったということが分かります。
大間違いでした。改めて訂正します。でも、私の失敗を棚に挙げて、こんなことが言えた柄ではないのですが、本当に万葉集って面白いですね。どのような頭の持ち主だったのでしょうか、稗田阿礼という人と太安万侶という人はです。改めて感動を一入にしております。
これもどうでもいい様な事ですが、どうしてこのような単純な誤ちを私が犯したのかちょっと触れてみたいと思います。
最初、天皇が黒日売が吉備に帰国する際に密かに見送ったのが、宮殿の高台でした。それを古事記には
“瞻望<ミサゲマシテ>”
とありました。此の度も歌を歌ったのはきっと同じ場所で、その書き方も、きっと、「瞻望」だと早合点してしまっていたのです。
しかし、吉備に、いよいよ出で立つ時に立たれたのは、
“遥望<ハロバろニミサゲマシテ>”
と書かれております。「瞻」と「遥」の違いです。この二つの漢字をよくよく考えてみますと、「瞻」というのは「近くから見る」という意味です。逆に、「遥」は、そんなに近距離のものを見る時に使う漢字ではありまませ。ずっと遠方の所を見ると云う時に使う字です。すると、この場合、どうしても宮殿の高台では理屈にあいません。そんなことに気付いたのです。更に、その文章をよくむと、「那邇波能佐岐用」とあります。この中にある「用」という字です。<ヨ>と読んでおります。辞書によりますと、この<ヨ>というのは、「古代日本の「格助詞」で、動作の時間的、空間的な起点を表し「~から」という意味だ。」とありました。
すると、「遥望」は難波の崎から遠くを見据えたらという意味に成ります。
此の歌を詠んだ時、天皇は、既に、船上に人だったということが分かります。
大間違いでした。改めて訂正します。でも、私の失敗を棚に挙げて、こんなことが言えた柄ではないのですが、本当に万葉集って面白いですね。どのような頭の持ち主だったのでしょうか、稗田阿礼という人と太安万侶という人はです。改めて感動を一入にしております。