書紀には、また、このようなことも・・・・
「天皇の2年、百済の池津媛が宮中に采女としてやってきますが、その見眼麗しい異国の女性を見た天皇の家臣である「石川楯<イシカワタテ>」が一目ぼれして、どのような経緯があったのかは詳しくは語られていないのですが、自分の妻にしてしまいます。それからしばらくしてそれを知った雄略天皇は「自分のために、わざわざ百済から献上された美しい姫を・・・」と激怒して、二人を捉え、体に木を括り付けて、桟敷に載せて、火をつけ焼き殺してしまいます。勿論、民衆の眼前で見せしめのための火あぶりの極刑であったことには違いありません。
これが日本の歴史に記されたわが国最初の「火あぶりの刑」です。
なお、書紀には、この極刑を執り行った者を
"大友室屋大連に命じて、来目部<クメベ>を使い・・”
と記していますが、この「来目部」は「久米部」であり、これは本来は久米直が伴造として管掌してきたもので、のちに久米直とともに大伴連の統率下に入って、宮廷の警衛・軍事にあたっていました。中国・四国地方に分布し、岡山県にも「久米郡」があります。
これは雄略天皇の私的な怒りの解消を国家権力を利用して執り行うということですから、それだけ天皇中心の中央集権的な国家が生まれつつあることを意味します。ということは、あれだけ強大な力を保持していた吉備の力の相対的な衰えもこの頃から始まったのではないかと思われますが???
「天皇の2年、百済の池津媛が宮中に采女としてやってきますが、その見眼麗しい異国の女性を見た天皇の家臣である「石川楯<イシカワタテ>」が一目ぼれして、どのような経緯があったのかは詳しくは語られていないのですが、自分の妻にしてしまいます。それからしばらくしてそれを知った雄略天皇は「自分のために、わざわざ百済から献上された美しい姫を・・・」と激怒して、二人を捉え、体に木を括り付けて、桟敷に載せて、火をつけ焼き殺してしまいます。勿論、民衆の眼前で見せしめのための火あぶりの極刑であったことには違いありません。
これが日本の歴史に記されたわが国最初の「火あぶりの刑」です。
なお、書紀には、この極刑を執り行った者を
"大友室屋大連に命じて、来目部<クメベ>を使い・・”
と記していますが、この「来目部」は「久米部」であり、これは本来は久米直が伴造として管掌してきたもので、のちに久米直とともに大伴連の統率下に入って、宮廷の警衛・軍事にあたっていました。中国・四国地方に分布し、岡山県にも「久米郡」があります。
これは雄略天皇の私的な怒りの解消を国家権力を利用して執り行うということですから、それだけ天皇中心の中央集権的な国家が生まれつつあることを意味します。ということは、あれだけ強大な力を保持していた吉備の力の相対的な衰えもこの頃から始まったのではないかと思われますが???