BioDoxology

生物と映画と政治とマレー・インドネシア語にうるさい大学生の戯言

近親結婚、ダメ。ゼッタイ。(1)

2012-01-27 23:23:10 | 生物
 超久々の生物記事。課題で専門的な論文を読まざるを得ず、ここで紹介したいような派手さのあるものが読めていないためである。そんな中、課題に近親結婚に関する論文が出た。とても面白いので、2回にわたり、近親結婚はなぜいけないのか書いてみる。

 「近親結婚は血が濃くなるから危ない」とよく言われるが、「血が濃くなる」とはどういうことか?これにもDNAがかかわっている。DNAは遠い昔に述べたように、生物を形作るブロックのようなアミノ酸の組み立てマニュアルのようなもの。このマニュアルが、生物の細胞1個1個の中に入っているわけだが、実は細胞1個につき、2冊のマニュアルが入っている。1冊は父親由来、もう1冊は母親由来だ。

 …昔、こんな風に突然「父親由来・母親由来」と言われて混乱したものだが、自分が書くほうに回るとやっぱり使ってしまい悲しい(笑)。ここでいったん横道にそれて、この言葉の意味から考えていく。生物は莫大な数の細胞からできているが、元はたった1個の細胞から始まっている。最初の細胞は、父の精子と母の卵子が合体してできた受精卵と呼ばれるものだ。精子と卵子はそれぞれマニュアルを1冊ずつ持っていて、合体したことで受精卵は2冊のマニュアルを持つ。で、ここから受精卵が分裂し続けて数を増やし、必要に応じてマニュアルを開き、指示に従ってアミノ酸を集めてタンパク質という作品を作り、生物の形になっていく。



 大事なのは、分裂するときには2冊のマニュアルを完全コピーして、分裂語の2個の細胞どちらにも、元通り精子からのマニュアルと卵子からのマニュアルが入る、という性質である。この完全コピー(「複製」という)は、タンパク質を作るときにマニュアルであるDNAの必要ページをコピーして現場用メモのようなmRNAを作る過程(「転写」という)とは違う。前頁、隅から隅までしっかりコピーして、しっかり糊付けして冊子の形にする。

 こうして、生物の細胞には必ず2冊のマニュアルがあるのだが、子供を作るときは話が違ってくる。雄なら精子を、雌なら卵子を作るのだが、どちらにも2冊のうち1冊しか入っていない。大まかにいうと、2冊入った細胞がマニュアルの完全コピーをしないまま分裂することで、1個の細胞に1冊のマニュアルしか入れないで作ったものが精子や乱視なのである。そして、精子と卵子が合体し、マニュアル2冊を持った受精卵ができると、初めと同じことを繰り返して、生物になる。こうして子孫ができていく。



 しかし、どうしてわざわざ2冊マニュアルを作り、父と母から1冊ずつ渡すなどという面倒なことをするのか?ズバリ2冊あると便利だからである。マニュアルことDNAは基本的によくできているのだが、たまに誤字・脱字、乱丁・落丁のようなミスがある。そうすると、誤字のせいで支持を間違って変なタンパク質ができてしまったり、落丁のせいでそもそも図面がないためタンパク質を作れなかったりしてしまう。そのせいで、生物の体をまともに作ることができず、病気になってしまう。でもこの時、もう1冊マニュアルを持っていて、そこではページに間違いがなければ安心。そちらを読んで、まともなたんぱく質を作れる。2冊のマニュアルはお互いのミスを補うことで、生物の体を正しく保っているのだ。逆に言えば、全く同じマニュアルを持った細胞は、ミスが補えず、病気になりやすくなる。



 それを起こしかねない原因こそ近親結婚なのである。例えば、兄弟で結婚することを考えよう。父がAとB、母がCとDというマニュアルを持っていたとする。すると、父はAを持つ精子とBを持つ精子がるくれ、母はCを持つ卵子とDを持つ卵子を作れる。この時、合体してできる受精卵、将来の子供の2冊のマニュアルの組み合わせは、AとC、AとD、BとC、BとDの4通りだ。いま、長男がAとC、長女がAとDを持つ受精卵からできていたとする。この男女が子供を作ろうとすると、長男の精子のマニュアルはAかC、長女の卵子のマニュアルはAかD。で、受精卵のマニュアルの組み合わせは、AとA、AとD、CとA、CとDの4通り。出ました、AとA。全く同じマニュアルを持った受精卵ができてしまった。



