BioDoxology

生物と映画と政治とマレー・インドネシア語にうるさい大学生の戯言

孫正義の思惑やいかに

2011-07-15 11:34:31 | 政治
 お久しぶりです。試験はまだ残っていますが、ある程度一段落したのでぼちぼち再開いたします。

 震災後から菅首相と会食を重ね、関係を深めてきているソフトバンクの孫正義社長が、日本の耕作放棄地と休耕田計54万ヘクタールにメガソーラー発電所を建設する「田電プロジェクト」を提唱、35の都道府県知事が駆けつけている。100億円寄付といい今回のプロジェクトといい、孫社長の行動の速さと影響力の強さには恐ろしささえ感じる。社長の決断でソフトバンク全体の方針も相当変わっているわけで、社員の少なくとも一部には「振り回されている」という反感を覚える人もいるだろう。もちろん政府よりは意思の疎通もしっかりしているだろうが、それでも彼のやり方はほとんど菅首相と同じにしか見えないの。なぜ孫社長には「無責任」「やりたい放題」という批判が少ないのだろうか。

 週刊ポストに「あんぽん 孫正義伝」を連載しているノンフィクション作家の佐野眞一氏がテレビ朝日「やじうまテレビ!」で語った孫社長の話が興味深い。佐野氏いわく、孫社長は「空気を読むのがすごく上手い」。今回のメガソーラーも、脱原発に傾きだした世論の空気をいち早く読み、すぐさま行動に移したことが(少なくとも一般国民からの)批判の少なさにつながっているのだろう。慎重を期すというか、だらだら争いや利益確保に追われる故にビジョンの発表が遅れる政府との違いはここにある。また、「在日として差別を受けた経験からハングリー精神が強い」「震災直後に『自分がどんなに非力なことか』と人前で涙を流した。とにかく器が大きい」など、生粋のアグレッシブさが人々をひきつけているが、これは週刊誌でもたびたび槍玉にあげられる「強腕・残酷」という手腕と表裏の関係であり、ともすれば煽動家になりうる危険性がある。

 それが強く見られたのが、先月官邸で行われ、自然エネルギーの普及について論じられた「総理・有識者懇親会」。菅首相が満面の笑顔で「私の顔を観たくないのなら、この法案(自然エネルギーの全量固定価格買取制度を定める法案)を通せ」というと、孫社長が「もう10年くらい続けてほしい。この土俵際で粘って、この法案だけは通してほしい」と盛り上げ、喝さいを浴びた。菅首相が孫社長に手玉に取られているようにしか見えないのは自分だけでしょうか(笑)。日本全体のことを考えているのなら、自然エネルギー法案よりもまずは2次・3次補正予算や特例公債法案の成立を求めるべきである。自然エネルギー法案だけは通せ、という意見は明らかに的外れだ。結局自身のビジネスのことしか考えていないのではないか、と言われても仕方がない。新聞・週刊誌を見る限りで、批判は首相に比べても明らかに少ない理由がわからない。これに対する佐野氏の「彼は大欲なんです。大欲だと、無欲に見えてしまう」という指摘には説得力を感じたけれども。

 そして、孫社長の独断により、ソフトバンク1社だけで日本中の知事を味方につけたことに対し、経団連からは「ほかの民間企業の参入を妨害する」と苦言が呈された。一方で、大規模な経済改革には強力な「政商」が必要だとの意見もある。この状況、ソ連崩壊直後のロシアと驚くほど似ているのである。エリツィン政権時代、鉄鋼・石油・石炭などの基幹産業は国有企業が握っており、旧ソ連の共産党メンバーであった“Red Directors”といわれる実力者の支配下にあった。対して、新生ロシアの新興企業家たちが結束して、これら基幹産業の民営化を求めて争いだした。彼らはRed Directorsの牙城を崩すために、支持率低下にあえぐエリツィン政権と手を結び、彼らが大統領選挙でエリツィンを支持する代わりに、国有産業を低価格で払い下げてもらう、という密約を交わした。その不透明さから”The theft of the century(世紀の盗み)”と批判され、新興財閥となった企業家たちは「オリガルヒ(英語のoligarch、寡頭政治の独裁者)」と称された。しかしエリツィン政権からすれば、これは共産党勢力を追い出して経済改革を進めるうえで払うべきコストだった。

 今回の孫社長の動きも構図はほとんど同じだ。支持率低迷にあえぐ菅政権を手助けする代わりに、自然エネルギー産業への支援を取り付け、独占に近い形で太陽光発電事業に参入する。彼の場合は「寡頭」のoligarchより、「専制」のautocratに近いかもしれない。これも電力会社により固く閉ざされてきた自然エネルギー産業の開拓のためには仕方ないことなのか。

