作山古墳の規模の大きさから吉備国が衰退して、どうも河内大和の勢力下に入ったと書いたのですが、では、それについて記紀にはどのように記されているか、又、しばらく見て行こうと思います。
まず、古事記では、この吉備との関係の悪化についてはあまり詳しくは書いてはいませんが、崇神天皇の時、まだ天皇の遺風が及んでいない遠くの地方に将軍を派遣して
"大吉備津彦命を西海道に遣り吉備国を平定した”
と書かれています。この「平定」というのがどのような内容であったかよくわからないのですが・・・・
その後、景行天皇は大吉備津彦命の弟「若建吉備津彦日子」の娘「針間伊那毘大郎女<ハリマノイナビオオイラツメ>」を皇后にして、あの日本武尊を生み、その尊が蝦夷征伐の時、皇后の兄(若竹吉備津彦命の御子)「御鉏友耳建日子」が副将となって派遣されています。
この事実を読むと、このころまでは、この二つの国の関係は、あたかも仲の良い、親戚付き合いのような関係ですね。決して敵対の関係にあるとは思われませんが・・・
その後、成務・仲哀・応神の御代には吉備との関係の記事は古事記には見当たりません。
まず、古事記では、この吉備との関係の悪化についてはあまり詳しくは書いてはいませんが、崇神天皇の時、まだ天皇の遺風が及んでいない遠くの地方に将軍を派遣して
"大吉備津彦命を西海道に遣り吉備国を平定した”
と書かれています。この「平定」というのがどのような内容であったかよくわからないのですが・・・・
その後、景行天皇は大吉備津彦命の弟「若建吉備津彦日子」の娘「針間伊那毘大郎女<ハリマノイナビオオイラツメ>」を皇后にして、あの日本武尊を生み、その尊が蝦夷征伐の時、皇后の兄(若竹吉備津彦命の御子)「御鉏友耳建日子」が副将となって派遣されています。
この事実を読むと、このころまでは、この二つの国の関係は、あたかも仲の良い、親戚付き合いのような関係ですね。決して敵対の関係にあるとは思われませんが・・・
その後、成務・仲哀・応神の御代には吉備との関係の記事は古事記には見当たりません。