 こんなことはいとこが結婚しても起きる。話を簡単にするために、父の持つマニュアルAだけを考えよう。兄弟が生まれたとすると、どちらも父からはA化Bのマニュアルを受け継ぐから、2人両方がAを受け継いでいる可能性もある。この兄弟がどちらも結婚して子供が生まれたとすると、子供は父親である兄弟の持つマニュアルのうち片方を受け継ぐ。だから、子供2人が両方ともAを受け継いでいる可能性もある。そしてこの2人はいとこだ。この2人が結婚すれば、その子供がどちらからもAを受け継ぐかもしれない。やっぱりAとAを持つ可能性がある。



 というわけで、同じ親から生まれた子どもたち、あるいはその子孫たちは、同じマニュアルを受け継いでいる可能性があり、子孫同士が結婚して子供を作ると、子供には同じマニュアルが2冊受け継がれかねないのだ。近親結婚の危なさである。これが「血が濃くなる」の意味するところ。同じDNAのセットを持ち合わせてしまうことが危ないのである。そんな危なさを思いっきり示してくれたのが、中世から近世にかけて活躍したヨーロッパの名門一家、ハプスブルク家。彼らの身に起きた悲劇を、次回解説。

映画(15) 「八仙飯店之人肉饅頭」

2012-01-14 00:21:12 | 雑記
 まことに遅ればせながら、あけましておめでとうございます。開設当初に比べ、案の定すっかり更新が滞りがちになってしまった当ブログですが、たとえゾンビといわれようとも続けます。よろしくお願いします。

 昨年中に報告できなかった、12月28・29日にかけて自宅で開催された第二回最低映画祭。高校の同級生を1日目には2人、2日目には4人招待し、集まったメンバーも作品も素晴らしく不毛、非常に意義のある催しとなった。

 1日3本駄作映画を鑑賞すると立ち直れなくなる、という第一回の反省を踏まえ、今回は駄作2本のあとに傑作1本、という組み立てて行った。上映作品は、
1日目:「シベリア超特急」「千年の恋 ひかる源氏物語」(以上駄作)「八仙台飯店之人肉饅頭」(傑作)
2日目:「アタック・オブ・ザ・キラートマト」「さよならジュピター」(以上駄作)「シャイニング」(傑作)
である。1日目の傑作「八仙台飯店之人肉饅頭」は見た目や評判からして、2日目へのつなぎ役にふさわしいB級傑作、2日目の傑作「シャイニング」は鬼才キューブリック監督、評判もとてもよいアブノーマルA級傑作という位置づけとしていた。

 で、実際に鑑賞を終えての印象だが、駄作枠で素晴らしかったのは「アタック・オブ・ザ・キラートマト」。いや、もう批評しようがない。ひたすら、おまぬけギャグのオンパレード。確信犯的なくだらない作風といい、突如ミュージカルのごとく挿入される歌といい、ことごとくツボにはまる素晴らしい駄作だった。表現が矛盾しているとお感じになる方は、一度ご鑑賞あれ。この言葉の意味が分かるかと存じます。この作品を進めてくださった大学の同級生のお父様に感謝。

 しかしこのトマトをもはるかに上回る衝撃だったのが、最後の「シャイニング」、ではなく、意外にもつなぎ役の予定だった「八仙台飯店之人肉饅頭」。そこで今回はこれをピックアップだ。

 (以下、ネタバレを含みます)

 マカオの海岸で切断された人の手足が発見された。捜査を進める警察の前に浮上したのは中華料理店「八仙台飯店」の店主、ウォン。警察の聞き込みにあいまいな答えを続け、自慢の肉まんを手土産に半ば追い返すように警察をあしらったウォンの正体は、自らのいかさま麻雀を見抜いた人間を殺害し、バラバラにしてその肉を店の肉まんに混ぜ込む殺人鬼だった。