 今や資産は6千億円を超えて日本一の大金持ちとなり、一企業の社長という枠に収まらない影響力を持つ孫社長の動きはこれからも注目、かつ注意しなければならない。自分としては、メガソーラーの建設には賛成したい。何か行動を起こして失敗するより、何もせず放置するほうが無意味だと思うので、行動力の強さは特に今では重宝すべきだ。ただし、本当に休耕田や耕作放棄地をすべて発電所にしていいのか。震災前のTPPをめぐる議論では、こうした土地への民間企業の参入による新しい形の農業が提案されていた。しかしそれも今ではどこ吹く風で、エネルギーのことにしか目が向いていないのは、あまりに世論の盛り上がりに同調しすぎな気もする(先ほどの、空気を読む能力の副作用か)。ここで働くべきなのが政治の力だ。何が真の公共の利益になるかを見極め、時に意見の調整、時に新たな方針の形成を行っていくのが政治の基本の姿だと思っている。…佐々木毅や内山融に影響されすぎな気もするが。

靖国神社

2011-07-04 23:33:36 | 政治
 昨日は同級生と一緒に月島でもんじゃ焼きを食べた後、靖国神社に行ってきた。いろいろと話題になる場所なので、日本人として一度は訪れてみたかった場所だ。

 まず鳥居の大きさに驚く。気のせいかもしれないが、靖国神社の鳥居は柱が普通よりも太いように感じる。木製の一の鳥居も圧巻だが、面白いのは二の鳥居で、何と青銅製。青緑の重厚な作りでまるで遺跡のようである。さらに日本の近代軍制を整えた大村益次郎の大きな銅像が参道の真ん中にあり、図書館や博物館も建っていて、神社にしてはやけに近代的で不思議な空間である。

 遊就館と呼ばれる博物館では、日本建国から終戦までの歴史を見ることができ、大砲・戦車・戦闘機も多数展示されている。そして靖国神社だけあって保守色が強い。まず、年を表すのに西暦ではなく、必ず元号が使われている。主な解説文には英訳がついており、そこでは西暦が使われているので、かろうじていつのことかわかるありさまだ。古代・中世にかけて紹介される人物には、やはり新田義貞や楠正成、大石良雄(赤穂浪士の大石内蔵助)といった武士道の鏡と称される人も多い。近代以降になると保守色はさらに鮮明になり、日清・日露戦争のブースは、もう連戦連勝、日本は強い国!といった気分にさせてくれるくらいに勢いのよい記述で占められている。上映されていたビデオでも、「奉天海戦は、日本軍の大勝利に終わったのである!」と叫ばれていた。また、日中戦争・太平洋戦争は、支那事変・大東亜戦争の呼び方で統一されている。もちろん宗教法人である靖国神社には思想の自由があるので何も悪くない。

 ただ気になったのは、英訳のつく場所が若干偏り気味な点である。日清・日露戦争のブースでは、メインの解説は日本軍の勝利に関するもので、個々の展示品の近くにある小解説で二〇三高地などでの犠牲者に関し言及している。このうち、英訳がついているのはメイン解説の部分だけ。英訳だけ読み進めていくと、まるで無傷で日本が解消したような印象になる。反対に、大東亜戦争のブースになると、ミッドウェー海戦以後は日本軍の悲惨かつ壮絶な玉砕ぶりが英訳つきのメイン解説となり、また特攻隊員など戦没者の遺書や手紙にも英訳つきのものが出てくる。一転して、日本人がいかに悲劇に見舞われ、いかに多数の若者が国のために散って行ったかを読むことになり、ここまで落差が激しいと、外国人の人々は困惑するのではないかとも思う。翻訳箇所にバイアスをかけるのはいかがなものか。全体の思想以上にそちらのほうが問題だろう。

 ただ、月並みな表現にはなるが、自分と都市の変わらぬ若者の遺書を読み、自分ほどではないにしてもあまり強靭そうではない人も含めた大勢の戦没者の写真を見れば、崇拝するとまではいかなくても神妙な気持ちにはなる。ここから、彼らが命をささげて守り通した国に報いよう、と考えるか、こうした悲劇を起こさないために平和を維持しよう、と考えるかは難しいところである。

 それなりにいろいろ考えさせられる靖国神社だったが、同級生は7月13日から16日に開かれる「みたままつり」のポスターの女優を見て「この人美人だ!」と連呼していた。「癒されるわあ」と、みたまを癒す前に彼自身が癒されてしまっている。彼は過去に8月6日を選んで広島を訪れており、今年は長崎を訪れる予定だという志の高さを持ち、将来の人生設計についてもしっかり考えている素晴らしい人間だが、このように時々変な方向に行きがちで不思議である。月島のもんじゃ焼きをとても楽しみにしていて、期待通り美味しく感じたようで何よりだが、2枚目の普通のお好み焼きを「焼けるよ」と言って自信満々に焼き、見事に失敗してくれた。将来は大物になるか、眠れる獅子のまま終わるかのどちらかだろう(笑)。

