「多怒斯久母阿流迦」。これを<タノスクモアルカ>(楽しくもあるか)です。「なんて楽しいことだろうか」という意味になります。
『迦』は詠嘆・感動を表す助詞「か」です。
余程、黒日売と二人して菘菜を摘んだ山縣の出会いが嬉しかったのでしょう。「多怒斯久母」です。読めばただ「楽しい」というだけのものですが、今まで経験されたことがないような初めての体験だったのでしょうか、あたかも、子供のように何もかも忘れて一心に摘んでいる己の姿に天皇自身が感動している様子が目に浮かぶようです。
だが、それから以降、この二人はどうなったかは古事記には何も書かれておりません。何日間、黒日売の館のある山方に留まっていたのか。その父である吉備海部直がどのように饗応したのか。そしてどんな恩賞を頂いたのか。また、黒日売のその後の処遇はどうなったかなど、日本書紀にあるような兄媛に対してなされた応神天皇のような詳しい処遇の記載はありません。
これだけからは、その時の天皇と黒日売とその周りの人々(吉備海部直)の動きは一切分かりません。ただ、「多怒斯久母阿流迦」という8文字からしか想像するだけてす。1~2ヶ月ぐらいは此の地に留まっておられたのではないか???そして、饗応した周りの人達にもそれなりの恩賞が与えられたのではないかと思われますが、書紀にある御友別,兄媛等の吉備津彦一族に与えられたような具体的なものは一切ありません。此の御友別。兄媛の事は応神天皇の時代のことですから、この御友別の子息などが、又、此の仁徳天皇に対しても、本当ならその饗応にあたってもおかしくはないと思えるのですが、そこら辺りのことについも、記紀には、一切触れてはおりません。永遠の謎になっているのです。ここら辺りの記述の差を探しながらを読むのも、また、楽しさがありますよね。