私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

仁徳天皇は黒日売の山手に

2015-08-13 19:55:37 | 日記

 淡路島に行幸すると云って石之日売命を欺ざむいて、黒日売に逢いに吉備の国へ行幸された仁徳天皇は、「山方」、即ち、現在の「山手」の地に到着されます。すると、黒日売は天皇に大御食<オホミケ>を献<タテマツ>ります。
 と書いてあります。ということは、此の書では、何も書いてはないのですが、吉備の穴海一帯を支配していた父親「吉備海人直」や(その名は古事記には何も書かれてはいませんが)その親族一同が仁徳天皇を大いに歓待したことには間違いありません。

 「献大御食<オホミケ タテマツリキ>」

 と書かれております。
 なお、先にあげた、日本書紀では、応神天皇が愛人である兄媛を尋ねて吉備に行幸された折に、兄媛の兄「御友別」が大いに歓迎して

 「為膳手而 奉饗焉<カシハデトナシテ ミアヘタテマツル>」

 したと書かれております。

 この「献大御食」と「奉饗」の違いはそれほどの事はありません。全く同じであったと思われます。要するに、天皇、大和政権という方がいいのかもしれませんが、この事実から、吉備の支配者が完全にその支配下に置かれたことを意味しております。
 それまでは一度たりとも天皇が吉備に行幸することもなかったのです。ということは、あの吉備津彦命が温羅を退治した後も、この応神・仁徳の時代までは、完全にその支配下に置かれていたわけではなかったことを意味しているのです。要するに、孝霊以下孝元・開化・崇神・垂仁・景行・成務・仲哀・神功皇后の時代までが、吉備の国に力が一番あった時代で、大和と覇権を争っていた独立国的な時代ではないかと思うのです。まさにその時代に出来たのが、あの造山古墳の時代ではなかったかと思われます。時間的にすると200年間ぐらいだと思います。だからこそ。その勢力との融合政策の為に利用されたと思われる、景行天皇の后にななられた播磨稲目大郎女の例等をあげることができます。