 ちなみに、ポスターの女優は渋谷飛鳥という人で、自分が以前観たB級ホラー映画「神の左手悪魔の右手」に出ていた人である。2000年代の邦画で断トツの最低作品といわれる「デビルマン」にも出演している。「デビルマン」は一度観たい作品だが、他に優先したい映画もあるので、彼に観てもらうとでもしよう。

 追伸:自分が予備校に通っていて時代の先生のブログ「もぎせかブログ館」をリンクに登録させていただきました。このブログよりよほどすぐれているのでぜひご覧ください。なお、来週大学の試験などがあって忙しいので、しばらく更新をストップさせていただきます。申し訳ありません。楽しみにしている方などいらっしゃらないでしょうが、とりあえずお知らせまで。

映画4 「激突!」

2011-07-03 21:16:55 | 映画
 最近目立った政治の動きがないうえ(国会は首相の辞任条件に野党が反発して9日も審議を停止していたという笑止千万な状態で本当に腹立たしい)、大学の勉強に追われてnatureが読めていないので、当分映画ネタでつなぎます。昨日は名作映画50本を週替わりで上映する「午前十時の映画祭」の作品の一つ「激突!」(1973)を観てきた。

 (以下、ネタバレを含みます)

 高速道路を走行していた主人公が、前を走るタンクローリーが邪魔で追い越した途端、そのタンクローリーに追いかけられるというサスペンス映画である。当時無名だったスティーブン・スピルバーグの出世作で、当初テレビ放送用の映画だったがアメリカであまりにヒットし、はては映画祭で賞をとってしまったため、日本では劇場で上映されたという逸話を持つ。

 …つまらなかった。サスペンスものなのに終盤では寝落ちかけてしまった。「スピルバーグの天才的手腕がさえわたり」などと褒めちぎられていたのに、なぜ…。

 確かに、何の理由もわからず追われ続ける不条理というアイデアは面白いし、主人公とその車、そしてタンクローリーだけで成り立つところは低予算のテレビ映画にぴったりで、うまくできている。ただ、カメラワークなどの演出が弱かったためか、スピード感やスリルがいまいち感じられなかった。一番サスペンスを感じたのは、主人公がレストランで考え込んでいる時に突然料理が「ドン!」とテーブルに置かれたシーンで、タンクローリー関係なし。

 何が起きるかわからない、あるいは予期せぬことが起きるような場面はサスペンスとして成り立ちやすいが、車で追われ続けるといった状況は、切迫してはいるものの、取り合え是この先走り続けるであろうことはわかる。そのため、そのため、スリルを持たせるには主人公と同じ立場になって焦りを感じられるような演出力が求められてくる。そこがこの作品では足りなかったのだろう。おそらく低予算のために、使えるカメラの種類、性能も限られていただろうから、仕方ないともいえる。

 また、すでに見たことのあるようなシーンが多かったことも痛い。これは古典映画を観るときに必ずついて回る問題だが、ある映画で斬新な手法が使われてヒットすると、必ずそれに対するオマージュ、あるいは模倣が生まれてくる。その模倣作品を初めて観た世代にとっては、オリジナルの作品に既視感を抱いてしまう。さらに、時代が進んで技術が進歩すれば、模倣のシーンでもオリジナルより見事に作れてしまうので、ますますオリジナルを観たときの新鮮さが感じられなくなる。こうなると、古典映画を当時と同じ気分で味わうのは不可能になってしまい、いつも悩ましいところなのだ。

 今回の「激突!」も、高速のカーチェイス、クライマックスでがけから派手に落ちる車など、後年のスピルバーグ作品やほかのアクション・娯楽映画で見覚えのあるシーンが多かった。特にカーチェイスは、つい先日に見た「ダークナイト」と比べるとどうしても劣って見えてしまう。これは当たり前の話で、40年近く前のテレビ映画と細心のハリウッド対策を比べること自体に無理がある。ただ、どうしても興奮度合いが違うことは否定できない。つらいところだ。

 古典映画はこんな複雑な感想を持つことが多く、当たり外れが激しくなりがちである。「スターウォーズ」「鳥」「タワーリング・インフェルノ」「羊たちの沈黙」「空の大怪獣ラドン」「新幹線大爆破」など、当時ならどれだけ興奮しただろう、と感じる惜しい作品も多い。それでもまれに、「サイコ」「椿三十郎」「2001年宇宙の旅」など、今でも十分に衝撃的なものがある。午前十時の映画祭は学生なら500円とリーズナブルで、古い名作映画をスクリーンで見られる機会もそうない。なので、興味のある作品は見続けようと思っている。

 個人的評価:☆☆