「大悪天皇」と評された雄略天皇ですが、この天皇以前までは、吉備と大和との関係は互いに親密なる関係が保たれそれぞれが王国として独立して、それらの国による連合政権的に倭国が存在していたのですが、中国の宋書に表れる「倭の五王」の時代から少しづつ変化が見られます。その宋書に言う「讃<サン>」(履中天皇)・「珍<チン>(反正天皇)」の時、中国宋朝から「安東将軍・倭国王」という称号をもらっていますから「倭国の王」という地位が承認されています。しかし、「日本書紀」からは、5世紀初めの「天皇」の地位は、完全なる倭国の王ではなく、吉備国などとの連合政権の代用的な存在だったことが分かります。
しかし、その後の宋書には、倭王「武<ブ>(雄略天皇)」の時
"東は毛人五十五国を征し、西は衆夷六十六国を服す”
と書かれていますから、この五世紀後半頃には、倭国が雄略によって、漢書に「分かれて100余国」と書かれていた倭国が統一されたことが分かります。
これも余残ごとですが、あちらこちらから本を引きずり出しながら調べたりしましたので、今日は、たったこれだけの文を書くのに3時間ほどかけました。
しかし、その後の宋書には、倭王「武<ブ>(雄略天皇)」の時
"東は毛人五十五国を征し、西は衆夷六十六国を服す”
と書かれていますから、この五世紀後半頃には、倭国が雄略によって、漢書に「分かれて100余国」と書かれていた倭国が統一されたことが分かります。
これも余残ごとですが、あちらこちらから本を引きずり出しながら調べたりしましたので、今日は、たったこれだけの文を書くのに3時間ほどかけました。