 本作を語るのには、今までのような長ったらしい批評は必ずしも必要ない。要約すれば、とにかくこの一言に尽きる。

 すげえ。

 まあこれだけだとなんのレビューにもならないので多少付け足すと(笑)、この映画は「ただすごいだけの映画」なのだ。これまで見てきたバイオレンス映画といえば、「女囚さそり」「愛のむきだし」「冷たい熱帯魚」のように、キャラ設定やセリフでうならせ、演出でも押しの強いものが主流で、いわば「すごくてひねくれた映画」。ところがこの「八仙台飯店之人肉饅頭」は、それらとは一線を画す。ことグロ方面に関して言えば、奇をてらったキャラも演出も極めて少ない。殺人鬼ウォンは、「冷たい熱帯魚」の殺人鬼村田のような威勢のいいセリフも履かなければ茶目っ気たっぷりな動きもしない。巧妙な隠ぺい工作もトリックも使わず、頭脳バトルもくり広げない。きわめて一般的な、ある意味「雑」な殺人犯として描かれる。彼の行動パターンはただただ普通、いや普通よりも頭が悪いかもしれない。動機も突発的なものばかりで、二時間ドラマレベルかもしれない。しかしただ一つ、行動の中身がとてつもなくぶっ飛んでいる。こいつの殺人のやり方はやばい。やばすぎる。予想をことごとく裏切る攻撃方法だ。特に湯呑と割りばしの使い方。何だあれは?誰がこんな方法を考えたんだ?衝撃的すぎる。

 そしてクライマックスの殺人は、そうした予想外の方法すら使わず、ただ直球勝負の殺人。これがものすごく怖い。いかれた人格をほとんど見せない分、とにかく生々しくて、リアルだ。その恐ろしい動きと、暴力的なきらいはあるが見るからに狂人という雰囲気ではないウォンのキャラクターの微妙なギャップが、ほかの映画には見られない、不快感ともカタルシスとも言えてしまうような摩訶不思議な気持ち悪さを与える。

 殺人シーン以外にも、警察に逮捕され、理不尽という言葉ではすまされないような拷問を受け、証拠もないのに刑務所にぶち込まれ、さらに囚人にリンチされるという、日本では絶対に思いもつかない一連のシークエンスにも絶句する。そしてそこから何とか抜け出そうとするウォンの行動がまたすごすぎる。言われてみれば合理的ではあるが、「そんなことしないだろ?」としか思えないことを次々やってのけるのだ。この脚本を書いた人は、天才か?

 さらに言えば、本作の警察も極めてやばい。警察はとことん、しょうもないギャグを繰り返す輩として描かれており、そこだけ見れば「アタック・オブ・ザ・キラートマト」と似たようなものだ。しかしその警察が、お茶らけたテンションのままで、見るに堪えない拷問を繰り返す。しまいには看護師までにこにこ笑いながら拷問に加担する。おかしい、おかしいだろ。性格と行動のギャップが激しすぎる。ここでもまた、ギャップが妙な気持ち悪さをもたらす。

 従来のバイオレンス映画とは全く違う本作のキャラ設定は、我々が知らぬ間に「グロ映画といえばこうだろう」と前提してしまっていた枠組み―かっこつけていえばパラダイム―をぶち壊す。これだ。こういうのを、革命的な映画というのだ。やられた。感服した。クライマックスであまりの恐ろしさに涙した。「時計じかけのオレンジ」以来2度目だ。でもこちらのほうがもっと凄まじい。とんでもない映画に出会ってしまった。近所のローカルレンタル店で、レンタルすら終了して買い取るしかなかった本作のVHS。たったの200円で、これほどの衝撃を見ることができるとは。こういう時には、このセリフを。

 いやあ、映画って、本当にいいもんですねー。

 「シベリア超特急」の監督・脚本・主演を務められた名評論家、水野晴男さんに捧ぐ。

 個人的評価:☆☆☆☆☆