大后石之日売を、淡路島に行幸すると、欺いて難波の津から一路西に向かって帆を上げ、一応、淡路島に到着します。でも、仁徳の心はここに在らずです。その淡路島から
“遥望歌曰<ハロバロニミサゲマシテ>”
此の淡路島に到着して、天皇も、漸く、安堵したのでしょう。
「もう少しで吉備に着く。やっと、あの恋焦がれている恋しい恋しい黒日売に逢える。」
という喜びの心が自然と歌になって現れるのです。
古代人は、このように、常に、歌が生活の一部になっていたのでしょうか、うれしいに付け、悲しいに付け、しばしば、5・7・5や季語などという形式にとらわれないその時の己の心を素直に表現した歌が口から飛び出したのでしょうか書かれていることが多いのです。それだけ現代人と比べておおらかなろ生活ができていたのだと思われるのです。
淡路についた天皇も例外ではありません。その時の歓びの歌が口を突いて、誰に遠慮することなく、咄嗟に、出て来たのです。
“淤志弖流夜 那邇波能佐岐用 伊伝多知弖 和賀久邇美礼婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遅摩佐能志摩母美 由 佐気都志摩美由”
と、大声を出して言ったのでなないかと想像しております。
“遥望歌曰<ハロバロニミサゲマシテ>”
此の淡路島に到着して、天皇も、漸く、安堵したのでしょう。
「もう少しで吉備に着く。やっと、あの恋焦がれている恋しい恋しい黒日売に逢える。」
という喜びの心が自然と歌になって現れるのです。
古代人は、このように、常に、歌が生活の一部になっていたのでしょうか、うれしいに付け、悲しいに付け、しばしば、5・7・5や季語などという形式にとらわれないその時の己の心を素直に表現した歌が口から飛び出したのでしょうか書かれていることが多いのです。それだけ現代人と比べておおらかなろ生活ができていたのだと思われるのです。
淡路についた天皇も例外ではありません。その時の歓びの歌が口を突いて、誰に遠慮することなく、咄嗟に、出て来たのです。
“淤志弖流夜 那邇波能佐岐用 伊伝多知弖 和賀久邇美礼婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遅摩佐能志摩母美 由 佐気都志摩美由”
と、大声を出して言ったのでなないかと想像しております。